人間の実相を語る歴史人(箱根での不思議な出会い)
箱根神社は、
昔、箱根権現と
呼ばれていた。
親鸞聖人と箱根権現の関係は、
『御伝鈔』に次のように
記されている。
親鸞聖人は、夕暮れになって、
険しい箱根の山道に
差しかかられた。
もうどこにも旅人の姿はない。
夜も深まり、
やがて暁近く月落ちるころ、
ようやく人家らしきものを
見つけ、ホッとなさる。
訪ねた家から、
身なりを整えた一人の老人が、
恭しく出迎えて、こう言った。
「私が今、少しまどろんでいますと、
夢うつつに箱根権現(神)さまが現れて、
もうすぐ私の尊敬する客人が、
この道を通られる。
必ず丁重に誠を尽くして、
ご接待申し上げるように……と、
お言いつけになりました。
そのお告げが、
終わるか終わらぬうちに、
貴僧が訪ねられました。
権現さままでが尊敬なさる貴僧は、
決して、ただ人ではありませぬ。
権現さまのお告げは明らかです」
老人は感涙にむせびつつ、
丁寧に迎え入れ、
さまざまのご馳走で、
心から聖人を歓待した。
親鸞聖人は、ここで三日間、
教化されたという。
以来、神官皆聖人を尊敬し、
箱根権現の社殿に、
親鸞聖人の御真影が
安置されるようになった。
それは明治時代まで続いたという。
神仏分離の法令以後、
親鸞聖人のお姿は宝物殿に
移されている。
箱根を越えられる
親鸞聖人の前に
一人の男がひざまずいた。
彼は後に親鸞聖人のお弟子となり、
嘉念房善俊と名乗った人である。
後鳥羽上皇の孫とも皇子とも
いわれているが、
無実の罪をきせられ、
伊豆に流罪となり、
悲歎にくれる毎日を
過ごしていた。
「私は都から流罪に遭って、
この山で配所の月を
眺めている者です。
失礼ですが、
どのような修行を
積まれた大徳で
あらせられますか」
「何の修行も積んでいません。
ただ、阿弥陀仏の本願を
お伝えしている者です」
聞いた流人は涙を流して喜び、
「常日ごろ、後生の一大事が
心にかかりながら、
いたずらに月日を
送っていましたが、
今ここに善知識に
巡り会えたことを
喜ばずにおれません。
どうか、流人のあばら家に
お立ち寄りくださり、
わが、暗い心をお救いくださいませ」
と願い出た。
親鸞聖人は、喜んで流人の住居へ
足を運ばれ、
「どんな人をも、必ず、
絶対の幸福に助けたもう
阿弥陀仏の本願」
を、懇ろに説かれた。
この流人は、親鸞聖人のお弟子となり、
嘉念房と名乗った。
嘉念房は赦免のあと、
京都に親鸞聖人を訪ね、
常におそばにあって
お仕えした。
弘長二年、親鸞聖人が
浄土往生の人となられたあと、
嘉念房は、美濃国を巡教し、
白鳥郷に草庵を結んで
親鸞聖人のみ教えの
徹底に全力を尽くしていた。
ある日、一人の男が来て、
「私は、ここより北に当たる
飛騨国白川郷に住む者ですが、
これまで、仏法というものを
聞いたことも見たことも
ありませんでした。
どうか私の国にも
真実をお伝えください」
と願い出た。
嘉念房は、これぞわが使命と、
翌日にも出発しようとした。
しかし、白鳥郷の人々は、
「せっかく念仏繁盛の
この地を後に、
山深い飛騨国へ入ることは
やめてください」
と言ったが、嘉念房は、
「そんな所こそ、
真実を弘めなければならぬ……。
きっと、師の聖人も
お喜びになるであろう」
と決意を述べ、布教に旅立ったという。
浄土真宗大谷派高山別院は
嘉念房が開基である。
箱根神社は、
昔、箱根権現と
呼ばれていた。
親鸞聖人と箱根権現の関係は、
『御伝鈔』に次のように
記されている。
親鸞聖人は、夕暮れになって、
険しい箱根の山道に
差しかかられた。
もうどこにも旅人の姿はない。
夜も深まり、
やがて暁近く月落ちるころ、
ようやく人家らしきものを
見つけ、ホッとなさる。
訪ねた家から、
身なりを整えた一人の老人が、
恭しく出迎えて、こう言った。
「私が今、少しまどろんでいますと、
夢うつつに箱根権現(神)さまが現れて、
もうすぐ私の尊敬する客人が、
この道を通られる。
必ず丁重に誠を尽くして、
ご接待申し上げるように……と、
お言いつけになりました。
そのお告げが、
終わるか終わらぬうちに、
貴僧が訪ねられました。
権現さままでが尊敬なさる貴僧は、
決して、ただ人ではありませぬ。
権現さまのお告げは明らかです」
老人は感涙にむせびつつ、
丁寧に迎え入れ、
さまざまのご馳走で、
心から聖人を歓待した。
親鸞聖人は、ここで三日間、
教化されたという。
以来、神官皆聖人を尊敬し、
箱根権現の社殿に、
親鸞聖人の御真影が
安置されるようになった。
それは明治時代まで続いたという。
神仏分離の法令以後、
親鸞聖人のお姿は宝物殿に
移されている。
箱根を越えられる
親鸞聖人の前に
一人の男がひざまずいた。
彼は後に親鸞聖人のお弟子となり、
嘉念房善俊と名乗った人である。
後鳥羽上皇の孫とも皇子とも
いわれているが、
無実の罪をきせられ、
伊豆に流罪となり、
悲歎にくれる毎日を
過ごしていた。
「私は都から流罪に遭って、
この山で配所の月を
眺めている者です。
失礼ですが、
どのような修行を
積まれた大徳で
あらせられますか」
「何の修行も積んでいません。
ただ、阿弥陀仏の本願を
お伝えしている者です」
聞いた流人は涙を流して喜び、
「常日ごろ、後生の一大事が
心にかかりながら、
いたずらに月日を
送っていましたが、
今ここに善知識に
巡り会えたことを
喜ばずにおれません。
どうか、流人のあばら家に
お立ち寄りくださり、
わが、暗い心をお救いくださいませ」
と願い出た。
親鸞聖人は、喜んで流人の住居へ
足を運ばれ、
「どんな人をも、必ず、
絶対の幸福に助けたもう
阿弥陀仏の本願」
を、懇ろに説かれた。
この流人は、親鸞聖人のお弟子となり、
嘉念房と名乗った。
嘉念房は赦免のあと、
京都に親鸞聖人を訪ね、
常におそばにあって
お仕えした。
弘長二年、親鸞聖人が
浄土往生の人となられたあと、
嘉念房は、美濃国を巡教し、
白鳥郷に草庵を結んで
親鸞聖人のみ教えの
徹底に全力を尽くしていた。
ある日、一人の男が来て、
「私は、ここより北に当たる
飛騨国白川郷に住む者ですが、
これまで、仏法というものを
聞いたことも見たことも
ありませんでした。
どうか私の国にも
真実をお伝えください」
と願い出た。
嘉念房は、これぞわが使命と、
翌日にも出発しようとした。
しかし、白鳥郷の人々は、
「せっかく念仏繁盛の
この地を後に、
山深い飛騨国へ入ることは
やめてください」
と言ったが、嘉念房は、
「そんな所こそ、
真実を弘めなければならぬ……。
きっと、師の聖人も
お喜びになるであろう」
と決意を述べ、布教に旅立ったという。
浄土真宗大谷派高山別院は
嘉念房が開基である。