人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人が流刑にあわれた理由)
親鸞聖人と聞いて、
多くの人が思い浮かべるのは、
当時、僧侶には
固く禁じられていた結婚を、
公然となされたことだろう。
己の欲望のままになされ、
「自分に正直に
生き抜いた方」
と聖人を評価している人も
あるようだが、
果たしてそうだろうか。
明治の文豪・夏目漱石は
こう述べている。
「親鸞上人に初めから
非常な思想が有り、
非常な力が有り、
非常な強い根柢の有る
思想を持たなければ、
あれ程の大改革は出来ない。
(中略)
如何せん独り身の僕は
唯女房を持ちたい
肉食をしたいと云う、
そんな意味ではない。
其時分に、今でも
そうだけれども、
思い切って妻帯し
肉食をすると云うことを
公言するのみならず、
断行して御覧なさい。
何の位迫害を
受けるか分らない。
尤も迫害などを
恐れるようでは
そんな事は出来ないでしょう」
聖人の根底に
「非常な思想」
があったからこそ
あえて肉食妻帯を
断行されたのだ、
と驚いている。
聖人が流刑に
遭われたのは、
肉食妻帯されて
戒律を破られたからと
思っている人が多くいる。
しかし、それだけでは
腑に落ちない点がある。
親鸞聖人以前にも、
妻帯していた僧侶が
多くあった。
奈良時代には、
三車法師という者があり、
一の車には自分が乗り、
二の車には子供を、
三の車には女を
乗せて歩いた。
これは特異な例としても、
ほかにも妻帯していた僧侶の
記録は残っている。
近くは聖人の法兄・聖覚法印にも
妻子があった。
当時、
「かくすは上人、せぬは仏」
という言葉が
流行していたことからも、
いかに僧侶たちの妻帯が
公然の秘密であったかが
分かるだろう。
けれどもそれらの僧侶たちは、
親鸞聖人のような
激しい非難を受けていない。
また、ともに流刑に
遭われた恩師・法然上人は、
生涯妻帯されていない。
親鸞聖人は玉日姫の
父親である九条兼実の
五条西洞院の屋敷を
新居となされた。
ご結婚なされた後に
吉水に二人で
挨拶に出かけられた。
その時に法然上人は
玉日姫に向かって、
「よき坊守が誕生したぞ」
と祝福の声を
掛けておられる。
これが
「坊守」
という言葉が使用された
最初である。
浄土真宗の寺の奥さんを
坊守というのも
ここからきている。
両聖人に共通した
流刑の決定的原因が
あった。
それは、
「一向専念無量寿仏」
の高調にあった。
「一向専念無量寿仏」とは、
お釈迦さま四十五年間の
み教えの結論である。
「無量寿仏」は、
大宇宙最高の仏である
阿弥陀仏の別名であるから、
このお言葉は、
「阿弥陀仏一仏に向け、
阿弥陀仏一仏だけを信じよ」
ということだ。
なぜお釈迦さまは
このように仰言ったのか。
阿弥陀仏以外に、
私たちを助けることのできる仏は
ないからなのである。
そのことを蓮如上人は
『御文章』に、次のように
明らかになされている。
「それ、十悪・五逆の罪人も、
五障・三従の女人も、
空しく皆十方・三世
の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる
我等如きの凡夫なり」
「十悪・五逆の罪人」
「五障・三従の女人」とは、
全人類のことである。
そんな私たちを
「何とか助けてやりたい」
と大宇宙の仏さま方も
一度は立ち上がられたが、
私たちの罪があまりにも重いので、
助け切ることができず、
救済を断念なされたのだ。
肉体の病なら、
世界中の医者に
見捨てられたようなもの。
これを、
「十方・三世の諸仏の
悲願に洩れて、
捨て果てられたる
我ら如きの凡夫なり」
と言われている。
そこで、
「諸仏に捨てられた
ような者だからこそ、
私が助けてやろう」
とただお一人立ち上がって
くだされたのが、
大宇宙の諸仏方の
先生である阿弥陀仏なのだよ、
とお釈迦さまは教えられた。
先の『御文章』に
続けてこのように
書かれている。
「然れば、ここに
弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の
本師・本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に
捨てられたる
末代不善の凡夫
五障三従の女人をば
弥陀にかぎりて、
『われひとり助けん』
という超世の大願を発して」
「阿弥陀仏以外の仏や、
その下の菩薩や諸神には、
すべての人を
助ける力はない。
もちろん、諸仏の一仏で
ある私にもないのだ」
とお釈迦さまは、
「阿弥陀仏一仏を信じよ、
必ず救われる」
と教えられている。
このお釈迦さまのご教導を、
命懸けで伝えていかれたのが、
法然上人であり、
親鸞聖人であった。
しかし、
「阿弥陀仏以外の
一切の諸仏・菩薩・諸神には、
我々を救う力はないのだから、
近寄るな、礼拝するな、
信ずるな、弥陀一仏に向かえ」
と「一向専念無量寿仏」を
強調すればするほど、
それらを礼拝し
信じていた人々から、
猛烈に反感を買い、
非難攻撃が起きるのは
避けられない。
特に諸神の不拝は、
神を信じる
権力者たちの逆鱗に触れ、
両聖人をはじめ、
法然上人のお弟子方が
流罪・死罪に遭われた。
今日これを
「承元の法難」
といわれ、
『歎異抄』末尾にも
記されている。
この大きな逆境を
乗り越えて聖人は、
「これも越後の人々に
弥陀の救いを
お伝えするご縁」
と微笑され、ますます
お釈迦さまの真意を
明らかにしていかれた。
親鸞聖人と聞いて、
多くの人が思い浮かべるのは、
当時、僧侶には
固く禁じられていた結婚を、
公然となされたことだろう。
己の欲望のままになされ、
「自分に正直に
生き抜いた方」
と聖人を評価している人も
あるようだが、
果たしてそうだろうか。
明治の文豪・夏目漱石は
こう述べている。
「親鸞上人に初めから
非常な思想が有り、
非常な力が有り、
非常な強い根柢の有る
思想を持たなければ、
あれ程の大改革は出来ない。
(中略)
如何せん独り身の僕は
唯女房を持ちたい
肉食をしたいと云う、
そんな意味ではない。
其時分に、今でも
そうだけれども、
思い切って妻帯し
肉食をすると云うことを
公言するのみならず、
断行して御覧なさい。
何の位迫害を
受けるか分らない。
尤も迫害などを
恐れるようでは
そんな事は出来ないでしょう」
聖人の根底に
「非常な思想」
があったからこそ
あえて肉食妻帯を
断行されたのだ、
と驚いている。
聖人が流刑に
遭われたのは、
肉食妻帯されて
戒律を破られたからと
思っている人が多くいる。
しかし、それだけでは
腑に落ちない点がある。
親鸞聖人以前にも、
妻帯していた僧侶が
多くあった。
奈良時代には、
三車法師という者があり、
一の車には自分が乗り、
二の車には子供を、
三の車には女を
乗せて歩いた。
これは特異な例としても、
ほかにも妻帯していた僧侶の
記録は残っている。
近くは聖人の法兄・聖覚法印にも
妻子があった。
当時、
「かくすは上人、せぬは仏」
という言葉が
流行していたことからも、
いかに僧侶たちの妻帯が
公然の秘密であったかが
分かるだろう。
けれどもそれらの僧侶たちは、
親鸞聖人のような
激しい非難を受けていない。
また、ともに流刑に
遭われた恩師・法然上人は、
生涯妻帯されていない。
親鸞聖人は玉日姫の
父親である九条兼実の
五条西洞院の屋敷を
新居となされた。
ご結婚なされた後に
吉水に二人で
挨拶に出かけられた。
その時に法然上人は
玉日姫に向かって、
「よき坊守が誕生したぞ」
と祝福の声を
掛けておられる。
これが
「坊守」
という言葉が使用された
最初である。
浄土真宗の寺の奥さんを
坊守というのも
ここからきている。
両聖人に共通した
流刑の決定的原因が
あった。
それは、
「一向専念無量寿仏」
の高調にあった。
「一向専念無量寿仏」とは、
お釈迦さま四十五年間の
み教えの結論である。
「無量寿仏」は、
大宇宙最高の仏である
阿弥陀仏の別名であるから、
このお言葉は、
「阿弥陀仏一仏に向け、
阿弥陀仏一仏だけを信じよ」
ということだ。
なぜお釈迦さまは
このように仰言ったのか。
阿弥陀仏以外に、
私たちを助けることのできる仏は
ないからなのである。
そのことを蓮如上人は
『御文章』に、次のように
明らかになされている。
「それ、十悪・五逆の罪人も、
五障・三従の女人も、
空しく皆十方・三世
の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる
我等如きの凡夫なり」
「十悪・五逆の罪人」
「五障・三従の女人」とは、
全人類のことである。
そんな私たちを
「何とか助けてやりたい」
と大宇宙の仏さま方も
一度は立ち上がられたが、
私たちの罪があまりにも重いので、
助け切ることができず、
救済を断念なされたのだ。
肉体の病なら、
世界中の医者に
見捨てられたようなもの。
これを、
「十方・三世の諸仏の
悲願に洩れて、
捨て果てられたる
我ら如きの凡夫なり」
と言われている。
そこで、
「諸仏に捨てられた
ような者だからこそ、
私が助けてやろう」
とただお一人立ち上がって
くだされたのが、
大宇宙の諸仏方の
先生である阿弥陀仏なのだよ、
とお釈迦さまは教えられた。
先の『御文章』に
続けてこのように
書かれている。
「然れば、ここに
弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の
本師・本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に
捨てられたる
末代不善の凡夫
五障三従の女人をば
弥陀にかぎりて、
『われひとり助けん』
という超世の大願を発して」
「阿弥陀仏以外の仏や、
その下の菩薩や諸神には、
すべての人を
助ける力はない。
もちろん、諸仏の一仏で
ある私にもないのだ」
とお釈迦さまは、
「阿弥陀仏一仏を信じよ、
必ず救われる」
と教えられている。
このお釈迦さまのご教導を、
命懸けで伝えていかれたのが、
法然上人であり、
親鸞聖人であった。
しかし、
「阿弥陀仏以外の
一切の諸仏・菩薩・諸神には、
我々を救う力はないのだから、
近寄るな、礼拝するな、
信ずるな、弥陀一仏に向かえ」
と「一向専念無量寿仏」を
強調すればするほど、
それらを礼拝し
信じていた人々から、
猛烈に反感を買い、
非難攻撃が起きるのは
避けられない。
特に諸神の不拝は、
神を信じる
権力者たちの逆鱗に触れ、
両聖人をはじめ、
法然上人のお弟子方が
流罪・死罪に遭われた。
今日これを
「承元の法難」
といわれ、
『歎異抄』末尾にも
記されている。
この大きな逆境を
乗り越えて聖人は、
「これも越後の人々に
弥陀の救いを
お伝えするご縁」
と微笑され、ますます
お釈迦さまの真意を
明らかにしていかれた。