昨日に続き、橋本伝左衛門氏(京大農学部2代目学部長)による回顧録(京都大学農学部創立40周年記念事業会編「歴史を語る」所収)からの引用です。
『大正七、八年の交、理学部の動植物学教室と地質鉱物学教室が新設されるにあたり、いまの本部構内の京大の敷地は道路(今の電車道)をへだてて北方にはみ出し、この部分を北敷地と称した。
農学部敷地は、この北敷地に接続して北と東にかけ、いまの植物園から運動場および演習林苗圃、農場などを含めた一団の土地から成り、その面積は四万余坪十四、五万平方米はあるのである。
この地域はもと、北白川扇状地に拓かれた一帯の水田であった。かねて計画中の新設農学部の教授候補者にきまっていた私は、大正十年の秋、東京から山陰地方に出張の途次京都大学に立より、本部職員の案内で、将来農学部の敷地になるという予定地の中の野良道を歩き回ってみた。
当時は一面に黄熟した水稲で、地域内に細い野良道が東西と南北に二、三本づつ通っていた。また京大の教授の住宅というのが三、四。今日とちがって出町以東、熊野以北には電車もバスもなく、道路も野良道が多く、人家もまばらで、田圃なかに住む教授の生活も不便でかつさびしかろうと思った。』(同掲p.34)
この記述によれば、今出川通りより北に京都大学が進出したのは大正7~8年前後で、それは理学部の一部の教室の新設によるもので、その後農学部の敷地はそれに付け加える形で広い面積準備された、大正10年の時点で、付近は水田地帯であった、ということになります。
『大正七、八年の交、理学部の動植物学教室と地質鉱物学教室が新設されるにあたり、いまの本部構内の京大の敷地は道路(今の電車道)をへだてて北方にはみ出し、この部分を北敷地と称した。
農学部敷地は、この北敷地に接続して北と東にかけ、いまの植物園から運動場および演習林苗圃、農場などを含めた一団の土地から成り、その面積は四万余坪十四、五万平方米はあるのである。
この地域はもと、北白川扇状地に拓かれた一帯の水田であった。かねて計画中の新設農学部の教授候補者にきまっていた私は、大正十年の秋、東京から山陰地方に出張の途次京都大学に立より、本部職員の案内で、将来農学部の敷地になるという予定地の中の野良道を歩き回ってみた。
当時は一面に黄熟した水稲で、地域内に細い野良道が東西と南北に二、三本づつ通っていた。また京大の教授の住宅というのが三、四。今日とちがって出町以東、熊野以北には電車もバスもなく、道路も野良道が多く、人家もまばらで、田圃なかに住む教授の生活も不便でかつさびしかろうと思った。』(同掲p.34)
この記述によれば、今出川通りより北に京都大学が進出したのは大正7~8年前後で、それは理学部の一部の教室の新設によるもので、その後農学部の敷地はそれに付け加える形で広い面積準備された、大正10年の時点で、付近は水田地帯であった、ということになります。