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Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

とうとう私のものに・・・

2025年06月06日 06時30分00秒 | Weblog
 「ヴェルディもワーグナーも合唱を大切に扱っていましたが、そのアプローチは大きく異なっています。ヴェルディでは、必ず「コンチェルタート」と呼ばれる、合唱と独唱アンサンブルの見せ場を意図的に設定しています。また、最後の作品「ファルスタッフ」終幕では、伝統的な「フーガ」という形式に回帰し、「世の中全て道化」と締めくくっています。
 一方、ワーグナーにおいては、晩年に行くに従って合唱の扱いは自由となり、「ニーベルングの指環」では、最後の「神々の黄昏」第2幕以降のみの使用。「トリスタンとイゾルデ」では、第1幕で男声合唱のみの使用となります。最後の作品「パルジファル」終幕においては、合唱はもはや管弦楽に分かち難く溶け込んでおり、天上的なサウンドの一要素となっています。こうした、両巨匠の合唱の扱いを通して、それぞれの作曲家の世界観を浮き彫りにしていきたいと思っています。(講師記)

 5月のワーグナー・ゼミナールの講師は三澤洋史先生で、ワーグナーとヴェルディにおける合唱の役割を対比させて論じるという、一粒で二度美味しい講演である。
 三澤先生によれば、この二人以前の「従来の音楽」は、「旋律は歌手が担当し、物語はレチタティーヴォが担当する」という明確な二分法により構成されていたが、ワーグナーは「タンホイザー」あたりから「新しい音楽」の特徴を明確に示し始める(これが「ライトモティーフ」(示導動機)を指していることは余りにも明らかなので、先生はあえて言及されなかったと思われる。)。
 これに対し、ヴェルディも、「メロディーに制約されない、歌としての会話」を編み出しており、それが端的に見られるのが「リゴレット」であるという。
 この作品では、オーケストラが場面の雰囲気を表現するのに対し、歌手たちの会話は、オケの奏でるメロディーから独立して、自由になされるのである。
 もっとも、ワーグナーが独力で自身のスタイルを編み出したのに対し、三澤先生によれば、ヴェルディはおそらく先人の手法を模倣しており、その先人とはモーツァルトである。
 すなわち、「メロディーに制約されない、歌としての会話」の嚆矢は、「フィガロの結婚」の第一幕冒頭と、第二幕の伯爵夫妻とスザンナの会話のくだりに見られるのである。
 三澤先生曰く、
 「管弦楽でその情景にふさわしい音楽が流れ、その上に、任意にセリフのタイミングや速さで、各対話が組みこまれていく。合唱もその方法で歌われる」。
 かくして、モーツァルトは、ワーグナーの手法の先駆者と見ることも出来る。
 ・・・という風に、興味深いお話が続いた後で、ワーグナーの最期の話となる。
 「「パルジファル」を1882年にバイロイト音楽祭で初演した後、ワーグナーはヴェネツィアに渡る。1883年2月13日。その日の朝、「パルジファル」の花の乙女達の一人をこっそりヴェネツィアに呼んでいたのがバレて、コジマと喧嘩。その後卒中で急死。コジマはワーグナーの遺体を抱きかかえたまま、一日中身動き一つしなかったという。
 ここで三澤先生は、コジマの心境をこう表現する。
 「とうとう私のものになった。
 バイロイトで働いていた先生がおっしゃると、説得力がある。
 ちなみに、ウィキペディアには「最後に書いていた論文は『人間における女性的なるものについて』であり、その執筆中に以前から患っていた心臓発作が起きての死だった。」とあり、死因は脳卒中ではなく心臓発作となっている。
 彼は甘い物が大好きで、癇癪もちであったらしいから(甘党と癇癪もち)、血糖値の乱高下(血糖値スパイク)によって心臓や脳血管が傷んでいたのかもしれない(【不調を根本から断つ】たった10日でいいからやってみて!砂糖・甘いものをやめるとこんなにも素敵な変化が!【体質改善|万病予防】)。
 そう、ワーグナーは、若い女性と甘いものによって、命を縮めたのかもしれないのである。


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