佐世保には、無農薬の野菜を共同購入する「西海無農薬野菜の会」という団体がある。
佐世保のお隣、西海市西海町の農家が生産した無農薬の野菜を佐世保の市民が購入するという会で、毎週1回生産農家の方が自宅まで、取れたての旬の野菜を届けてくださる。
私ももう20年以上の加入暦である。「野菜の会」は、年に4回ミニコミ紙「やさい通信」を発行している。その通信の6月号に原稿を頼まれて、私は迷わず石木ダムのことを書いた。
cosmosさんのブログにも掲載して頂いたけれど、自分のブログが出来たので、こちらでも公開しようと思う。
川原(こうばる)の里
石木ダムの建設予定地である、東彼・川棚町川原郷を初めて訪ねたのは、もう16年も前のことである。当時、佐世保市は大渇水できびしい制限給水が続いていた。鳴りを潜めていた「石木ダム」建設の話が、市民の口の端に上るようになってきたのもこの頃だった。こんな中、ダム建設反対を掲げ反対運動を続けられている地元の方のお話を聞く機会があって、私は川原郷を訪れたのだった。
川原郷は、登山愛好家にはマッターホルンに似ていると人気の高い、虚空蔵山の麓にあった。澄み切った川の流れ、小さい石積みの棚田が広がる里の様子に私は心を奪われた。「ああー、人間はこうやって営々として田圃をつくり、米を収穫して、何世代にも亘り生き抜いてきたのだ。」と言う思いがわきあがり感動したのだった。こんなに美しい郷を水の底に沈めていいのか?私の気持ちは、反対同盟の方のお話を伺う前に、ダム建設反対の気持ちで固まった。
そもそも石木ダム建設は、川棚町の治水と佐世保市の利水を目的とした多目的ダムとして計画された。しかし、実態は針尾工業団地への水の供給と工業団地が出来れば、人口が増え水の需要が増すだろうとの見込みから計画されたものである。だが、県の目論見ははずれ、広大な工業団地は買い手が付かないまま10年以上が経ち、1992年、やっとテーマパーク「ハウステンボス」ができたが、2003年には会社更生法の適用を申請、現在も再建中なのは、みなさんよくご存知のことだろう。
「見ざる・聞かざる・言わざる」のユニークな反対運動を続け、県や市の職員など外部との接触を一切断っていた反対同盟が動いたのは一昨年9月。
淀川水系流域委員会の座長だった今本京都大教授、同じく荻野教授を招いての石木ダム現地見学会と調査報告集会が開催され、県内外から多くの人が集まった。そのような動きの中から、川棚町では「清流の会」佐世保では「水問題を考える会」が発足し、学習会やシンポジウムを開く中で、はっきりと石木ダムの必要性が否定されたのだった。
私は、この学習会の中で出会ったMさんが立ち上げた、石木ダムに反対する市民グループ「石木川まもり隊」に参加し、他の会員のみなさんと一緒にパンフレットの配布や事業認定申請反対の署名活動、事業説明会での質問などを行ってきた。同時に情報公開法を使って、市内のダムの貯水量の変遷や補水量、取水量の動きなど会員で手分けして、細かく調べあげた。
その結果分かったのは、佐世保市が過大な水需要予測をしていること、1日1万トンもある漏水に有効な手を打っていないこと、そして極めつけは10年前にはあった水源が消えてしまっていることなどだった。私たちは水道局に疑問をぶつけたが、納得のいく回答は得られなかった。
「このままではダムが造られてしまう。」私たちは石木ダム建設に疑問を抱いている市議会議員・県議会議員に資料を渡して議会で追及してもらうことにした。その結果、3月議会で水道局は「漏水防止対策をやる。再生水利用の拡大をはかっていく。」と確約したのだった。
3月24日、県は予算が付いていることを理由に、付け替え道路の年度内着工に踏み切った。雑木林が次々に伐採され、山肌があらわになっていくが、まだまだだ。政府も「コンクリートから人へ」を標榜している。そう簡単にダムは作らせない。いま工事をやっているところは買収済みの土地だ。未買収の土地のほうが多いのだ。私も共有地権者の一人だし、立木4本も所有している。絶対に売りはしない。
3月31日から、建設現場入り口で、ばあちゃんたちや女たちを中心にした抗議の座り込みが続いている。朝7時半から2時間程度、ラジオ体操をしたり、石木ダム反対の歌・こうばるの歌を歌ったり、ばあちゃんたちと話をしたり、時間はあっという間に過ぎてしまう。半世紀近くも反対運動を続けてきた人たちだけど、川原の人たちはみんな気のいいやさしい人たちばかりだ。
「ごめんねぇ。遠くから毎日来てくれて、悪かねぇ。」とばあちゃんたちは言うけれど、「ごめんね。」と言わなければならないのは、私のほうだ。
「夜にゆっくりしょうか、もう寝ようかとすると、県の職員の来らす。正月は元旦から佐世保の市長さんの来らす。言わすことはお願いします、お願いしますだけ。こん何十年ちゃ、気の休まる時はなかとよ。」…。
気のいいみなさん方を、長年苦しめてきたのは私の住む佐世保市だ。とどのつまり、ダム推進の為政者しか選べなかった私たち自身がこの人たちを苦しめてきたのだ。だから私は、今日も「ごめんね。」の気持ちで、ばあちゃんたちの横に座る。
佐世保のお隣、西海市西海町の農家が生産した無農薬の野菜を佐世保の市民が購入するという会で、毎週1回生産農家の方が自宅まで、取れたての旬の野菜を届けてくださる。
私ももう20年以上の加入暦である。「野菜の会」は、年に4回ミニコミ紙「やさい通信」を発行している。その通信の6月号に原稿を頼まれて、私は迷わず石木ダムのことを書いた。
cosmosさんのブログにも掲載して頂いたけれど、自分のブログが出来たので、こちらでも公開しようと思う。
川原(こうばる)の里
石木ダムの建設予定地である、東彼・川棚町川原郷を初めて訪ねたのは、もう16年も前のことである。当時、佐世保市は大渇水できびしい制限給水が続いていた。鳴りを潜めていた「石木ダム」建設の話が、市民の口の端に上るようになってきたのもこの頃だった。こんな中、ダム建設反対を掲げ反対運動を続けられている地元の方のお話を聞く機会があって、私は川原郷を訪れたのだった。
川原郷は、登山愛好家にはマッターホルンに似ていると人気の高い、虚空蔵山の麓にあった。澄み切った川の流れ、小さい石積みの棚田が広がる里の様子に私は心を奪われた。「ああー、人間はこうやって営々として田圃をつくり、米を収穫して、何世代にも亘り生き抜いてきたのだ。」と言う思いがわきあがり感動したのだった。こんなに美しい郷を水の底に沈めていいのか?私の気持ちは、反対同盟の方のお話を伺う前に、ダム建設反対の気持ちで固まった。
そもそも石木ダム建設は、川棚町の治水と佐世保市の利水を目的とした多目的ダムとして計画された。しかし、実態は針尾工業団地への水の供給と工業団地が出来れば、人口が増え水の需要が増すだろうとの見込みから計画されたものである。だが、県の目論見ははずれ、広大な工業団地は買い手が付かないまま10年以上が経ち、1992年、やっとテーマパーク「ハウステンボス」ができたが、2003年には会社更生法の適用を申請、現在も再建中なのは、みなさんよくご存知のことだろう。
「見ざる・聞かざる・言わざる」のユニークな反対運動を続け、県や市の職員など外部との接触を一切断っていた反対同盟が動いたのは一昨年9月。
淀川水系流域委員会の座長だった今本京都大教授、同じく荻野教授を招いての石木ダム現地見学会と調査報告集会が開催され、県内外から多くの人が集まった。そのような動きの中から、川棚町では「清流の会」佐世保では「水問題を考える会」が発足し、学習会やシンポジウムを開く中で、はっきりと石木ダムの必要性が否定されたのだった。
私は、この学習会の中で出会ったMさんが立ち上げた、石木ダムに反対する市民グループ「石木川まもり隊」に参加し、他の会員のみなさんと一緒にパンフレットの配布や事業認定申請反対の署名活動、事業説明会での質問などを行ってきた。同時に情報公開法を使って、市内のダムの貯水量の変遷や補水量、取水量の動きなど会員で手分けして、細かく調べあげた。
その結果分かったのは、佐世保市が過大な水需要予測をしていること、1日1万トンもある漏水に有効な手を打っていないこと、そして極めつけは10年前にはあった水源が消えてしまっていることなどだった。私たちは水道局に疑問をぶつけたが、納得のいく回答は得られなかった。
「このままではダムが造られてしまう。」私たちは石木ダム建設に疑問を抱いている市議会議員・県議会議員に資料を渡して議会で追及してもらうことにした。その結果、3月議会で水道局は「漏水防止対策をやる。再生水利用の拡大をはかっていく。」と確約したのだった。
3月24日、県は予算が付いていることを理由に、付け替え道路の年度内着工に踏み切った。雑木林が次々に伐採され、山肌があらわになっていくが、まだまだだ。政府も「コンクリートから人へ」を標榜している。そう簡単にダムは作らせない。いま工事をやっているところは買収済みの土地だ。未買収の土地のほうが多いのだ。私も共有地権者の一人だし、立木4本も所有している。絶対に売りはしない。
3月31日から、建設現場入り口で、ばあちゃんたちや女たちを中心にした抗議の座り込みが続いている。朝7時半から2時間程度、ラジオ体操をしたり、石木ダム反対の歌・こうばるの歌を歌ったり、ばあちゃんたちと話をしたり、時間はあっという間に過ぎてしまう。半世紀近くも反対運動を続けてきた人たちだけど、川原の人たちはみんな気のいいやさしい人たちばかりだ。
「ごめんねぇ。遠くから毎日来てくれて、悪かねぇ。」とばあちゃんたちは言うけれど、「ごめんね。」と言わなければならないのは、私のほうだ。
「夜にゆっくりしょうか、もう寝ようかとすると、県の職員の来らす。正月は元旦から佐世保の市長さんの来らす。言わすことはお願いします、お願いしますだけ。こん何十年ちゃ、気の休まる時はなかとよ。」…。
気のいいみなさん方を、長年苦しめてきたのは私の住む佐世保市だ。とどのつまり、ダム推進の為政者しか選べなかった私たち自身がこの人たちを苦しめてきたのだ。だから私は、今日も「ごめんね。」の気持ちで、ばあちゃんたちの横に座る。