スピリチュアル・ライフ by birch99

スピリチュアリズムを小脇に抱えて・・・スピリチュアルな視点で日常を綴ります。

1.条件(2)

2012-01-13 18:23:00 | ◆いかにして超感覚的世界認識を獲得するか
○内的生活の開発

超感覚的認識を求める人はこの感情を自分で自分の中に生み出す努力を重ねなければならない。そして自分の魂をこの感情で充たさねばならない。このことは勉学によっては達成されない。その達成は生活を通してのみ可能となる。したがって神秘学徒たらんとする人は畏敬の気分に向けて真剣に自己を教育しなければならない。そして讃美と崇敬の対象となりうるものを、環境や体験のいたるところに探し求めねばならない。

日々の各々の生活の中で、自分の周りの環境や、自分の体験の中に畏敬の念を生み出すものを探す。
そして、その畏敬の念の対象は、人の中にも、人の作り出したものの中にも、動物や植物、地球から宇宙まで、ありとあらゆる生命・事象に遍満している。


誰かと出会い、その人の弱点を非難するとき、私は自分で自分の中の高次の認識能力を奪っている。愛をもってその人の長所に心を向けようと務めるとき、私はこの能力を貯える。神秘学徒は常にこの点に留意し、この指針に従うことを忘れてはならない。繰り返し、繰り返し、あらゆる事柄の中の優れた部分に注意を向けること、そして批判的な判断をひかえること、このような態度がどれ程大きな力を与えてくれるか、このことを熟達した神秘学者はすべてよくわきまえている。しかしそれが外的な生活規則に留まっているのでは、何の意味もない。それはわれわれの魂のもっとも内なる部分で有効に働いていなければならない。

影を見るのではなく、光を見ようと努力する。

畏敬・尊敬・献身・讃美・崇敬・敬意→高次の認識能力を蓄える。
批判・裁き・酷評・軽蔑・非難は→高次の認識能力を奪う。

「長所に心を向けようと務める」という態度は、どのような場面にもありますね。人を育てようとする行為の中では重要な事柄だと思います。教師が子どもに対して、その子の良い面を伸ばそうとする心がけもそうでしょう。

孔子の言葉に「罪を憎んで人を憎まず」があります。同様の言葉が聖書にも書かれているようです。相手自身を非難しようとせずに、相手の言動や行動を非難するという態度であれば、内的生活の開発には障害にならないと思うのですがいかがでしょうか。


まじめに、あなたなりの最善を尽くすことです。そして他人に対して寛容と慈悲の心を向けてあげることです。それができるということが進化しつつある霊の証です。人間は誰一人として完全な者はいません。煩悩をそなえた存在であり未熟であるが故に、時には的はずれのことを考えて間違いを犯すものです。だからこそお互いに寛容と慈悲と受容性と愛が大切となるわけです。(シルバーバーチの霊訓12 P72-3)

悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。(シルバーバーチの霊訓12 P95-6)


「魂のもっとも内なる部分で有効に働いていなければならない」とはどういうことなのでしょうか?形式的に対象物・事象に接するのではなく、単なる知識によって上辺だけを見るようなものでもなく、言葉では現し難いですが、「魂の琴線に触れる」ということでしょうか。ただ単に「知る」のではなく魂の肥やしになるように感じなければ意味がないということでしょうか。
畏敬の念と同じ分野に入るであろう「祈り」について、シルバーバーチは下記のように語っています。

祈りとは、自己の限界を悟り、同時に(逆説的になりますが)内部の無限の可能性を自覚し、それを引き出してより大きな行為へ向けて自分を駆り立てる行為です。魂の必死の活動としての祈りは、魂が地上的束縛から脱してより大きな表現を求める手段であると言えます。そうすることによって高級界からの働きかけに対する受容力を高め、結局は自分の祈りに対して自分がその受け皿となるーつまり、より多くのインスピレーションを受けるに相応しい状態に高めるということになります。大自然の営みを変えようとして大勢で祈ってみても何の効果もありません。(シルバーバーチの霊訓3 P222-3)