西風に吹かれて

日本の西端にある基地の街から、反戦や平和の事、日々の雑感を綴ります。

平和宣言

2012-07-28 20:44:59 | 反戦・平和
原水協主催の「原爆展」が今日までということで、アルカスに見に行った。

この展示会に関心を持ったのは、アルカス側が会場を貸さないと言い出したことからだった。

アルカスの交流スクエアは、アルカスの登録団体になるとどんなグループにも、空いてさえいれば無料で場所を貸してくれるという有難いスペースなのだ。

2ヶ月ほど前になるだろうか、共産党のY市議から「アルカス側が交流スクエアを貸さないと言っている。」と電話があった。「そんなことおかしいですよ。もし、抗議することがあったら一緒に行きますよ。」と話した。

19日市民の会のエンプラ闘争40周年「回顧でない回顧展」も市民ネットワークさせぼでやった「ガザ攻撃に抗議するパレスチナ展」のときも、無料で場所借りできたし、たとえ、行政と立場を違えても場所は貸してくれていたはずだ。

そのうち「借りれましたよ。」とまたY市議から電話があったり、そんなこんなで関心を持っていたのだった。

入り口には佐世保市の「平和宣言」が掲げられていた。



昭和25年1月、時の市長・中田正輔が議会で高らかに宣言し、佐世保は国際貿易港として発展していこうとしていた。

しかし、その年の6月、朝鮮半島に響き渡った1発の銃声が、この町の運命を変えてしまった。朝鮮戦争の勃発と、それによる朝鮮特需と呼ばれる好景気に町は沸きに沸いた。

一晩で、ビア樽が札でいっぱいになると言われた。

街中は昼間でも、酔っ払った米兵が大勢いた。戦争で死ぬかもしれないから、お金を使い果たして行くのだと聞かされてた。

我が家の近所にも、オンリーハウスがあり、そこで何が行われているのか子供心にも理解していた。

そういう環境の中で、私たち基地の町の子どもは育ったのだ。


展示してある写真は、もう何回か見たことがあったが、とてもいい写真を選び出してあって、胸が痛くなった。

改めて、平和宣言を読み、このまま平和産業港湾都市として栄えていたらと思わずにはいられなかった。

この町で生まれ、育って64年。

私は一度も基地のない町を知らないのだ。一度くらい灰色の軍艦のいない港を見てみたいものだ。



ビデオテープの行方

2012-07-27 21:36:33 | 日記
子どもの頃から、映画が大好きだった。

戦後、佐世保で初めてのカラー映画が封切られたときも父に抱かれて見た記憶がある。
当時は総天然色と言っていた。3つか4つの頃のことだ。

「ベルリン陥落」というその映画は、戦闘シーンがあって、それがとても怖かった。
しかし、怖い思いより美しい画面に引き付けられ、ぐずりもせずに最後まで見た記憶がある。言葉も画面の字幕もわからないままに、ただただ見たのだ。

同じ頃、ロシア映画の「虹の世界のサトコ」やアメリカ映画の「長い灰色の線」なども見た。

どうしてあんなに多くの映画を、見に行けたのかがわからない。

病弱でストイックな母は、子どもたちを人ごみの中に連れ出すのを嫌ったし、一人で映画に行くには幼すぎたから、やはり父が連れて行ってくれたのだろう。

「君の名は」や「この世の花」といった松竹映画、「地獄門」「羅生門」「日本橋」といった大映映画も見るという幅の広さだった。

そういった子ども時代だったからか、大人になるまでずっと映画を見続けてきた。

しかし、結婚してからは違った。
夫の転勤に伴って、離島や映画館がない町に住むようになった。

それに子育て期間は映画どころではなかった…。


そこに救世主が現れたのだ。
ビデオデッキが普及し、レンタルビデオ店があちこちに出現した。

私は喜び勇んで、ビデオを借り、見続けた、、、とここまではどこにでもある話だが、そのビデオをダビングして保存したり、買い取ったりすることは一般的ではないだろう。

そうやって集めた、というか集まったビデオは1000本をこえ、90X180の本棚6ヶ分にもなってしまった。





ところが、いまや主流はブルーレイ!
レンタルビデオ店など影も形もなく、貸し出しはDVDだ。

いま使っているビデオデッキが壊れたら、もうビデオテープは見ることすら出来なくなる。
それで、処分することに決め、半分ほどの550本に紐を掛けた。

しかし、いざ捨てるとなると踏ん切りがつかない。

「きっと、こんな映画はDVDで出ないだろう、、、。」と新藤兼人の「ある映画監督の生涯」や熊井啓の「本覚坊遺文」、吉田喜重の「エロス+虐殺」やトニー・リチャードソンの「トム・ジョーンズの華麗な冒険」や…。

結局、100本近くを選りだしてしまった、、、。

紐を掛けたビデオは物置に入れたが、物置もいっぱいに。

夫からは「どうするんだ!」といわれているが、う~む。

来週にでも、市のクリーンセンターに持ち込みますか?




水や空

2012-07-25 21:19:14 | 日記
新聞一面下のコラム欄は、社説と並んでその新聞社の考えが現れていたりする。

何人かの論説委員が、回り持ちで書いているのだろう。

有名なのは朝日新聞の「天声人語」。高校時代、入試に出るのでよく読むようにと教師から言われたこともあった。

我が家では、地元紙の長崎新聞と地方紙の西日本新聞の2紙を購読しているが、「水や空」は長崎新聞のコラム欄である。
ちなみに、西日本新聞のコラム欄は「春秋」である。

その「水や空」の(信)氏の文章が快調である。


「水や空」には、いつも失望してきた。

奥歯に物の挟まったような書き方だったり、どうでもいい花鳥風月であったりと、肝心なことから逃げているような、論点を少しずらすような、そんな感じがしていたからである。

しかし、今月16日の(信)氏の「諫早干拓を巡る前知事と農水政務官の話」には、拍手を送りたかったし、20日の「原発」問題には、大いに共感した。

どうしてこれまでこんな風に書いてこなかったのだろう?

気持ちの上で、何かふっきれたのだろうか…などと、余計な詮索はやめて応援したいと思う。




脱基地・脱原発県民集会

2012-07-21 21:35:42 | 反戦・平和
朝から、にわか雨が降るぐずついた空模様だったのに、午後からは一転、むっとする空気が充満した晴天となった。

この暑い午後、県の平和センター主催の「オスプレイ配備と原発再稼動を許さない県民集会」が開かれた。



300人規模の集会と聞いていたのだが、半分ほどか…?

土・日・祝祭日となると、集会参加者は極端に少なくなる。組合主体の動員型運動の限界がもろに出る。



「自分に何が出来るのか」と常に問いかけ行動する市民運動との違いがそこにある。


今年4月、強襲揚陸艦ボノムリシャールは米海軍佐世保基地に配属されたが、この揚陸艦には、連日ニュースで報道されている「オスプレイ」を積むことが出来るのだ。

「オスプレイ」は、アメリカの垂直離着陸輸送機で、従来のヘリコプター輸送機より飛行距離が長く多量の物資を運べる。しかし、多く報道されているように、墜落事故が相次ぎ、機能そのものに欠陥があると指摘されている。

このような輸送機が沖縄に配備されようとしている。23日には、岩国基地に搬入され、整備・点検を行って、沖縄へ移動させるということらしい。

沖縄県東村高江では、5年前からこのオスプレイ配備のためにヘリパットの建設が行われてきているが、今月に入って急ピッチで進められているという。

7月16日、東京では「さよなら原発」10万人集会が開かれ、主催者の発表では17万人が集まったと言われている。
この集まりを否定するものではないが、沖縄へのオスプレイ配備反対の集会をやると、いったい何人が集まるだろう?

脱原発は国民的大問題だが、脱基地は沖縄や基地がある町だけの問題なのだろうか?

集会後のデモは、久しぶりに米軍基地のメインゲート前を通るコースだった。



私も「オスプレイ配備反対!基地撤去!」と声を上げた。

米軍基地は生まれたときからあり見慣れた風景だが、いつになったらなくなるのか…。



534回の19日

2012-07-19 21:26:27 | 反戦・平和
台風の余波なのか、午後から雨。

長雨続きの佐世保では、昨日の梅雨明け宣言は待ちに待ったものだったのに、今日は一転、また雨…。 ああ~、ため息が出そうだ。

こんな日は、市民団体のデモなど少ないに違いない。デモの責任者としては、一人でも多くの人が参加してくれることを望んでいるけれど、参加はあくまで自主的なことだ。



しかし、悪天候の中、自主的に21人もの人が参加。
東京の17万人とは比べ物にならないけれど、顔見知りの多い小さな町で、それでも参加する勇気に拍手したい。

市中心部のアーケードの七夕飾りの中をゆっくりと進んで、デモの終点、アーケードの出口に到着。



そこで、参加者全員が集まって伝達事項を言い合う。

最初に「内部ひばくを生き抜く」という映画の上映会をMさんが、紹介した。この上映会には私も少し関わっている。紹介の後、突然「佐世保空襲を語り継ぐ会」のIさんが自分の体験を話された。



Iさんは、原爆投下直後の広島に入り、入市被爆をされた方だ。
「私が内部被爆をした証人です。」と話され、ぜひこの映画を見て欲しいと結ばれた。

次は長崎の反核団体のKさんが、8月9日に長崎でやる反核集会のご案内。



こちらには、「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」の佐藤幸子さんが来られるのだという。う~~ん。この集会にも参加したい。

最後は、「19日市民の会」の最初からのメンバーで、会の代表世話人であるF先生の話だった。



「私が40歳のときに、米原子力空母エンタープライズが寄港し、この会が生まれた。それから45年。人生の半分以上をこの会とともに生きてきたが、年をとって歩くのも大変になってきた。ここらで卒業させてもらいます。」

私がF先生の年齢になるまで20年。

私も、卒業挨拶をやれるだろうか?
それまでこの会は残っているだろうか?
バトンタッチできるような人がいるだろうか?