(以下「メディア/イアソン」のネタバレご注意!)
イアソンとメディアはイアソンの故郷イオルコスに戻り、そこで2人には子ども(双子:男児と女児)が生まれる。
だが、イアソンらは王(ぺリアス)と揉めて(芝居では詳しく語られない)イオルコスには居られなくなり、一家でコリントスに逃亡し、そこで3人目の子(妹)が生まれる(エウリピデスの原作では2人の子となっているが、フジノサツコさんはディオドロスの「三大地誌」の”3人説”を採用したそうである(公演パンフレットより))。
イアソン一家は、異郷の地コリントスで肩身狭く暮らすことになるかと思いきや、何とイアソンに、王クレオンの娘:グラウケ(芝居には登場しない)と結婚する話が持ち上がる、というか、その話をイアソンはメディアに一切相談することなく進めてしまう。
これは、妻子に対するイアソンの明らかな裏切り行為である。
だが、イアソン自身には裏切りの自覚が乏しく、何と、「お前たちに豊かな暮らしをさせたくて、きょうだいを増やしたくて」王の婿養子となることを決断した旨告げる(本当に卑劣な男である。)。
しかも、王クレオンは、メディアと子どもらに対し、1日以内にコリントスから出ていくことを命じる。
メディアは、
「この世に生を享けてものを思う、あらゆるもののうちでいちばんみじめな存在は、わたくしたち女というものです。だいいち、万金を積んで、いわば金で夫を買わねばならないし、あげく、身体を献げて、言いなりにならねばなりません。」(以下、セリフの引用は「ギリシア悲劇 3 エウリピデス」エウリピデス 著 、松平 千秋 翻訳より)
と嘆く。
このあたりのセリフは、木庭先生によれば、「人間の心の内奥に存する或るもの、心の中心を尊重しえない、ここを破壊する、行為一般を非難し、そしてまさに自分のその内面が完全に破壊された」(前掲p331)という意味である。
江戸時代、「万座で恥をかかされる」男が行う復讐は、殺人か自殺であった。
対して、「心の中心を破壊された」メディアが行うのは、「子殺し」というポトラッチ及びそれ故の「亡命」である。
木庭先生によれば、「領域の<二重分節>単位相互は実は中心の政治システムを通じてのみ繋がっている。ここを断たれれば直ちには互換性が働かない・・・」(前掲p332)ため、メディアが対抗措置として繰り出すのは、「イアソンの家(<二重分節>単位)を完璧に破砕する」(こと)(前掲p334)となる。
但し、この芝居では、3人の子どものうち2人がメディアによって殺され、1人だけ生き延びるが、原作では2人の子どものいずれも殺されるストーリーとなっている。
メディアは、
「父親の罪ゆえに、命を亡くしたのよ、子どもたち」
「あなたを苦しめようために」(子どもたちを殺めた)
と述べて、子どもたちを殺したのはイアソンであると非難する。
だが、注目すべきはこの前に出ていたセリフ:
「泣かずにいられぬわけがあるのです、爺や。神さまが、いや、わたくしが、悪い心をおこして招いたことなのだから」(p124)
「どんなひどいことを仕出かそうとしているか、それは自分にもわかっている。しかし、いくらわかっていても、たぎり立つ怒りのほうがそれよりも強いのだ。これが人間の、一番大きな禍の因なのだがーー。」(p126)
である。
ここの「爺や」「神さま」というのは、メディアの祖父である太陽神ヘリオスであり、メディアは、レシプロシテ原理を発動させたのは「神」であると示唆しているのである。
これは、「曾根崎心中」と対比した際の決定的な違いである。
なぜなら、徳兵衛らは、自身を駆動しているのがレシプロシテ原理であることに気づかないまま心中に至っているが、メディアは、少なくともレシプロシテ原理を抉り出して対象化することには成功しており、その正体をほぼ見破っているからである。
以上を総合すると、「メディア/イアソン」のポトラッチ・カウントは、アプシュルトスと子ども二人が亡くなっているため、15.0(★★★★★★★★★★★★★★★)となる。