京大植物園TODAY

京都市左京区の京都大学北部キャンパス内にひっそり佇む現代の杜、京都大学理学研究科附属植物園の日々の風景を紹介します。

ナンテン(ラスト?)

2006年02月18日 12時14分19秒 | Weblog
園内のナンテンは、皆もう実を落としてしまっているのですが、植物学教室別館の建物の入り口のナンテンにはまだ赤い実が。

たわたわとして南天の実の映ゆるかな
雨期その花はもの言わざりき           石本照子


「雑草の神秘」:その2

2006年02月18日 03時55分54秒 | Weblog
引き続き、岩本熊吉さんの著書「雑草園の造り方」(昭和15年、育生社弘道閣)からの引用です。

『私は思ふ、名も知られざる小さき野の雑草にも尚茲(ここ)に貴き生命の現はれがあることを。此の天与の生命に接して、人の心の琴線が感動せしめられるのである。而して此の生命の器は様々の形態を為して現はれる。

所謂進化の現象を通して、植物の発達史を伺ひ知ることが出来る。又此の生命が如何に種族の保存や発達の為に活動しつつあるかが知られるのである。

且つこの生活現象は、如何なる微細の物にありても、苟くも其の生命たる以上、彼等は、彼等の生活の目的の為に食わねばならぬ。飲まねばならぬ。呼吸せねばならぬ。而して消化し同化するのである。消費するのである。生長するのである。或いは植物によっては感覚作用を有する物がある。否全植物は之を有するとも言はれる。彼等は神経様のものをも有して居るといはれる。

而して彼等は生命の保存及其繁殖を図るのである。且つ又動植物相互の有機的関係、又は植物相互の微妙なる関係等を研究するに於ては、誠にテニソンの歌った如く、此の理を解するものは神と人とを解するを得て、誠に精妙巧緻なる天工神意驚嘆するの外は無い。而して我等は雑草を通して広大無辺且つ巧妙なる神(造物主)の摂理を伺ひ知ることが出来るのである。』

「雑草の神秘」:その1

2006年02月18日 03時53分26秒 | Weblog
表紙をご紹介しました「雑草園の造り方(岩本熊吉著)」の本の中に、「雑草の神秘」という章があります。短い章ですが、著者である岩本熊吉氏の雑草への思いが最も率直に出ている箇所と思われますので、ここに引用してご紹介してみたいと思います。「進化」という言葉と明らかにキリスト教の影響を感じさせる「神」という言葉が仲良く混在しているのが今からすると不思議ですが、当時(日中戦争中)の著者は、むしろ確信を持って両者を結びつけて生き物を見ていたようです。(たまたま著者がキリスト教を信仰する生物学徒であったためか、当時の進化論がキリスト教思想とセットで浸透しつつあったのかは分かりませんが。)

『雑草、雑草!汝何の為にある。
 人類の為か。自らの為か。偶然にか。将(は)た、神意か。
 英国の桂冠詩人テニソン歌ひて曰く、

 壁のわれ目に咲ける花
根こそぎそれを引きぬきて 
 ここに手に持つ小さき花
 その本質を知るならば
 神をも人をも知るを得ん。

ウォルズワースは之を人の為と解して歌ひて曰く、

 神は花もて地を飾り     
 人の心を慰むる
 花の心を覚り得て
 絶えず感謝を捧げつつ
 又楽しむ人をこそ
 いと幸ありと云ふべけれ。

キリストは、有名なる山上の垂訓に於て、ソロモンの栄華の極みだに其の装ひ此の花の一つにも如かざりきと教へられた。抑(そもそ)も野の花は、人の見るも見ざるも其の装ひを為すは何の故ぞ。(つづく)』

「食用野生植物と其の調理法」

2006年02月18日 03時22分03秒 | Weblog
これも、「雑草園・・・」より少し後(昭和17年)に出た岩本熊吉さんの本です。戦時中の本らしく、「雑草」の食べ方、利用法が詳しく載っています。マツタケが、マコモやマタタビと並んで「雑草」として堂々と載っているのには思わずびっくりしました。当時はごく普通のキノコだったのかもしれません。