Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

3月のポトラッチ・カウント(5)

2024年03月31日 06時30分00秒 | Weblog
 歌舞伎座・3月大歌舞伎の第一部(昼の部)1本目は、「菅原伝授手習鑑」の寺子屋の段である。
 有名な演目で、ここでも「子殺し」が出て来るが、「メディア」とは違い、手を下すのは子の親ではない。

 「道真公に恩を受けた梅王・松王・桜丸の三つ子の兄弟なのですが、今は、松王丸だけが、敵方の藤原時平につかえています。
 道眞から書道の極意を伝授され、今は寺子屋をいとなむ武部源蔵は、道眞の息子、菅秀才をかくまっていますが、敵方にそのことが露見してしまい、秀才の首を討てと迫られます。
 そして、秀才の首が本人のものか確認する役目は、その顔を知っている松王丸でした。
 「寺子屋にもどると、源蔵の妻、戸浪が、いかにも品格のある男の子が、新たに入学してきたことを伝えました。その品の良さそうな子の顔を見て、「この子なら、身代わりになる」と源蔵は入学してきたばかりの子を、道真の息子の代わりに殺して松王丸に差し出すことにしたのでした。

 前半の筋書きだけで、当時の社会がいかに異常で恐ろしいものであったかが分かる。
 寺子屋の主人である源蔵は、元の主君の子である秀才を救うためなら、自分の教え子(赤の他人)を殺害することも厭わない。
 但し、他の演目ではよくみられる「自分の子を犠牲にする」という構図とは違っているのが新鮮である。
 源蔵は、今日入学したばかりの生徒(=松王丸の子:小太郎)を殺して「菅秀才の首」として差し出すが、殺された自分の息子の首を見て、松王丸は、「菅秀才に間違いない」 と虚偽を述べる。
 筋書によれば、松王丸は、「我が子の小太郎を菅秀才の身代わりとして、源蔵の許へ送り込んだのであった」ということで、いわば「間接正犯」類似の構図だが、いかにも不自然なストーリーである。
 なぜなら、源蔵が教え子の首を菅秀才の身代わりとして差し出すこと、しかもその際に小太郎を選ぶということは、第三者にとっては容易には予測出来ないことだからである(「松王丸が小次郎の首を源蔵に渡す」という「共同正犯」の筋書なら分からないでもないが・・・)。
 「小太郎の最期の様子を尋ねる松王丸に対し、菅秀才の身代わりだと言い聞かせると、小太郎はにっこりと笑って潔く首を差し出したと語る源蔵」というくだりに至っては、実に罪深いというほかない。
 「親分の子を救うため子分が自分の子を殺す」という「「忠」としての自己犠牲」を美化するかのようなストーリーが、当時の観客に与えた影響は大きいはずである。
 もっとも、ルイス・フロイスが「日本の女性は、育てていくことができないと思うと、みんな喉の上に足をのせて殺してしまう」と指摘したとおり、それ以前から日本では子殺しが普通に行われていた(子どもの死骸が河岸などに転がっていたそうである)わけなので、「身代わり」を云々する以前に、人命軽視の野蛮な社会だったと言うべきなのだろう。
 以上を総合すると、「菅原伝授手習鑑」寺子屋の段のポトラッチ・カウントは、5.0(★★★★★)となる。
 さて、「親分のための自己犠牲」と言えば、昔から政界でも頻出してきた。
 現在永田町の「自民座」で上演されている「清和伝授金習鑑」(せいわでんじゅかねならいかがみ)でも、親分はおとがめなしで、子分が犠牲(というか、当然の報い?)になりそうな雰囲気である。

 「自民筋によると、党関係者が森氏側から聞き取った。開始や復活の経緯を把握していないと説明したという。・・・岸田文雄首相ら党執行部は、高齢の森氏にこれ以上話を聞く必要はないとの判断に傾いた。

 あれ?
 聴き取りしかやっていないのか!?

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