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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(箱根での不思議な出会い)

2011年08月07日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(箱根での不思議な出会い)

箱根神社は、
昔、箱根権現と
呼ばれていた。

親鸞聖人と箱根権現の関係は、
『御伝鈔』に次のように
記されている。

親鸞聖人は、夕暮れになって、
険しい箱根の山道に
差しかかられた。
もうどこにも旅人の姿はない。
夜も深まり、
やがて暁近く月落ちるころ、
ようやく人家らしきものを
見つけ、ホッとなさる。

訪ねた家から、
身なりを整えた一人の老人が、
恭しく出迎えて、こう言った。

「私が今、少しまどろんでいますと、
 夢うつつに箱根権現(神)さまが現れて、
 もうすぐ私の尊敬する客人が、
 この道を通られる。
 必ず丁重に誠を尽くして、
 ご接待申し上げるように……と、
 お言いつけになりました。
 そのお告げが、
 終わるか終わらぬうちに、
 貴僧が訪ねられました。
 権現さままでが尊敬なさる貴僧は、
 決して、ただ人ではありませぬ。
 権現さまのお告げは明らかです」
 
老人は感涙にむせびつつ、
丁寧に迎え入れ、
さまざまのご馳走で、
心から聖人を歓待した。

親鸞聖人は、ここで三日間、
教化されたという。
以来、神官皆聖人を尊敬し、
箱根権現の社殿に、
親鸞聖人の御真影が
安置されるようになった。

それは明治時代まで続いたという。
神仏分離の法令以後、
親鸞聖人のお姿は宝物殿に
移されている。

箱根を越えられる
親鸞聖人の前に
一人の男がひざまずいた。

彼は後に親鸞聖人のお弟子となり、
嘉念房善俊と名乗った人である。

後鳥羽上皇の孫とも皇子とも
いわれているが、
無実の罪をきせられ、
伊豆に流罪となり、
悲歎にくれる毎日を
過ごしていた。

「私は都から流罪に遭って、
 この山で配所の月を
 眺めている者です。
 失礼ですが、
 どのような修行を
 積まれた大徳で
 あらせられますか」

「何の修行も積んでいません。
 ただ、阿弥陀仏の本願を
 お伝えしている者です」
 
聞いた流人は涙を流して喜び、

「常日ごろ、後生の一大事が
 心にかかりながら、
 いたずらに月日を
 送っていましたが、
 今ここに善知識に
 巡り会えたことを
 喜ばずにおれません。
 どうか、流人のあばら家に
 お立ち寄りくださり、
 わが、暗い心をお救いくださいませ」

と願い出た。

親鸞聖人は、喜んで流人の住居へ
足を運ばれ、

「どんな人をも、必ず、
 絶対の幸福に助けたもう
 阿弥陀仏の本願」

を、懇ろに説かれた。
 
この流人は、親鸞聖人のお弟子となり、
嘉念房と名乗った。

嘉念房は赦免のあと、
京都に親鸞聖人を訪ね、
常におそばにあって
お仕えした。

弘長二年、親鸞聖人が
浄土往生の人となられたあと、
嘉念房は、美濃国を巡教し、
白鳥郷に草庵を結んで
親鸞聖人のみ教えの
徹底に全力を尽くしていた。

ある日、一人の男が来て、

「私は、ここより北に当たる
 飛騨国白川郷に住む者ですが、
 これまで、仏法というものを
 聞いたことも見たことも
 ありませんでした。
 どうか私の国にも
 真実をお伝えください」

と願い出た。

嘉念房は、これぞわが使命と、
翌日にも出発しようとした。

しかし、白鳥郷の人々は、

「せっかく念仏繁盛の
 この地を後に、
 山深い飛騨国へ入ることは
 やめてください」

と言ったが、嘉念房は、

「そんな所こそ、
 真実を弘めなければならぬ……。
 きっと、師の聖人も
 お喜びになるであろう」

と決意を述べ、布教に旅立ったという。

浄土真宗大谷派高山別院は
嘉念房が開基である。


人間の実相を語る歴史人(愛児を失った鳥喰の唯円)

2011年08月06日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(愛児を失った鳥喰の唯円)

武蔵国猶山の城主・橋本綱宗は、
十六万五千石の大名であった。

家は栄え、愛する妻子とともに
幸せな家庭を築いていた。

綱宗の、何よりの楽しみは、
一人息子・清千代丸の成長である。
自分の生きがいと、
将来の望みのすべてを
わが子にかけていた。

ところが、建保三年2月5日、
清千代丸が病に襲われ、
わずか八歳にして
この世を去ったのである。

突然の出来事であった。

綱宗は、あどけない子供の笑顔を、
いつまでも忘れられない。

「この世に、当てになるものは
 何一つない。八歳の子供でさえ、
 無常の風に誘われるのだ。
 オレはよく四十三歳まで
 生き延びてきたものだ。
 今死んだら、どこへ行くのか」

激しい無常を感じた綱宗は、
城を弟に譲り、修行者となった。
善知識を求めて
諸国遍歴の旅に出たのである。

同年3月1日、常陸国の
那珂郡烏喰村を通った時のことである。

とある空き家で一夜を過ごした綱宗は、
不思議な夢を見た。
仏さまが現れ、

「是より西に当り稲田といえる処に、
 名僧知識下られて仏法弘通盛なる程に、
 明日は急ぎ参詣致すべし」

と告げられたという。

翌日、綱宗は霊夢に従って
稲田へ向かった。

するとどうだろう。
門前市をなし、
多くの人たちが、
親鸞聖人のご説法を
聴聞している最中であった。

綱宗も群衆に交じって、
聞法に身を沈めた。

綱宗の心に、
聖人のお言葉は
しみ入るように響いてくる。

後生に一大事あることと、
その解決は、阿弥陀仏の本願以外には
絶対ないと知らされ、
その日のうちに、
聖人のお弟子となり、
唯円房の名を賜っている。
この時、聖人43歳であった。

綱宗は『歎異鈔』の
作者ではないかといわれる
「河和田の唯円」とは別人である。
区別して、
綱宗を「鳥喰の唯円」という。

鳥喰の唯円が開いた西光寺がある。
この西光寺にこんな話が
残されている。

昔、「おため」という
十八歳の美しい娘がいた。
貧しい農家に生まれたが、
篠田民部という豪族の家に
雇われ、働いていた。

その家には六郎という
屈強の若者がいた。

六郎は、毎日まめまめしく働く
おための姿を見て、
恋心を抱くようになった。

おためも、若くてたくましい
六郎に思いを寄せていた。

いつしか二人の間には
身分の違いを超えて
ひそかな愛が育って
いったのである。

しかし、楽しい恋の日々は
長くは続かなかった。

六郎は、親の説得に
負けてしまい、
近所に住む富豪の娘と結婚し、
おためは、民部の家から
追い出されてしまった。

引き裂かれた、
おための恋慕の情は
ますます燃え盛り、
いつしか、激しい憎悪の炎へと
転じていったのである。

「どうせ一緒になれないのなら、
 呪い殺してやる」
 
藁人形に釘を打ち、
毎夜毎夜、恐ろしい形相で
祈るのであった。

ある夜、彼女の様子を垣間見た村人が、

「おための頭に角が生え、
 鬼になったぞ!」

と驚いて告げたという。

村人は、何とか元の
優しい娘に戻すことはできないかと、
親鸞聖人に救いを求めた。

哀れに思われた聖人は、
早速おために会いに行かれた。

狂乱状態の彼女を、
どう導かれたかは伝えられていないが、
何日間もご説法なされている。

冷静さを取り戻したおためは、
命を懸けた恋さえ
続かない現実と、
自分の思いどおりにならないと
恋する相手をも殺してしまう
恐ろしい自己のすがたを知らされ、
戦慄せざるをえなかった。

しかし、

「どんな人をも、
 必ず助ける、
 絶対の幸福に」

と誓われた阿弥陀仏の本願を
知らされ、熱心な仏法者に
生まれ変わったという。

恐ろしい角は、
おためだけが
持っているのではない。

私たちの心の中には、
常に、うらみ、ねたみ、
そねみ、怒りの角が
生えていないだろうか。


人間の実相を語る歴史人(城主の位を捨てた唯信房)

2011年08月04日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(城主の位を捨てた唯信房)

親鸞聖人は、稲田から鹿島方面へ、
よくご布教に歩かれた。

そのコースの途中、
霞ヶ浦の北岸に幡谷村があった。

建保四年8月13日の夜のこと。
この村の城主・幡谷次郎信勝の夢に、
観音菩薩が現れ、

「汝、城主の位は高くとも、
 七珍万宝は久しくとどまらず。
 ただいま城下に休んでおられる
 親鸞聖人のご教化を被らずは、
 永劫に生死を出ずること
 あるべからず。
 直ちに行きてみ教えを賜れ」

と告げたという。

「おまえは今、
 城主という地位や財産に
 満足しているかもしれぬが、
 いつまでも続く幸せではないぞ」

という観音の言葉が、
深く胸に刺さった。

不思議な霊夢に驚いた信勝は、
夜が更けていたにもかかわらず、
一人で城外に出てみた。

するとどうだろう。
霊夢のとおり、
親鸞聖人が三日月を
眺められながら、
しばしお休みに
なっているではないか。

信勝は、聖人にお目にかかって、
事の次第をお話しした。

親鸞聖人は、

「今まで何度も、
 この城下を往復しています。
 そのたびに、
 いつかお会いして、
 親しくお話ししたいと
 思っていました。
 ようやく縁が熟したのですね」

とお喜びになった。

信勝は胸をときめかせながら、
聖人を城内へご案内し、
夜の明けるまで、
阿弥陀仏の本願を
聴聞させていただいた。
 信勝は、

「善知識まします今、
 真剣に求めなかったら、
 未来永遠、苦しみから
 逃れることはできないぞ」

という、観音菩薩の言葉を
かみしめずにおれなかった。

すなわち、城主の位をなげうって、
聖人のお弟子となり、
「唯信房」と生まれ変わった。

唯信房は、親鸞聖人のみ教えの
伝道に燃えた。

北は福島県から、
南は島根県に至るまで、
教化の跡が残されている。

水戸市緑町の信願寺は、
唯信房が開いた寺である。
関東には、人生の目的を
知らされた人々の熱烈な
聞法の逸話が、
数多く残されている。



人間の実相を語る歴史人(慈善房・源海房の霊夢)

2011年08月03日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(慈善房・源海房の霊夢)

後鳥羽上皇の家臣・橘重義は、
優れた歌人として有名であった。

しかし、いくら文学で
名声を得ても、
心には満たされないものを
感じていた。

重義が、所用で関東に向かい、
常陸国の村田郷の太子堂で
一夜を明かした時のことである。

夢の中に、聖徳太子が現れ、

「これより西南に高僧ましまして
 説法したもう。
 これ弥陀如来の化身なり。
 汝、早く行きて要法を聴聞せよ」

と告げられたという。

驚いた重義は、
稲田の草庵に親鸞聖人を訪ねた。

「地位や名誉は、
 いつまでも続く幸せではない。
 阿弥陀仏によって、
 大安心、大満足の
 絶対の幸福に救われてこそ、
 永遠に変わらない幸せに
 なれるのです」
 
親鸞聖人は阿弥陀仏の本願を
説法なされた。
重義は、それまでの地位も
名誉も投げ捨てて、
直ちに聖人のお弟子になっている

これは建保三年、聖人43歳の
時で出来事である。
 
慈善房と生まれ変わった重義は、
霊夢を見た太子堂のほとりに
聞法道場(常弘寺)を建て、
親鸞聖人のみ教えを
伝えることに生涯をかけた。

武蔵国の領主・安藤隆光には、
七歳の月寿と五歳の花寿という
二人の男の子があった。

寵愛限りなかったが、
ある年、ふとした病で、
二人の子供を同じ日に
亡くしてしまった。

一度に二人の愛児を失った
隆光の嘆きは、
他人には想像できない。

涙尽き、ともに死のうとまで
思っていたある夜、
夢の中に、尊い僧が現れ、
次のように告げたという。

「汝、未来永劫、
 悪道に堕ちるのは必定である。
 今、観音、勢至菩薩が、
 かりに、そなたの愛児と生まれて、
 世の無常を目の当たりに
 示してくだされた。
 これひとえに汝ら夫婦を
 菩提の道に入れしめんが
 ためである。
 今、幸いに、
 末代不思議の善知識あり。
 親鸞聖人と名づく。
 汝、速やかに行きて、
 仏法を聴聞せよ」
 
隆光は、大いに喜び、
急ぎ、親鸞聖人の元へはせ参じ、
聞法に励んだ。

この時、隆光34歳、
聖人のお弟子となり、
源海房と生まれ変わったのである。

私たちも、肉親の死を、
一時の悲しみに終わらせず、

「次は自分の番」

と受け止め、聞法の勝縁にしたい。







人間の実相を語る歴史人(平太郎と主人の見た夢)

2011年08月02日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(平太郎と主人の見た夢)

常陸国那荷西郡大部郷の平太郎と
いう庶民がいた。

この人は聖人の教えを深く信じて、
二心のない尊い人であった。

平太郎は、ある大きな屋敷で働いていた。

彼の主人は、紀州(和歌山県)の
熊野権現の厚い信者であった。

そのため、主人から

「熊野へ供をせよ」

と命じられたのである。

親鸞聖人のみ教えに生きる彼は、
大変困惑した。その苦衷は、
『真仏寺略縁起』に
次のように記されている。

「一向専念の行者は
 神につかうることなかれと、
 常々聴聞したる身にてありながら、
 その社廟に詣ぜんこと、
 我心にまかすべからずと思いつつ、
 (中略)
 遥々都へ上り、(聖人に)伺い申しける」
 
この文からも、親鸞聖人が、常に、

「一向専念無量寿仏」

を説かれていたことが分かる。

しかし、主人の命に背けば、
仕事は首になり、
家族を路頭に迷わす結果になる。

いかにすべきか。
平太郎は深刻に悩んだ末、

「事は後生の一大事、
 迷った自分の考えで
 判断してはならない。
 親鸞聖人に直接お尋ねしよう」

と心が定まった。

この時、聖人は、
京都の五条西洞院辺りに
住んでおられた。

関東からはるばる
訪ねて来た平太郎に、
聖人は、厳然とおっしゃった。

「末法の今日、
 諸仏菩薩や諸神の力では
 絶対に助からぬ。
 我々の救われる道はただ一つ、
 本師本仏の阿弥陀仏一仏を
 信じ仰ぐ以外にない。
 一向専念無量寿仏は
 往生の肝腑であり、
 自宗の骨目である」

と。そしてこれは、
決して親鸞の独断ではなく、
釈尊のみ教えであることを、
懇々と諭されてから、
優しく、こうおっしゃった。

「しかし平太郎よ、熊野参詣は、
 そなたから望んだことではあるまい」

「はい、主人の命令です」

「逃れ難い主命であれば、
 今度だけは従うがよかろう。
 しかし、飽くまで供をするだけだぞ。
 権現には、決して神の作法や
 儀式で奉仕してはならないぞ」
 
温かい聖人のご教導に、
平太郎は泣かずにおれなかった。

かくして、主人に従って
熊野へ行ったが、
念仏を称えるばかりで、
神信心の作法や儀式は
一切しなかったのである。

すると、その夜、
平太郎は不思議な夢を
見たのである。

衣冠を正した権現が
証誠殿の扉を押し開いて現れ、

「汝はなぜ、作法を無視し、
 この権現を軽んずるのか」

と、平太郎を責めた。

ところがそこへ、
こつ然として親鸞聖人が現れられ、
権現に向かって、
厳かにおっしゃった。

「これ権現、この平太郎は、
 親鸞の教えを信じて
 念仏する者である」
 
これを聞いた権現は、
直ちに、衣冠を正し、
聖人を敬礼して
さらに一言も言わなくなったところで、
夢が覚めた。

以上が、『御伝鈔』下巻第五の
あらましである。

『真仏寺略縁起』には、
平太郎の主人も、
熊野で同じ夢を見たと記されている。

ところが、主人の夢の中では、
聖人に大喝された熊野権現は、
驚いて、平太郎を三度も礼拝した。
主人は権現に言った。

「なぜ、初めて参詣しながら
 神に対する作法を守らない
 平太郎を尊敬されるのですか。
 私はこれまで毎年、
 二十六回も参詣しているのに」
 
権現は、声を荒げて、

「汝は愚かなり。
 この世の息災延命ばかりを願って、
 はるばる関東から通っているが、
 すべての人間は、
 やがて必ず死んでいくのだ。
 一息切れた後生に、
 一大事あることを知る者がいない。
 これわが苦悩にして
 胸を痛めること限りなし。
 今宵、参詣の千七百人のうち、
 平太郎ただ一人、
 真剣に後生の一大事の解決を求め、
 阿弥陀仏の本願を聞き求めている。
 あたかも泥中の蓮華のごとく、
 諸人の中の希有人なれば、
 尊敬せずにおれない」

と告げ、証誠殿へ入っていった
ところで夢が覚めた、という。

平太郎は、不思議な夢の顛末を、
親鸞聖人にご報告したいと、
再び、京都を訪れている。

聖人は、驚かれるご様子もなく、

「そうだそうだ、そのことだ」

と、仰言っただけであった。
これまた不思議なことである、
と『御伝鈔』に記されている。

平太郎は、

「命のある限り、
 一向専念無量寿仏を
伝え切ります」

と、お誓いし、
関東へ帰っていった。






人間の実相を語る歴史人(定禅法橋の霊夢)

2011年08月01日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(定禅法橋の霊夢)

定禅法橋の描いた、
有名な親鸞聖人の御真影が、
枕石寺に残されている。

このいわれは、『御伝鈔』の中に、
次のように記されている。

親鸞聖人、七十歳の御時。
入西房(日野左衛門)は、
聖人を慕って都へやってきた。
そして、関東へ帰るまでに、
聖人のお姿を写させていただきたいと、
心ひそかに願っていた。

善知識のお姿を常にそばで拝し、
求道の勝縁としたいという心は、
今も昔も変わらない。

しかし、この時代、
カメラはないので、
絵に表すしかない。

それを察せられた聖人は、
ある日、こうおっしゃった。

「素人の描いたものでは
 満足できないだろう。
 七条辺りに定禅法橋という
 絵師がいる。
 彼に写させたらよかろう」
 
入西房は大喜び、
どこまでも行き届いた
恩師の配慮に感激し、
早速、定禅法橋を招いた。

やがて参上した絵師の定禅、
聖人の尊顔を拝するやいなや、
驚いて、こう言った。

「実は昨晩、珍しい夢を見ました。
 その夢に現れた貴い御僧のお顔と、
 ただいまお目にかかるお顔とは、
 少しも変わりません。
 こんな不思議なことが
 あるものでしょうか」

と、夢の子細を話すのであった。

「貴い御僧が二人入って
 こられた夢を見ました。
 一人のお方が、お連れの方を指して、
 『この御僧の真影を、
  ぜひあなたに描いて
  いただきたいが、いかがか』
 と申されました。
 そこで、
 『一体この御僧は、
  どなたでしょうか』
 と尋ねると、
 『このお方こそ、
  善光寺の阿弥陀如来である』
 と、その僧はおっしゃいました。
 あまりのことに私は、
 『さては肉身の
  阿弥陀如来でましますか』
 と合掌し、身の毛いよだつ
 思いで恐懼平伏していると、
 『お顔だけ写していただけば
  結構である』
 とも言われました」

「このような問答往復で
 夢が覚めました。
 ところが今、
 拝顔します御僧のお姿と、
 夢の中の御僧とは
 寸分の違いもありません。
 ああ、何という不思議な
 ことがあるものでしょうか」
 
定禅は、喜びのあまり感泣した。

「それでは、夢のとおりに
 させていただきましょう」

と、聖人のお顔だけを、
お写し申し上げた。

定禅が、この霊夢を見たのは、
仁治三年(1242年)9月20日の
夜のことであった。(聖人七十歳)

覚如上人は、

「この不思議な夢を、
 つくづく考えてみると、
 親鸞聖人は阿弥陀如来のご化身で
 あったことは明らかである。
 したがって、親鸞聖人のみ教えは、
 阿弥陀如来、じきじきの
 ご説法であることも、
 何の疑いもない。
 心中より仰信すべきである」

と仰言っている。
 
定禅法橋が描いた聖人のお姿は

「親鸞聖人御首鑑察之御真影」

と呼ばれている。

入西房は、この御真影を
関東へお持ちし、
聖人のご恩をしのびつつ、
布教に生涯を懸けたのであった。







人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人の日野左衛門の済度)

2011年07月31日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人の日野左衛門の済度)

親鸞聖人が日野左衛門を
済度される場面は有名だ。

囲炉裏に薪がくべられ、
部屋には暖かい空気が満ちてくる。
火を囲んで、聖人は
日野左衛門に尋ねられた。

「日野左衛門殿。
 こんなことを尋ねては失礼だが、
 夕べ、『坊主は大嫌いだ』と
 言われていたようだが……」

「いや、つまり……、あれはだな。
 葬式や法事で、
 訳の分からんお経を読んだり、
 たまに説教すりゃ、
 地獄だの極楽だのと、
 死んでからのことばっかり言って、
 金を持っていく。
 そんな者、おれは、大嫌いでなぁ。
 だって、そうじゃねえか。
 やつらのやってることは、
 墓番と、葬式だ。
 死んだ人間の、後始末ばかりだ。
 どうして生きてる人間に、
 どう生きるかを教えねえんだ。
 それが、坊主の役目だろう。
 おれたちゃあ、毎日どう生きるかで、
 朝から晩まで一生懸命なんだ。
 その、どう生きるかを、
 少しも教えねえで、
 汗水流して稼いだ物を、
 持っていきやがる」
 
親鸞聖人も、さも、もっともだと、
うなずいて聞いておられる。

「ところで、日野左衛門殿。
 どう生きるかも大切だが、
 なぜ生きるか、は、
 もっと大事だとは、
 思われませんか。
 どう歩くか、よりも、
 なぜ歩くか、が、
 もっと大事ではありますまいか」
 
日野左衛門は、ハッとして、
親鸞聖人の方を向く。

「なぜ生きる……」

「さよう。皆、
 どう生きるかには一生懸命だが、
 なぜ生きるか、を知りませぬ。
 のお、日野左衛門殿。
 それだけ皆、一生懸命、
 生きるのはなぜか。
 それこそ、最も大事ではなかろうか」

「うーん……。なぜ歩くか、
 が分からねば、歩く苦労は、
 無駄か……。
 なぜ生きるか、が分からねば、
 生きる苦労も、また無駄か……。
 そう言われれば、そうだ。
 おれは、一生懸命生きることが、
 一番いいことだと思っていたが……、
 なぜ生きるかの一大事を、
 おれは忘れていたのか……」

「それをハッキリ、教えられたのが、
 仏法を説かれた釈尊なんですよ」

「エエッ!そんな教えが仏法?」

「そうです。お釈迦さまは仰せです。
 大宇宙には、数多くの仏さまがおられる。
 それらの仏が本師本仏と仰がれるのが、
 阿弥陀如来です。
 絶対の幸福になることこそが、
 なぜ生きるかの答えなのです」

「絶対の幸福、
 それはいつなれるのだ」

「この身、今生、ただいまのことです」

「ただいま、この世で助かる?」

「そうです。今、救われずして、
 救われる時はありません」

「しかしなぁ。殺生ばかりしている
 おれなんか、どうせ縁なき衆生さ」
 
首を左右に振って、
自嘲する日野左衛門。

「日野左衛門殿。
 あなたが殺生されるのは、
 肉を好んで食べる人が
 いるからでござろう」

「そうだが……」

「たとえ、自分が殺さずとも、
 肉を食べれば、
 同じ殺生罪と教えられているのが、
 仏法です」

「えっ?それじゃ、みんな、
 殺生していることになるじゃないか」

「いかにも。殺生せずしては、
 生きていけない。
 私たちの、どうにもならぬ
 恐ろしい業なのです」
 
さらに前に身を乗り出す日野左衛門。

「そのとおりだ」

「すべての人が、どうにもならぬ
 極悪人だからこそ、
 阿弥陀如来は、我を信じよ、
 必ず、救い摂ると
 誓っておられるのです」

「そ、それは、本当か」

「この親鸞が、生き証人でござる。
 欲や怒り、愚痴の塊の、
 助かる縁の尽きた親鸞が、
 もったいなくも、
 阿弥陀如来のお目当てじゃった」
 
合掌、瞑目されて、
静かに称名念仏される聖人。

「あなたは、違う、どっか違う。
 親鸞さま。もっと詳しく
 聞かせてくだせえ」

「お聞きください。
 詳しくお話ししましょう」
 
それから、親鸞聖人は、
熱心に話し込まれるのであった。

大慈大悲の阿弥陀仏のご本願を
知らされた日野左衛門は、
聖人のお弟子となり、
入西房と名を改めた。

寺伝には、

「たちどころに他力摂生の
 信心を獲得しけり」

と記されている。

ご恩をしのぶ日野左衛門

入西房は、自宅を聞法道場とし
枕石寺と名づけた。
寺の名前がそのまま聖人の
ご苦労を表している。
 
この寺には
「雪中枕石之御真影」
といわれる聖人像がある。
入西房の作である。

ちょうど1年後の11月27日も
吹雪であった。入西房は、

「罪業深く、地獄行きの私が、
 弥陀の浄土間違いない身に
 救われたのは、親鸞聖人が、
 わが家の門前で
 ご苦労してくだされたからであった。
 計り知れないご恩を受けながら、
 ややもすると忘れがちになるとは、
 なんとあさましいことか」

と、懺悔せずにおれなかった。

そこで、末代の人々が、
阿弥陀仏に救われる縁と
なるようにと、
石を枕、雪を褥のお姿をご彫刻し、
ご恩をしのんだのであった。

人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人と日野左衛門)

2011年07月30日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人と日野左衛門)

親鸞聖人が、関東布教の
拠点にされた稲田の草庵は、
笠間市稲田にあった。

稲田は、小高い山に
囲まれた盆地である。

その景観は京都と似ているので、
親鸞聖人も大変
お気に召されたという。

聖人は、二十年近く
稲田に住まわれた。

といっても、ただじっと、
訪れる人に法を説かれたのではない。

聖人のお弟子の草庵が、
稲田を中心に、
北は福島県から南は神奈川県までに
広がっていることから、
関東一円をくまなく歩かれ、
体にかけた布教を
実践されたことが分かる。

その距離から見ても、
数ヵ月単位で布教の旅に
出られることが多かった
のではなかろうか。

二十年の間に、
百人近い門弟と数万人の親鸞学徒が
生まれたといわれている。

聖人が、布教の旅から
稲田にお帰りの時には、
参詣者が、どっと詰めかけただろう。
その活気に満ちた有り様は、
次のように記されている。

「仏法弘通の本懐ここに成就し、
 衆生利益の宿念たちまちに満足す。
 この時、聖人仰せられて曰わく、
 『救世菩薩の告命を
  うけし古の夢、
  すでに今と符合せり』と」
   (御伝鈔)

「救世菩薩の告命」とは、
29歳の御時、
六角堂で感得された
「救世観音の夢告」である。

親鸞聖人は、数千万の人々に
真実を説き聞かす夢を見られたが、
今まさに、そのとおりになっている、
と仰言っている。
 
今は稲田御坊西念寺は「
浄土真宗別格本山」と称し、
真宗諸派のいずれにも
属していない。

親鸞聖人のご法話の日には、
数多くの人々が、この参道を
行き来したのだろう。

親鸞聖人は、ご家族と、
稲田に住居を持たれたが、
決して安穏とした日々を
送られたのではない。

席の暖まるいとまもなく、
各地へ足を延ばされ、
精力的な布教を開始された。

ある年の11月27日、
二人のお弟子と常陸(茨城県)の
東北部へ旅立たれた時のこと。
夕暮れ時から吹雪となり、
聖人のご一行は、
道に迷ってしまわれた。

宿を探そうにも人家が見当たらない。
途方に暮れておられた時、
やっと一つの明かりが見つかった。
日野左衛門の家であった。

日野左衛門が、酒に酔い、

「おい、もう一杯」

と、妻・お兼に、
杯を突き出している時に、
玄関の戸をたたく音がした。

お兼が戸を開けると、
そこには親鸞聖人と
西仏房、蓮位房の姿があった。

「夜分遅く、申し訳ない。
 道に迷い、吹雪で難儀しておる者。
 一夜の宿を、お願いしたいのだが」

と蓮位房が事情を話すと、
奥から日野左衛門がどなった。

「ダメだぞッ!お兼!」

日野左衛門はどなり続ける。

「ならば、お師匠さまだけでも」
 
蓮位房が重ねて頼むと、
日野左衛門、ナタをつかんで
戸口へやってきた。

「だめだ。だめだ。
 おれは、坊主は大嫌いだ」
 
血相を変えて叫び続ける。
それだけではない。
親鸞聖人を突き倒そうとした。

止めに入った西仏房に、
日野左衛門は、

「出ていかねえと、
 たたき殺すぞ!坊主ども」

と、ナタを振り回してきた。
やむをえず、西仏房は、
日野左衛門の腕をねじ上げた。

親鸞聖人は、厳然とおっしゃった。

「西仏房。無礼があってはなりませぬ」

西仏房は、即座に
日野左衛門の手を離し、
聖人の前に両手を突いて、
ひれ伏した。

日野左衛門は、

「このやろう。乱暴しやがって、
 早く、出ていけ!」

と、捨てゼリフを残して、
戸をピシャリと閉めてしまった。

聖人ご一行は、
やむなく門の下に寄り添って
いてつく夜を明かされる
ことになった。

聖人は、門扉をとめる石を
枕に休まれたが、
お体には雪が降り積もっていく。

「お師匠さま、お寒いでしょう」

気遣うお弟子に、聖人は、

「寒くとも
 たもとに入れよ 西の風
 弥陀の国より吹くと思えば」

と詠まれたという。

「阿弥陀如来からお受けした、
 大きなご恩を思えばなぁ、
 親鸞。物の数ではない」
 
阿弥陀仏の大慈悲を、
説かれるのであった。

夜も更け、雪は深々と降り続く。

『枕石寺御絵伝』によれば、
この時、家の中で眠る
日野左衛門は霊夢を見たという。

すなわち、雲に乗った人が現れて、
次のように告げられた。

「日野左衛門。今、汝の門前に、
 尊い方が、休んでおられる。
 直ちに参って、教えを受けよ。
 さもなくば、未来永劫、
 苦患に沈むぞ」
 
驚いた日野左衛門は、
飛び起きて門へ走った。
酔いのさめた彼の目に映ったのは、
雪の布団をかぶったように
横たわっておられる
親鸞聖人のお姿であった。

降りかかる雪を必死に
防いでいる二人の弟子も、
雪像のように動かない。

日野左衛門とお兼はすぐに、
聖人ご一行を家の中に
ご案内するのであった。



人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人と天台宗の円政)

2011年07月29日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人と天台宗の円政)

親鸞聖人が、35歳の時、
権力者の横暴に
ついに新潟に流刑となった。

当時は流罪の地、新潟県直江津までは
徒歩でいった。

その途中、加賀(石川県)に流れる
手取川を越え、松任市の
倉部川を渡っておられた時である。
 
あたかも、聖人ご一行の
到着時刻を知っていたかのように、
向こう岸に一人の僧侶が
現れたという。

天台宗無量寺の住職・円政であった。
 
承元元年の春、円政は、
尊いかたが無量寺に
入られる夢を見た。

あまりにも鮮やかな夢だったので、

「これは何か、素晴らしいことが
 起きる前兆に違いない」

と思っていると、

「都から、親鸞聖人が
 流罪に遭われ、間もなく、
 この地を通られる」

というウワサが耳に入った。

円政は、

「親鸞聖人こそ、
 夢に見た尊いかたに
 違いない」

と思い、急いで、
近くの倉部川まで行ったところ、
ちょうど、川を渡っておられる
ところであった。

感激の涙で、聖人を
お迎えする円政。

「私の寺に、ぜひ、
 お立ち寄りください」

「そなたの宗旨は」

「天台宗でございます。
 それにしても、
 いつもは水かさが多くて、
 この辺は渡ることができず、
 はるか下流へ遠回り
 しなければなりません。
 今日、聖人のご一行が、
 たやすく渡ってこられたのは、
 たまたま水量が
 少なかったからです。
 もし、川下へ回っておられたら、
 私は一生涯、聖人さまと
 お会いすることが
 できなかったでしょう。
 なんと、不思議なご縁
 でしょうか」

と円政は、驚喜した。

この時、親鸞聖人は、

「法の道
 まわらば遠き競川
 弥陀は松任近渡しぶね」

と、お歌一首を
お示しになったのである。

このお歌を理解するには、
まず、聖道門の仏教と
浄土門の仏教の違いを
知らねばならない。

宗派は異なっても、
仏教の目的はただ一つ、
仏のさとりを開いて
真実の幸福を体得することである。

しかし、そこまで至る方法の
違いによって、
仏教を二つに分けられたものだ。

聖道門の仏教は、
難行道といわれるように、
大変長い年月、
厳しい修行を積み重ねないと、
仏のさとりを開くことはできない。

それに対して、
浄土門の仏教は、
阿弥陀仏を信ずる一つで、
この世から絶対の幸福に救われ、
命終わると、必ず
仏のさとりを開くことができる。
このため、易行道ともいわれるのだ。

親鸞聖人は、円政に、

「この川に例えれば、
 向こう岸へ渡るのに、
 川下へ遠回りするのが、
 天台宗はじめ聖道門の仏教である。
 船に乗って、真っすぐ
 向こう岸へ着く近道が、
 浄土門の仏教であり、
 これを、"横超の直道"という。
 阿弥陀仏は、
 "どんな人をも、必ず助ける"
 と誓っておられる。
 今日の我々が、
 苦しみ悩みの娑婆世界を離れ、
 浄土の岸に至るには、
 阿弥陀仏を信じ、
 大悲の願船に乗せて
 いただくしかないのだ」

と、阿弥陀仏の本願を
説かれたのである。

円政は、その場で聖人の
お弟子となった。

天台宗を捨て、
浄土真宗に改宗したのは
言うまでもない。

寺名も、「無量寺」から
「本誓寺」と改め、
加賀国で最初の
真宗寺院に生まれ変わった。





人間の実相を語る歴史人(恵信尼の夢)

2011年07月27日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(恵信尼の夢)

親鸞聖人の御正室、恵信尼さまは、
どのようなお気持ちで
親鸞聖人に仕えて
おられたのだろう。
 
それは、親鸞聖人ご往生のあと、
末娘の覚信尼さまに
あてられたお手紙の中に
記されている。

「越後から関東へ移って
 間もなくのことでした。
 次のような夢を見たのです。
 ある新築の御堂で、
 厳かに堂供養が行われていました。
 堂前の鳥居のようなものの横木に、
 二幅の絵像本尊がかかっています。
 一幅の尊形は明らかに
 拝せられましたが、
 もう一幅は、ただ金色に輝いて、
 尊容が分かりませんでした。
 そこで、そばの参詣者に、
 「あの光り輝いている方は
  何仏でしょうか」
 と尋ねると、
 「あの光ばかりでいられるのは
  勢至菩薩で、今の法然上人です」
 とのことでした。
 「では、もう一幅の尊形は」
 と聞くと、
 「大悲観世音菩薩であって、
  あれこそ善信の御房、
  親鸞聖人です」
 と告げられたところで
 目が覚めました。
 翌朝、聖人に申し上げると、
 「夢にはいろいろあるが、
  それは真実だ。
  法然上人は勢至菩薩の
  ご化身に間違いない」
 と仰せられました。
 しかし、どうしても、
 殿(聖人)が、
 観世音菩薩のご化身で
 あるとのお告げは、
 はばかって申し上げ
 られませんでした。
 それ以来、心中深く
 思いとどめて、
 恭敬の真心でお仕えしてきました。
 どうかあなた(覚信尼)も、
 「わが父は、このようなお方」
 と心得ていてください」

恵信尼さまが四十余年、
だれにも語らず、
深く胸に秘めておられたことを、
愛嬢、覚信尼さまに
そっと漏らされたものである。

恵信尼さまは、生涯、
夫・親鸞聖人を、
観音菩薩のご化身と
仰いでおられたことが分かる。