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西風に吹かれて

日本の西端にある基地の街から、反戦や平和の事、日々の雑感を綴ります。

平戸行き

2016-02-26 20:03:28 | 日記
夫の仕事の関係で、若い頃は大瀬戸、平戸、壱岐と長崎県内の離島や僻地を転々とした。

その中でも一番思い出深いのが、平戸での生活だった。

当時はまだ橋が架かっておらず、フェリーで平戸島に渡らなければならなかった。



平戸島には空いている住宅がなく、職場で用意されたのは人里離れた田平の住宅だった。病院もないようなまったく見知らぬ土地で、生後5ヶ月の赤ん坊を抱え途方に暮れる思いだった。

そんな時、「平戸に空き部屋が沢山ある住宅があり間借りできる」との話が舞い込んできた。問い合わせると「いいよ。」との返事で、引っ越したその日のうちに再度の引越しをやった。


県立猶興館高校の向い側の坂道を上り詰めた三叉路のそばにその住宅はあった。

総二階建ての大きな家で、一階の右半分を使っていい、ということになった。
8畳2間と6畳2間、それにダイニングと言えば聞こえはいいが広い板張りに、なぜか、流し台が3つも付いていた。
そこを好きなように使っていいと言って貰ったのだ。

電話で頼んだだけの、見も知らぬ他人の私たちを住まわせて下さったのだから驚きだが、驚きはそれだけではなかった。

2人目の子どもを平戸で生んだが、「赤ん坊を毎日風呂に入れるから」と風呂を大きくし温水器まで設置していただいたのだ。

あとで知ったのだが、平戸では有名な変人で頑固者として名が通っている方だった。

その方が亡くなられ、お葬式に夫と参列したのだった。霊柩車を見送って、久しぶりに平戸の町を歩いたが、日差しは柔らかいものの海からの風は冷たかった。






往路は西九州自動車道を通ったが、復路は旧道を通り佐々川の流量を見ようということになった。
「どこに行っても、石木ダムのことが頭から離れないね。」と夫と笑ったが、本当にそうなのだ。
おまけに、佐々町の清峰高校先の道路工事現場には、石木のゲート前に里村建設から派遣されていたガードマンのKさんがいるではないか。
車を止めて少し話をしたが、「石木の情報は自分たちには何も入ってこないんですよ。」とのことだった。



佐々川の流れも普段と変わらず、止まることなく悠々と流れていた。



この川の遊休水利権は、もっと有効に使われるべきだ。

そうすれば、石木ダム建設を中止しても、2年に1度渇水が起こっても、佐世保市民が水がなくて受忍の限界だという事態は絶対に起こることなどない。







戦場ぬ止み

2015-11-15 20:28:00 | 日記
何だかこのところ佐賀づいている。

三週間前は、神埼市へ元滋賀県知事だった嘉田由紀子さんのお話を聞きに行ったばかりだったのに、昨日は佐賀市の若楠小学校へ沖縄の女性映画監督・三上千恵さんのお話を聞きに行ってきた。

毎日座り込んでいる石木ダム付替え道路工事現場ゲート前で、私は一昨日、この三上さんの「戦場ぬ止み」を読み終えたばかりだった。



彼女が監督をしたテレビドキュメンタリー「標的の村」はインターネットで期間限定で公開され、私はその動画を見ていた。

たまたま一昨日の夜、友人のFBを見ていたら佐賀の「母と女性教職員の会」が講師に三上千恵さんを呼んで講演会をすることが案内されていた。

「話を聞きたい」と思ったものの、講演会は翌日の午後1時からだ。

このところ県も業者も土曜日に石木ゲート前へやって来ることは無い。佐賀へ出かけても大丈夫のはずだ。

翌日、朝から夫と娘に「佐賀へ行って来る。」と宣言をして出掛けた。

佐賀には反原発の集会で何度も行っているのだが、若楠小学校へ行くのは初めてだ。
グーグルの地図を頼りに歩いたら、駅から40分も掛かってしまったが、無事にたどり着くことが出来て一安心。

講演は体育館であることになっていたが、演台の前に50脚ほどの椅子が並べてあるだけだ。



佐賀県下の「母と女性教職員の会」の会合なのにこれだけなのだろうか?

子どもたちが小学生だったとき、私も何度か佐世保の「母女の会」に参加したことがあるが、もっと多くの母親や教師の参加があったように記憶している。

現在は子どもの数も少ないし、組合に入っている教師も少ないのだろう。

しかし、「ひろげよう つながろう ともに生きる地域」という構成詩で始まった会は、先生たちの一生懸命さが伝わってくる、とてもいい集会だった。



挨拶に立った教師の方が「昔、教室から戦争が始まると言われていたが、いま、まさに同じ状態ではないか。子どもたちは自己肯定感を持てずにいる。あなたが生きているから嬉しいと子どもたちに伝えたい。そして、おかしいことはおかしいと声に出していきたい。」と話されて、学校の中の閉塞感や現場の大変さが垣間見えるようだった。

その後三上さんのお話。



「沖縄県民に軸足をおいて番組を作っていく。国の利益になって沖縄県民の利益にならないことには反対の立場をとる。」とはっきりとしたジャーナリストとしての姿勢を示された。

「仮に中国がミサイルを撃ってきたら、米軍は闘わずに撤退する。陸自の水陸機動団が肩代わりして戦うのだ。」と軍事評論家より分かり易く納得できる話ばかりだった。

「子どもを政治に利用してと言う非難があったりもするが、本当に悪いのか?沖縄の大人たちは、闘うことが子どもたちに残せる財産だと言う。」




そうだ!拍手しそうになる。 ここのところは、強制測量のときの石木と重なる。
闘う親の姿を子どもに見せておくことは大事なことだと思う。親が何のために闘っているのかを知るからこそ、次の世代に闘いが引き継がれていくのだから。

ときおり涙を拭きながら、それでもしっかりと話された三上さん。
映画「戦場ぬ止み」をぜひ観たいと思う。







初夏の風物詩

2015-05-07 17:12:43 | 日記
「中市が賑やかだから、中市がたつ17、18、19日のどこかで行こうよ。」と従姉妹と約束していたのに、朝になったらやっぱりうずうずしてきて、一人バスに乗って早岐茶市の初市に行って来た。

早岐の瀬戸は、いつもと違って、かなり急な流れだった。



川のように見えるこの瀬戸の海岸沿いの道に、テント張りの店が400軒ほど並んでいる。

小雨模様のお天気だったが、茶市は、朝早くから賑わっていた。



この早岐茶市は、安土桃山時代から続いているといわれ、海産物とお茶をはじめとする農産物とを物々交換したのが始まりとされている。

しかし、今の時代物々交換する人はいない。みんなお金と交換である。

毎年行くので顔見知りの人もいるし、いい品物を置いているなじみの店もある。



それよりも何よりも、自分が作った作物や採ってきた魚貝類を並べて売ってあるのがいい。



今年も、上五島から来たというおばさんが売っていた「クロミナ」と名前も知らない海草を買い、針尾の甘夏を買い、佐賀県嬉野町から来たお茶屋さんの新茶を袋にぎゅうぎゅう詰めにして1.000円で買った。



お目当てにしていた、この茶市でしか買えない「なべ鯛の塩漬け」はどこの店にもなくてがっかりだったけれど、「中市には持ってくるから」というお店の人の言葉を信じて、また、中市に来よう。



今度は従姉妹と一緒に。




さくら

2015-04-02 19:57:12 | 日記
佐世保市内にも昔から桜の名所がある。



古くは弓張岳の中腹に位置する鵜渡越公園の桜が有名で、花見客で賑わいを見せていた。

我家の近くでは、牛買稲荷神社の参道に植えられていた桜が有名で、親戚一同揃って花見に繰り出したりした。

しかし、近年は神社近くにまで高い建物が建ち、桜は埋もれてしまって花見客も少なくなった。

他には、山の田水源地の桜並木、名切谷の桜並木、西海橋の桜も有名だ。

だが、私が好きなのは佐世保川沿いに植えてある桜並木だ。



川の水面に映えてとても美しい。

昨日は雨、今日も夕方から雨の予報で、今を逃せば満開の桜が散ってしまうだろう、そう思って佐世保川まで桜見物に出かけてきた。

バスを松浦町で下り佐世保橋まで歩き、橋を渡らず左折して川沿いを歩く。

川向こうに桜の大木が見え、その先に佐世保市立総合病院がのぞいている。

川に沿って河口近くまで下り、アルバカーキー橋を渡って佐世保公園へと入った。



沢山の桜が植えられていて、家族連れの花見客で賑わっていた。

見渡す限り満開だった。



総合病院がある場所も、佐世保公園も、全て米軍基地だった。

47年前、アメリカの原子力空母エンタープライズ寄港に反対する三派全学連の学生は、この佐世保川を渡り基地の中に入って逮捕された。

今は自由に入れる場所だが、昔は逮捕される場所だったのだ。

ベンチに座り桜を眺めながら、時代の流れを感じていた。


写真に残る戦争の記録

2015-03-26 20:32:49 | 日記
母が亡くなって今月31日で8年になる。父が亡くなってからはもう15年だ。

両親が残した品物はほとんど処分したが、茶箱に入った写真類は納戸の奥に置かれたままだった。夫も遠慮して自分が処分することはせず、私に「早く片付けて。」と言っていた。

めんどくさいな~と思いつつ、今日、茶箱を開けてみた。どうでもいい写真も多いのだが、私の祖父母の写真など古い変色したものが数多く出てきた。

中には「山東派遣軍・記録写真帖」などというものもある。これは祖父が持っていた物だろう。





祖父は佐賀県三養基郡の出身。その俊次郎と言う名前が現すように、零細農家の次男坊で継ぐべき家督もなく、当時、海軍鎮守府が置かれ賑わっていた佐世保にやって来た。そして、海軍に入り水兵からのたたき上げの軍人になったのだ。


出てきたセピア色の写真には、“国防婦人会”のたすきをかけた祖母や母の写真もある。
前列中央の女性は、女学校の校長先生だった方だ。教育関係者が率先して旗振り役をし「銃後の妻たち」を作り出していたのだ。


(前列左端 祖母  二列目右端 母)

祖母は明治16年、佐世保市三川内の皿山の生まれ、生家は窯元で父の従兄弟には県の無形文化財になった陶芸家もいる。

その祖母は帝国海軍軍人の祖父に従って朝鮮半島に渡り、羽ぶりよく暮らしてきたらしい。

統治下で日本人と言うだけで肩で風切る生活だったのだろう、何かと言うと「朝鮮人はだめだ」とこき下ろした。

祖父は私が生まれる前に、祖母は中学生のときに亡くなった。

私が焼物に興味を持ったのは、大人になり結婚もしてからだ。有田にも伊万里にも波佐見にも佐世保から30分もあれば行ける。三川内は佐賀との県境、有田の隣町だ。陶器市にも何度となく足を運んだ。



そして解ったのは、有田、三川内の陶祖は、秀吉の朝鮮出兵のときに朝鮮半島から連れてこられた陶工の末裔だということだった。

有田には有名な陶祖・李三平の墓もある。

三川内に多い姓、金氏・福本・中里は朝鮮陶工の末裔だと言われている。

祖母の生家は福本姓である。
祖母は自分の先祖のことなど何も知らずに一生を終えたが、分かったらどうだったのだろう?
どんな顔をしただろうか?


出てきた写真を見ながら、民族差別を煽り戦争へと繋がっていった過去と、ヘイトスピーチに明け暮れ、日本の優位性を謳う今とが重なって、そら恐ろしさを感じた一日だった。