ここで読者の皆様に、重要なことを認識しておいて頂きたいと思います。これはあら
ゆる状況の判断に際して共通していることですが、外側からくる情報は、それが書物
であれ人の意見であれ、あるいはインスピレーションのようなかたちを採って心に生
じたものにしても、決して鵜呑みにせず、それまでに得たあらゆる知識や直観を総動
員して、その時点で自分の到達できる最も高い意識状態において、内側から識別する
ことが非常に大切です。そして、もし自分で確かめることができないものであれば、
その問題については判らないと言うことを明確にすべきです。単なる好みで、確かめ
ていないことを自分の考えにしたり、安易に受け売りにして人に伝えたりした場合に
は、後でそれなりの責任を取らなければならなくなることを覚悟して下さい。
自分以外からもたらせる情報、またその情報による各々各人の潜在意識に蓄積された
関連付けられたインスピレーションさえも疑ってかかるべきであるということでしょ
う。たとえそれが高級霊からの情報だとしてもです。自分自身に根を下ろすが如く、
文字通り「腑に落ちる」ものでなければ、その情報を理解できているとは言えないと
いうことです。また、その情報に繋がり、表現される言葉が、ともすれば全部正しい
だろうと感じても、それが憶測であるならば、自分の精神とのズレが生じ、表面だけ
をなぞるような伝言ゲームで調子に乗って他者に伝えてしまえば、責任が生じカルマ
となるわけです。
心は未体験のあるものについて外部から情報が提供されると、それについての何らか
の心象や観念を造り出す働きをします。この観念はその人の極めて限られた経験の中
で組み立てられた推測に過ぎないもので、智慧、すなわち普遍意識の展開に因る正し
い認識とは全く異なるものですが、いかにも真実であるかのように、その人の識別心
を幻惑する作用を持っています。ところが普遍意識は、偽物、すなわち心の中で造り
出された一切の心象や観念が消え去った状態でのみ顕現されるものですから、説明す
ることは一見親切なようで、真実が顕れるのを妨げる障害物をわざわざ築くような、
お節介になってしまう場合も非常に多くあり、そのことに対する注意を促しているわ
けです。
この辺りが非常に難しい判断を強いられるのではないかと思います。感動する言葉や
語句に接し、これこそが探し求めていたもの、捜し求めていた真理だと感じ、傾倒し
ていく場合も多いのではないかと思います。しかし、数年経てば、その言葉や語句が
色褪せてしまったり、のめり込むほどに違和感が生じたりすることもあります。自分
で造り上げている自分自身の潜在意識のカゴを大きく広げていき、自我、小我からの
判断領域を減らしていくことにより、より正しい視点で普遍意識に近い状態からの選
択や判断がなされるように思います。例えば、撮りたい被写体が目の前に現れた時、
すぐにシャッターを切れば撮れるわけですが、構図の事を優先し、太陽の位置、シャ
ッタースピード、露出設定などに囚われてチャンスを逃すという、いわゆる「知識が
邪魔をする」こともあるわけです。
観念はいわば地図のようなものです。地図はある場所の状況を知るには大変便利な道
具ですし、地図なしに旅に出れば、自分のいる場所や目的地の見当が全く付かずに、
途方にくれてしまうかもしれません。しかし同時に地図はあくまでも一枚の紙切れで
すから、地図を見ることと、実際にその場所に行って地図が表わしている世界を体験
する行為とは、全く違った出来事であるわけです。つまり、普遍意識の理解について
は体験が全てに優先するものであって、自我意識によるどんな推測も、その代用には
なり得ないのです。
本書をお読み頂くにあたっても、自我意識がいつもやるように、自分の過去の経験と
関連させて心の中に何らかの観念を造り出したのであれば、それは単なる知識であり、
あなたの魂にとっては制約をひとつ増やしただけに過ぎません。しかしながら本書の
内容が切っ掛けになって、あなたの内なる自己、遍在する普遍意識の展開を促す心の
変容を起こすことができたのであれば、本書の書かれた目的は成就されたことに成り
ます。
要するに頭であーだこーだ考えたり、知識を幾ら持っていても、体験しなければ解ら
ないということですね。「百聞は一見にしかず」ということです。ですから、この「
黎明」に書かれていることも地図として受け取ればよいのだと思いますし、読み込む
につれて自我意識を客観視できるようになってくれば、入ってくる情報に対しても、
段階的に処理ができるようになるかもしれません。この本の素晴らしいところは、あ
る程度、情報を伝えたら、必ず、自我意識による理解の警鐘を鳴らしているところだ
と思います。
黒文字部分:「黎明・上巻」より
ゆる状況の判断に際して共通していることですが、外側からくる情報は、それが書物
であれ人の意見であれ、あるいはインスピレーションのようなかたちを採って心に生
じたものにしても、決して鵜呑みにせず、それまでに得たあらゆる知識や直観を総動
員して、その時点で自分の到達できる最も高い意識状態において、内側から識別する
ことが非常に大切です。そして、もし自分で確かめることができないものであれば、
その問題については判らないと言うことを明確にすべきです。単なる好みで、確かめ
ていないことを自分の考えにしたり、安易に受け売りにして人に伝えたりした場合に
は、後でそれなりの責任を取らなければならなくなることを覚悟して下さい。
自分以外からもたらせる情報、またその情報による各々各人の潜在意識に蓄積された
関連付けられたインスピレーションさえも疑ってかかるべきであるということでしょ
う。たとえそれが高級霊からの情報だとしてもです。自分自身に根を下ろすが如く、
文字通り「腑に落ちる」ものでなければ、その情報を理解できているとは言えないと
いうことです。また、その情報に繋がり、表現される言葉が、ともすれば全部正しい
だろうと感じても、それが憶測であるならば、自分の精神とのズレが生じ、表面だけ
をなぞるような伝言ゲームで調子に乗って他者に伝えてしまえば、責任が生じカルマ
となるわけです。
心は未体験のあるものについて外部から情報が提供されると、それについての何らか
の心象や観念を造り出す働きをします。この観念はその人の極めて限られた経験の中
で組み立てられた推測に過ぎないもので、智慧、すなわち普遍意識の展開に因る正し
い認識とは全く異なるものですが、いかにも真実であるかのように、その人の識別心
を幻惑する作用を持っています。ところが普遍意識は、偽物、すなわち心の中で造り
出された一切の心象や観念が消え去った状態でのみ顕現されるものですから、説明す
ることは一見親切なようで、真実が顕れるのを妨げる障害物をわざわざ築くような、
お節介になってしまう場合も非常に多くあり、そのことに対する注意を促しているわ
けです。
この辺りが非常に難しい判断を強いられるのではないかと思います。感動する言葉や
語句に接し、これこそが探し求めていたもの、捜し求めていた真理だと感じ、傾倒し
ていく場合も多いのではないかと思います。しかし、数年経てば、その言葉や語句が
色褪せてしまったり、のめり込むほどに違和感が生じたりすることもあります。自分
で造り上げている自分自身の潜在意識のカゴを大きく広げていき、自我、小我からの
判断領域を減らしていくことにより、より正しい視点で普遍意識に近い状態からの選
択や判断がなされるように思います。例えば、撮りたい被写体が目の前に現れた時、
すぐにシャッターを切れば撮れるわけですが、構図の事を優先し、太陽の位置、シャ
ッタースピード、露出設定などに囚われてチャンスを逃すという、いわゆる「知識が
邪魔をする」こともあるわけです。
観念はいわば地図のようなものです。地図はある場所の状況を知るには大変便利な道
具ですし、地図なしに旅に出れば、自分のいる場所や目的地の見当が全く付かずに、
途方にくれてしまうかもしれません。しかし同時に地図はあくまでも一枚の紙切れで
すから、地図を見ることと、実際にその場所に行って地図が表わしている世界を体験
する行為とは、全く違った出来事であるわけです。つまり、普遍意識の理解について
は体験が全てに優先するものであって、自我意識によるどんな推測も、その代用には
なり得ないのです。
本書をお読み頂くにあたっても、自我意識がいつもやるように、自分の過去の経験と
関連させて心の中に何らかの観念を造り出したのであれば、それは単なる知識であり、
あなたの魂にとっては制約をひとつ増やしただけに過ぎません。しかしながら本書の
内容が切っ掛けになって、あなたの内なる自己、遍在する普遍意識の展開を促す心の
変容を起こすことができたのであれば、本書の書かれた目的は成就されたことに成り
ます。
要するに頭であーだこーだ考えたり、知識を幾ら持っていても、体験しなければ解ら
ないということですね。「百聞は一見にしかず」ということです。ですから、この「
黎明」に書かれていることも地図として受け取ればよいのだと思いますし、読み込む
につれて自我意識を客観視できるようになってくれば、入ってくる情報に対しても、
段階的に処理ができるようになるかもしれません。この本の素晴らしいところは、あ
る程度、情報を伝えたら、必ず、自我意識による理解の警鐘を鳴らしているところだ
と思います。
黒文字部分:「黎明・上巻」より