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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人が流刑にあわれた理由)

2011年07月26日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人が流刑にあわれた理由)

親鸞聖人と聞いて、
多くの人が思い浮かべるのは、
当時、僧侶には
固く禁じられていた結婚を、
公然となされたことだろう。

己の欲望のままになされ、

「自分に正直に
 生き抜いた方」

と聖人を評価している人も
あるようだが、
果たしてそうだろうか。

明治の文豪・夏目漱石は
こう述べている。

「親鸞上人に初めから
 非常な思想が有り、
 非常な力が有り、
 非常な強い根柢の有る
 思想を持たなければ、
 あれ程の大改革は出来ない。
 (中略)
 如何せん独り身の僕は
 唯女房を持ちたい
 肉食をしたいと云う、
 そんな意味ではない。
 其時分に、今でも
 そうだけれども、
 思い切って妻帯し
 肉食をすると云うことを
 公言するのみならず、
 断行して御覧なさい。
 何の位迫害を
 受けるか分らない。
 尤も迫害などを
 恐れるようでは
 そんな事は出来ないでしょう」

聖人の根底に

「非常な思想」

があったからこそ
あえて肉食妻帯を
断行されたのだ、
と驚いている。

聖人が流刑に
遭われたのは、
肉食妻帯されて
戒律を破られたからと
思っている人が多くいる。

しかし、それだけでは
腑に落ちない点がある。

親鸞聖人以前にも、
妻帯していた僧侶が
多くあった。

奈良時代には、
三車法師という者があり、
一の車には自分が乗り、
二の車には子供を、
三の車には女を
乗せて歩いた。

これは特異な例としても、
ほかにも妻帯していた僧侶の
記録は残っている。

近くは聖人の法兄・聖覚法印にも
妻子があった。

当時、

「かくすは上人、せぬは仏」

という言葉が
流行していたことからも、
いかに僧侶たちの妻帯が
公然の秘密であったかが
分かるだろう。

けれどもそれらの僧侶たちは、
親鸞聖人のような
激しい非難を受けていない。

また、ともに流刑に
遭われた恩師・法然上人は、
生涯妻帯されていない。

親鸞聖人は玉日姫の
父親である九条兼実の
五条西洞院の屋敷を
新居となされた。

ご結婚なされた後に
吉水に二人で
挨拶に出かけられた。

その時に法然上人は
玉日姫に向かって、

「よき坊守が誕生したぞ」

と祝福の声を
掛けておられる。

これが

「坊守」

という言葉が使用された
最初である。

浄土真宗の寺の奥さんを
坊守というのも
ここからきている。

両聖人に共通した
流刑の決定的原因が
あった。

それは、

「一向専念無量寿仏」

の高調にあった。

「一向専念無量寿仏」とは、
お釈迦さま四十五年間の
み教えの結論である。

「無量寿仏」は、
大宇宙最高の仏である
阿弥陀仏の別名であるから、
このお言葉は、

「阿弥陀仏一仏に向け、
 阿弥陀仏一仏だけを信じよ」

ということだ。

なぜお釈迦さまは
このように仰言ったのか。

阿弥陀仏以外に、
私たちを助けることのできる仏は
ないからなのである。

そのことを蓮如上人は
『御文章』に、次のように
明らかになされている。

「それ、十悪・五逆の罪人も、
 五障・三従の女人も、
 空しく皆十方・三世
 の諸仏の悲願に洩れて、
 捨て果てられたる
 我等如きの凡夫なり」


「十悪・五逆の罪人」
「五障・三従の女人」とは、
全人類のことである。

そんな私たちを

「何とか助けてやりたい」

と大宇宙の仏さま方も
一度は立ち上がられたが、
私たちの罪があまりにも重いので、
助け切ることができず、
救済を断念なされたのだ。

肉体の病なら、
世界中の医者に
見捨てられたようなもの。

これを、

「十方・三世の諸仏の
 悲願に洩れて、
 捨て果てられたる
 我ら如きの凡夫なり」

と言われている。

そこで、

「諸仏に捨てられた
 ような者だからこそ、
 私が助けてやろう」

とただお一人立ち上がって
くだされたのが、
大宇宙の諸仏方の
先生である阿弥陀仏なのだよ、
とお釈迦さまは教えられた。

先の『御文章』に
続けてこのように
書かれている。

「然れば、ここに
 弥陀如来と申すは、
 三世十方の諸仏の
 本師・本仏なれば、
 久遠実成の古仏として、
 今の如きの諸仏に
 捨てられたる
 末代不善の凡夫
 五障三従の女人をば
 弥陀にかぎりて、
 『われひとり助けん』
 という超世の大願を発して」

「阿弥陀仏以外の仏や、
 その下の菩薩や諸神には、
 すべての人を
 助ける力はない。
 もちろん、諸仏の一仏で
 ある私にもないのだ」
とお釈迦さまは、
「阿弥陀仏一仏を信じよ、
 必ず救われる」
と教えられている。

このお釈迦さまのご教導を、
命懸けで伝えていかれたのが、
法然上人であり、
親鸞聖人であった。

しかし、

「阿弥陀仏以外の
 一切の諸仏・菩薩・諸神には、
 我々を救う力はないのだから、
 近寄るな、礼拝するな、
 信ずるな、弥陀一仏に向かえ」

と「一向専念無量寿仏」を
強調すればするほど、
それらを礼拝し
信じていた人々から、
猛烈に反感を買い、
非難攻撃が起きるのは
避けられない。

特に諸神の不拝は、
神を信じる
権力者たちの逆鱗に触れ、
両聖人をはじめ、
法然上人のお弟子方が
流罪・死罪に遭われた。

今日これを

「承元の法難」

といわれ、
『歎異抄』末尾にも
記されている。

この大きな逆境を
乗り越えて聖人は、

「これも越後の人々に
 弥陀の救いを
 お伝えするご縁」

と微笑され、ますます
お釈迦さまの真意を
明らかにしていかれた。



人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人はなぜ結婚されたのか)

2011年07月25日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人はなぜ結婚されたのか)

「僧侶が公然と結婚する・・・」

この事実に、約八百年前の京の都は、
にわかに騒然となった。

仏教界のみならず、
大衆からも、誹謗中傷の声が
巻き起こる。

渦中にあったお方こそ、
浄土真宗の祖師・親鸞聖人だった。

非難攻撃は重々承知で、
あえて、破天荒な肉食妻帯に
踏み切られた。

人目をあざむき、
女性と通じていた僧侶は、
数知れずいた。

しかし、厳然と、
肉食妻帯を宣言なされたのは、
聖人が、日本の仏教史上で
初めてだった。

非難されてまで、肉食妻帯を
決行なされたのはなぜか。

「破戒坊主」
「堕落坊主」
「色坊主」
「腐れ坊主」
「仏敵」・・・。

あらん限りの
悪口雑言の矛先が、
親鸞聖人に向けられた。

口汚くののしるだけにとどまらず、
石を投げ、牛車を襲い、
薙刀で斬り殺さんとする輩まで、
巷に現れたのだ。

不退の決意を胸に聖人は、
嵐の中を、敢然と突き進まれた。

仏教を大別すると、
聖道仏教と浄土仏教になる。

聖道仏教とは、

「煩悩をおさえ、
 さえぎり、断て」

という教え。

欲、怒り、ウラミ・ネタミなどの
煩悩によって、
我々は罪を造るからである。

肉食は殺生罪であり、
妻帯も女犯になる。

聖道仏教が幅をきかせていた
八百年前、僧侶は
肉食妻帯しないのが当然、
とされていた。

僧兵や大衆から、
破戒僧とか堕落坊主などと
罵倒されたのは、
当時の「常識」に聖人が、
決然と反旗を翻されたからだ。

では危険を冒してまで、
なぜ、「常識」を否定し、
肉食妻帯を断行されたのだろうか。

恋愛感情のためだけに
結婚された、と考えるのは、
あまりに浅薄と言わねばならない。

師・法然上人の勧めに従われ、
親鸞聖人がご結婚されたのは、
三十一歳の御時だった。
相手は、関白九条兼実公の娘、玉日姫。

その年からさかのぼること三年、
京にいた慈鎮和尚を訪ね、
比叡山へ帰られる途中の聖人に、
赤山明神の石碑の前で、
声を掛けてくる女性があった。

フッと現れ、聖人に、胸の内を伝えた。

「私には、深い悩みがございます。
 どうか、山にお連れください。
 この悩みを、何とか
 しとうございます」

女人禁制の比叡山には入れない、
と聖人が断られると、今度は、

「涅槃経の中には、
 『山川草木 悉有仏性』
 と、説かれていると
 聞いております。
 すべての者に仏性が有ると、
 お釈迦様は仰有っているでは
 ありませんか。
 それなのに、
 このお山の仏教は、
 なぜ女を差別するのでしょうか」 

と、尋ねてきた。

 答えに窮される聖人に、

「どうか、いつの日か
 すべての人の救われる、
 真実の仏教を明らかに
 してくださいませ」 

と言い残し、玉手箱を渡して、
女性は、風のように姿を
消した。 

質問の鋭さとともに、
美しい姿は、聖人の心に
強く焼き付いた。
この女性が、玉日姫であった。

京の街で辻説法中の聖人が、
牛車に乗った玉日姫と
目が合った時には、

「ああ、あの方に会いたい。
 ぜひ会って、弥陀の本願を
 伝えねばならぬ」 

と仰有っている。 

わき立つ非難に屈せず、
肉食妻帯を断行なされた聖人は、
その理由を語られた。

「よいか、玉日。
 今こそ、そなたに言っておこう。
 僧侶も、在家の人も、
 男も、女も、ありのままで、
 等しく救いたまうのが
 阿弥陀如来の本願。
 その真実の仏法を、
 今こそ明らかにせねばならぬのだ」 

真実の仏法、すなわち、
阿弥陀如来の本願を
明らかにせんがための、
決死の行動だったのである。






人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人の女犯の夢告)

2011年07月24日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人の女犯の夢告)

親鸞聖人にとって
忘れることのできない
第3の夢は、
大乗院の夢告の直後
さしせまる後生の一大事に
苦悩せられた聖人は、
比叡山を下りて
京都のド真ん中の
六角堂に100日おこもりに
なられたことがある。

六角堂は聖徳太子の
建立なされたものだが、
その本尊の救世観音に
我が身の救われる道があるかと、
必死に尋ねられた時のこと。

その95日目の夜明けに
救世観音が顔かたちをととのえ、
立派な僧の姿を現わして、
まっ白な御袈裟を着て、
広く大きな白蓮華の花の上に
しっかりと座って、
親鸞聖人に次のように
告げられたと、
聖人自ら記されている。

「行者がこれまでの因縁によって
 たとい女犯があっても
 私(観音)が玉女の身となって、
 肉体の交わりを受けよう。
 一生の間、よく荘厳して
 その死に際して引き導いて
 極楽に生じさせよう」
 救世菩薩は、この文をとなえて言うには、
  「この文は私の誓願である、
  一切の人々に説き聞かせなさい」
 と告げられた。
 この知らせによって
 数千万の人々にこれを聞かせた、
 と思われたところで
 夢がさめ終わった」

この夢告の偈文は
『御伝鈔』上巻第3段にも
のせられているし、
親鸞聖人より5年も早く死んだ
高弟の真仏が書写した文書にも
あるので、親鸞聖人の真作と
して今日疑う人はない。

行者とは、真実の救いを求め
仏道修行していられた
聖人を指していわれている。

それまでの仏教には、
僧侶は一切女性に
近づいてはならないという、
厳しい戒律があった。

しかし、色と欲から生まれた人間が、
色と欲から離れ切れない
絶対矛盾に突き当たって、
悶え苦しんでいられた
親鸞聖人に対して、

「もしあなたが女性の肉体と
 交わりを結ぶ時は、
 私(観音)が玉女という
 女となってあげましょう」

と告げられたのは、
ありのままの人間として、
男女が結婚して
人生を荘厳できる
阿弥陀如来の絶対の救済の
あることを、救世観音は
夢によって教導なされた
ものだろう。しかも、

「この文は私の誓願である」

と断言しているのは、
この阿弥陀如来の
絶対の救済のあることを
教えることこそが、
諸仏菩薩の出世の本懐で
あることを告白なされた
ものである。

「一切の人々に
 説き聞かせなさい」

と言ったのは、

「この阿弥陀如来の救いを
 一切の人々に説き
 聞かせることこそ、
 あなたの唯一無二の
 聖使命である」

と救世観音は親鸞聖人に
さとされたものだろう。

「この菩薩の教えによって
 数千万の人々に、
 これを聞かせた」

とあるのは聖人の
開顕なされた真実の正法によって、
どれだけの大衆が
人間あるがままの姿で、
絶対の救いにあって
いったであろうことを思えば、
深くうなずかずにはおれない。

世にこれを、

「女犯の夢告」 とか、
「救世観音の夢告」

といわれている。



人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人の大乗院の夢告)

2011年07月23日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人の大乗院の夢告)

磯長の夢告より9年たった
正治2年12月上旬、
28歳になられた親鸞聖人は
目前に迫る一大事の後生に
懊悩なされて、
比叡山の南、無動寺の中にある
大乗院にこもり切られるように
なった。

そして参籠の満願にあたる
12月30日の四更(午前2時)

如意輪観音が現れて
親鸞聖人は再び夢告に
あずかったことを記されている。

「正治二年(28歳)十二月上旬、
 叡南無動寺の大乗院に閉籠して、
 密行を修せらる。
 (中略)
 別行は三七日にて結願也。
 其前夜、四更に及ころおい、
 室内に異光みち、
 如意輪観自在の像影現し、
  善哉善哉汝願将満足 
  善哉善哉我願亦満足
 と和訓に唱て、
 忽然として隠れたまう。
 是由縁によりてこそ、
 明る歳六角精舎へ
 百日の懇念を尽されける」
  (親鸞聖人正統伝)  

「善いかな、善いかな、
 汝が願、まさに満足せんとす。
 善いかな、善いかな、
 我が願、満足す」

「お前の後生の一大事、
 解決できる日は近いぞ。
 絶望せずに求め抜け、
 私の任務も終わろうとしている」

というもので、これを

「大乗院の夢告」

といわれている。

明けて29歳になられる
親鸞聖人にとっては、
比叡山時代の終わりに近い
このときは、まさに
阿弥陀仏の絶対の救いは
眼前に近づいていたのである。

この阿弥陀仏の
絶対無二の救いに
あわせることが、
一切の諸仏、菩薩の
唯一の任務であるから、
如意輪観音もその使命を
果たせる喜びを
夢告したものと思われる。

親鸞聖人28歳の時、
大乗院の如意輪観音の夢告により、

「解決の日は近いぞ」

と教えられた。

しかし、どうすれば
後生に明かりがつくのか、
まったく見当もつかない。

それどころか、真剣に
修行に励めば励むほど、
絶対に助からない
我が身の姿が知らされ、
次のように告白されている。

「定水を凝すと雖も
 識浪頻に動き、
 心月を観ずと雖も
 妄雲猶覆う、
 而るに一息追がざれば
 千載に長く往く」
  (歎徳文)
 
大乗院から見る琵琶湖は美しい。
うっそうとした樹木の間から、
鏡のように澄み切った
水面を眺められ、聖人は、

「ああ、あの湖水のように、
 私の心は、なぜ静まらないのか。
 静めようとすればするほど、
 散り乱れる。
 どうして、あの月のように、
 さとりの月が拝めないのか。
 次々と、煩悩の群雲で、
 さとりの月を隠してしまう。
 このままでは地獄だ。
 この一大事、どうしたら
 解決ができるのか」

と、吸う息吐く息に、
永遠の苦患に沈む自己を
知らされて、
居ても立ってもおれぬ不安に襲われる。

こんな一大事を持ちながら、
どうして無駄な時を流せよう。
はやく俗念を投げ捨てて、
この大事を解決せねば。
一刻の猶予も、聖人にはなかった。

明けて、聖徳太子から

「あと十年の命」

と予告された最後の年、
二十九歳を迎えられた親鸞聖人は、

「天台宗法華経の教えでは救われない」

と絶望され、ついに、
下山を決意された。

九歳で出家されてより、
二十年目のことである。


人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人の磯長の夢告)

2011年07月22日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人の磯長の夢告)

「昔から聖人に夢なし」

といわるが、親鸞聖人は
最も多く夢をみられた
お方のようだ。

それは二十年間も
比叡山に籠って、
勉学修行をせられたので
生理的にも睡眠不足で
夢をみられたとも
考えられるが、
聖人の不眠不休の求道に、
み仏も感動し
夢中にまで教導なされた霊夢
としか思えないものばかりだ。

建久2年9月12日、
親鸞聖人19歳の時のこと。

求道に行き詰まられた聖人は、
かねて崇敬なされていた
聖徳太子の御廟へ参籠されて、
生死一大事の救われる道を
尋ねられた。

この時は13日より15日までの
3日間おこもりなされた。
その間の模様を聖人自ら
次のように書き残しておられる。

親鸞聖人正統伝]
「十九歳九月十二日、
 河州石川郡東条磯長聖徳太子の
 御廟へ参詣ましまし、
 十三日より十五日まで三日御参籠なり。
 第二の夜夢想を蒙りたまう。
 十五日正午に件の記を書さる。
 其記文曰、爰少仏子範宴、
 入胎五松の夢を思い、
 常に垂迹の利生を仰ぐ、
 今幸に御廟窟に詣でて、
 三日参籠懇念失巳矣、
 第二夜四更、夢の如く幻の如く、
 聖徳太子廟内より自ら石戸を発いて、
 光明赫然而窟中を照らし、
 別に三満月在して
 金赤の相を現し告勅して言く
  我三尊化塵沙界 日域大乗相応地
  諦聴諦聴我教令 汝命根応十余歳
  命終速入清浄土 善信善信真菩薩
 于時、建久二年辛亥暮秋中旬第五日、
 午時初刻、記前夜告令畢、仏子範宴
 此告命を得たまえども、

夢に如意輪観音があらわれて、
五葉の松を母に授けて
私の出生を予告したという、
かつて母から聞かされていた話を
私は思い出し、
観音の垂迹である聖徳太子の
お導きによって、
この魂の解決を求めて
太子ゆかりの
磯長の御廟へ参詣した。

3日間、一心不乱に
生死出離の道を祈り念じて、
ついに失神してしまった。

その第2夜の四更(午前2時)ごろ、
夢のように幻のように
自ら石の戸を開いて
聖徳太子が現れ、
廟窟の中は、あかあかと
光明に輝いて驚いた。

その時、親鸞聖人に
告げられた太子のお言葉を、
次のように記されている。

「我が三尊は塵沙界を化す
 日域は大乗相応の地なり
 諦らかに聴け諦らかに聴け  
 我が教令を
 汝が命根は、まさに十余歳なるべし
 命終わりて速やかに
 清浄土に入らん
 善く信ぜよ、善く信ぜよ
 真の菩薩を。
 時に、建久2年9月15日、
 午時初刻、前の夜の告令を
 記し終わった。
 仏弟子 範宴」

範宴とは若き日の親鸞聖人のこと。

この時、親鸞聖人に
告げられた太子のお言葉の意味は、

「わが弥陀と観音、勢至の三尊は、
 このチリのような悪世を
 救わんと全力を尽くしていられる。
 日本国は真実の仏法の栄えるに
 ふさわしい土地である。
 よくきけ、よくきけ、
 耳をすまして私の教えを。
 お前の命は、
 あと10年余りしかないだろう。
 その命が終わる時、
 お前は速やかに浄らかなところへ
 入ってゆくであろう。
 だからお前は、今こそ
 本当の菩薩を深く信じなさい。
 心から信じなさい」

ということであった。

聖徳太子の御廟は、
磯長(現・大阪府南河内郡太子町)に
あるので、これを

「磯長の夢告」

といわれている。

親鸞聖人が19歳の御時、
みられた磯長の夢告は
何を予告し、どんなことを
物語っているのだろう。

19歳の親鸞聖人が、
磯長の夢告で最も深刻に
受けとめられたところは、
何といっても

「お前の命は、
 あと10年余りしか
 ないだろう」

という予告であったことは、
想像にかたくない。

「その命が終わる時、
 お前は速やかに
 浄らかなところへ
 入ってゆくであろう」

の夢告の意味も、
時の聖人にとっては、
不可解な予告であったに
違いない。

「だからお前は、
 今こそ本当の菩薩を
 心から信じなさい。
 深く信じなさい」

と言われても、
本当の菩薩とは誰なのか、
どこにましますのか、
聖人の謎は深まる一方だったと
思われる。

しかし、これらの夢告の謎が
一度に解ける時がやってきた。

親鸞聖人は、

「阿弥陀仏に救われた時に
 一度死んだ」、

と仰言っている。

同時に

「無碍の光明界に
 とび出させて頂いた」

とも仰言っている。

「本願を信受するは前念命終なり、
 即得往生は後念即生なり」
  (愚禿鈔)

とは、この体験を
述べられたものである。

それが聖人29歳の体験だから、
まさに磯長の夢告から
10年あまりのできごとであった。

「10年余りで死ぬ」

といわれたのは、
迷いの心のことであった。

そして、

「速やかに浄らかなところへ
 入ってゆく」

といわれたのは、
一念で絶対の幸福に
救いとられるであろうことを、
予告なされたものであった。

しかも、その弥陀の救いを
親鸞聖人に説き切って
くだされた本当の菩薩は、
法然上人であったことも
同時に明らかに
知らされた。





人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人の母君吉光御前の夢)

2011年07月21日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(親鸞聖人の母君吉光御前の夢)

昔から聖人に夢なしといわれるが、
親鸞聖人は最も多く夢を
みられたお方のようだ。

その波乱万丈にみちた
ご一生もお母様吉光御前の
見られた夢から始まる。

京都市伏見区にある、
日野誕生院は、
親鸞聖人生誕の地、
として有名である。

誕生の日は承安3年(1173年)
5月21日(新暦)。

父君は藤原氏の一族、日野有範。
母の名は吉光御前といわれた。

聖人を身籠られた際、
母君吉光御前が不思議な夢を
見られたと「親鸞聖人正統伝」
に書かれてある。

「御母吉光女、
 つねに菩提心ふかし。
 或夜、しきりに浮世の無常を観じ、
 西首して臥たまう。
 其夜の夢に西方より
 金色の光明かがやき来り、
 身を遶ること三匝にして、
 口中に入こと箭の如し。
 夢中に驚て西方に向たまへば、
 一の菩薩ましまし、
 長一尺許の五葉の松一本を持、
 これを授て言わく、
 吾は如意輪也。
 汝奇異の児を生ぜん。
 必ず是を以て名とすべしと云云。
 夢さめて、不思議の思をなし、
 明旦有範卿、禁裏より退出を待て
 此事を語たまう。
 有範卿、しばらく案じて曰く、
 昔し菅丞相は身上に松生と夢みて、
 横難に逢たまえり、
 然ども、君が夢は必ず祥瑞ならん。
 但し恨らくは奇子を生ずとも
 僧徒となりて、
 我家は継べからずと。
 是より始て、吉光女有身したまう。
  (親鸞聖人正統伝)

夢に如意輪観音があらわれて、
五葉の松を母に授けて
親鸞聖人の出生を予告した
というのである。

この夢から幼少の名を
松若丸と呼ばれるようになった。

親鸞聖人はこの後、
多くの夢をご覧になられるが、
夢の中に観音菩薩が現れている。

親鸞聖人が

「大慈救世聖徳皇 
 父ノゴトクニオハシマス 
 大悲救世観世音 
 母ノゴトクニオハシマス」

と讃え、
観音の垂迹である聖徳太子を
深く尊敬してゆかれるのである。






人間の実相を語る歴史人(法然上人 宇都宮頼綱の夢)

2011年07月21日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(法然上人 宇都宮頼綱の夢)

法然上人のお弟子となった
宇都宮頼綱は、実信房蓮生と
いう法名を頂き、
京都西山に庵を結んでいた。

星が天に満ち、
微風に花の香が
豊かなある夜、
実信房蓮生は奇妙な
夢を見た。

実信房は深山幽谷を
さまよっていた。

疲れてふと、
廃空を見上げると、
高さ一メートルばかりの
立像が見えるではないか。

不思議に思った実信房

「一体どこから
 おいでになられた」

と尋ねた。

「善光寺なり」

立像は世にも妙な声で答えた。
さらに実信房が近くに寄ると、
白玉に飾られ、
光り輝く見事な阿弥陀様だ。

この時、実信房蓮生はっと
夢から覚め、
床をけって廃空を見上げた。

なるほど、そこには
阿弥陀様がおられる。
実信房蓮生は念仏を称え、
右手を仏にさしのべ、
御手をとり、
自分の袈裟をかけて、
庵の奥深く安置したという。

法然上人に帰依した後も
和歌を藤原定家に学び、
娘を定家の息子為家に
嫁がせるなど、
京都歌壇とのつながりを強めた。

彼は定家に乞うて
小倉山荘の障子に
天智天皇より家隆・雅経に
及ぶ古来の歌人の歌
各1首を選定し
古今百人の名歌を
書いて貰った。

これが『小倉百人一首』の
起こりとなっている。


人間の実相を語る歴史人(法然上人 蓮生房 戦友との再会)

2011年07月19日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(法然上人 蓮生房 戦友との再会)

病の母を見舞うため、
法然上人のお許しを得、
久しぶりに故郷の
関東へ向かう蓮生房は、
阿弥陀仏のまします
西方に背を向けぬ、
逆馬道中を続けている。

馬上で西に向かって合掌し、
念仏称えながらの旅は、
どこへ行っても注目の的であった。

ある宿場でのこと。
その日も声高らかに念仏しながら、
馬の背に揺られていると、
ふと馬子の足が止まる。
何事かと振り向いた
蓮生に彼は言った。

「蓮生房さま、向こうから
 お侍が来られますだ」
 
目を凝らせば、
いかめしい武士の行列が見える。
かつての、おごり高ぶっていた
自身を思い出しつつ、
下馬した蓮生房は、
地面に頭をすりつけた。

ところが何事もなく行き過ぎるかに
見えた行列の主が、
蓮生の前で歩みを止め、
馬上からじっと彼を
見下ろしている。

気配を感じ、
恐る恐る面を上げて驚いた。
かっての戦友
宇都宮頼綱ではないか。
ともに源氏に仕え、
武勇を競った仲だった。

頼綱は再会を懐かしむ風情もなく、
怒気を含んでこう言い放った。

「久しぶりだな、熊谷。
 うわさは聞いておるぞ。
 子供一人殺したぐらいで出家とは、
 日本一の勇者が聞いてあきれる。
 この腰抜けめがっ」
 
言い終わるや、蓮生房めがけ、
ペッと痰ツバを吐きかけた。

"何をする!無礼なっ"。

いかに信仰徹底しても煩悩具足の身。
欲、怒り、愚痴の三毒は、
減りもしなければ、なくなりもしない。
辱めに腹立てる本性は微塵も変わらない。
こぶしを震わせ立ち上がり、
つかみかからんばかりに
頼綱を睨めつけた。

「ほう、まだそんな元気があったのか。
 ならば来い!勝負してやる」
 
言うが早いか頼綱は、
刀の一本を地に投げ馬を下り、
素早く自らの刀を抜いた。
視線をそらさず蓮生も、
拾った刀身を露わにした。

寸分すきもなく身構え、
遠い間合いで二人は対峙する。
息詰まる緊張感が周囲を覆う。
互いの動きにのみ集中し、
外界の一切を遮断した。

蓮生房の心は、
かつての猛将・熊谷に戻っていた。
腹底からの怒りに身を任せ、
いざ斬り込まんと太刀を上段に移し、
声ならぬ声を発したその刹那である。
雷に打たれたように硬直し、
振り上げた手から刀が滑り落ちた。

「ああ……」

全身くずおれ、あふれる涙と
ともに合掌、懺悔した。

「尊いことよ、有り難いことか……。
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

「ど、どういうことだ熊谷」

理解不能な蓮生房に、
戦意も失せた頼綱は呆然と
立ち尽くし、尋ねた。

「戦の友からさえ軽蔑される、
 この蓮生房。本師本仏の
 阿弥陀仏なればこそ、
 こんな極悪人を救いたもうたのだ。
 もったいなや、かたじけなや。
 宇都宮よ、今のオレは、
 もう以前の熊谷ではないのだ。
 南無阿弥陀仏の縄に縛られて、
 思うままにならぬ幸せ者じゃ。
 許してくれい」
 
同じ人かと見まがうほど
穏やかで晴れやかな表情に、

"鬼の熊谷が、なぜにこれほど
 変わったものか"。

ただただ驚き頼綱は、
前非をわびて訳を請う。

「宇都宮よ。戦場では恐れを知らず、
 どんな敵にも挑んできたオレが、
 どうしても勝てぬ敵に出会ったのだ」

「勝てぬ敵?そんなものは、
 オレの軍勢で蹴散らしてくれる」

「いや、たとえ何十万の荒武者たちが
 立ち向かおうと、防ぎ切れぬ強敵じゃ。
 目にも見えず、一人一人の背後に
 迫っておるのじゃから」

「一人一人の背後に、だと?」

「そうじゃ。それは無常の殺鬼、
 己の死じゃ。
 いかなる猛者も絶対に勝てぬ。
 その大敵を知った時、
 『多くの人をあやめてきたオレは
  死ねばどうなるか。
  魂の行く先は真っ暗闇ではないか』
 と居ても立ってもおれなくなった。
 そんな時、お師匠さま、
 法然上人にお会いし、
 不思議な弥陀の本願を聞かせて
 いただくことができたのだ」
 
すべての人々の後生に一大事がある。
その一大事は、本師本仏の阿弥陀仏の
本願によらねば絶対に救われないことを、
懇ろに語りかける蓮生の言葉に、
宇都宮は、身じろぎ一つせず聴き入った。

「このオレには墨染めの衣一枚しかない。
 しかし生きている今、
 弥陀の大悲に救い摂られ、
 いつ死んでも浄土往生間違いない身と
 なった幸せ者じゃ。
 後生の不安は微塵もない。
 宇都宮よ、そなたも仏法を求めたまえ」

逆縁むなしからず。
下野の国(栃木県)の領主であった
宇都宮頼綱は、間もなく
法然上人のみ元を訪ね、
お弟子の一人となっている。




人間の実相を語る歴史人(法然上人 蓮生房の逆馬)

2011年07月18日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(法然上人 蓮生房の逆馬)

熊谷次郎直実が、
吉水の法然上人のお弟子となり、
阿弥陀仏の本願に救い摂られて、
数年後のこと。
一通の書状が届いた。

「蓮生房殿、お手紙です」

「さて、だれからじゃろうおお!
 息子の小次郎からではないか」
 
元は源氏の侍大将であった直実が、
戦列を離れてから、
熊谷家では小次郎直家が
跡を継いでいた。

もとより、子煩悩な父であった。
蓮生の胸に、にわかに
恩愛の心が起こった。

いとしい思いを抑えながら
書状に目をやると、
そこには、病の床に伏す
母親の窮状がつづられている。

「何ということか。母上が……病」

直実は直ちに、
師の法然上人に申し上げた。

「そうか、母君が……。分かった、
 すぐに関東に戻ってさしあげなさい」

「ありがとうございます、上人さま」

師の許しを頂いた蓮生は、
早速馬子を雇い、馬上の人となる。

「関東に帰るのも
 何年ぶりじゃろうか。
 懐かしいことじゃ。
 皆、どうしておるかのう」
 
母の病の心配と、
わが子に会える喜びが相交わって、
蓮生の胸中は複雑である。

はやる気持ちを抑えながら、
何里か進んだころだった。
何を思ったのか直実は、
馬上、クルリと背を向けた。
手綱が持てないから、
馬の尾を握るしかない。

しばらくして、
馬の様子がおかしいことに
気づいた馬子が、ふと振り返ると、
蓮生房が後ろを
向いているので仰天した。

「あれまあ、坊様、なんちゅう、
 あぶねえ乗り方するだ。
 前向いてくんろ」
 
慌てて蓮生房の袖を引く。
拍子に馬上から滑り落ちた。

元は、その名とどろく、
坂東の荒武者である。
思わず、かっとなった。

「何をするか」

馬子の胸座をつかみ、放り投げた。
わきの茂みに放り込まれた馬子がもがく。
蓮生房は、はっと我に返り、

「あ、こりゃ、すまん。
 許してくれ、痛かったろう」

駆け寄って、馬子を茂みから
引きずり出した。

「いやーオラこそ、
 突然引っ張ってすまなかっただ。
 しかし、それにしてもおまえさん、
 その怪力、ただの坊様じゃねえな。
 元は名のあるお武家さまにちげえねえ!
 そうだべっ、なっ?」

「言っても詮ないことだが、
 昔は、熊谷直実と名乗っておった。
 しかし、今は法然上人の
 お弟子、蓮生房じゃ」

「ひゃー、あの"日本一の剛の者"と
 いわれた熊谷さまで!
 お見それしましただ。
 でも、どうして逆さまに
 馬に乗るだね?」

「それはのう、西方浄土にまします
 阿弥陀仏に背を向けていることに
 気づいたからじゃ。
 ワシは己の功名心のために、
 戦場でたくさんの人を
 殺してきた極悪人。
 後生は間違いなく地獄行きじゃ。
 しかし、阿弥陀仏は、
 三千世界一のこの悪人を、
 "だれよりもかわいい"と、
 極楽参り間違いない身に
 救うてくだされたのじゃ。
 そのご恩を思えば、どうして、
 阿弥陀仏に背を向けられようか」

「へえ、阿弥陀仏とは、
 そんな尊い仏さまですか」

蓮生房はにっこりほほえむ。

「極楽に 剛の者とや 沙汰すらん
 西に向かいて 後ろ見せねば」

"馬に乗ってまで阿弥陀仏に
 背を向けないとは、
 何という豪傑が娑婆にいるのかと、
 今ごろ極楽ではオレのことを
 うわさしているだろう"
 
蓮生房が詠んだ歌である。

「行住坐臥 不背西方」

が彼の座右の銘であった。

阿弥陀仏の広大なご恩に感泣し、
報恩に燃える蓮生房は、
かくて、坂東に着くまで、
逆馬を続け、決して西方に背を
向けることはなかった。



人間の実相を語る歴史人(法然上人 明遍の見た夢)

2011年07月17日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(法然上人 明遍の見た夢)

昔、明遍という真言宗の僧がいた。

法然上人の『選択本願念仏集』を読み、
成程、法然の言うことも尊い所があるが、
一切の聖道仏教を捨てゝ、
阿弥陀仏の本願に帰せよとは何事か。
聖道仏教だって、
釈尊の説かれた法ではないか。
それを、

「聖道仏教では、千人のうち
 一人も助からない。
 阿弥陀仏の本願のみが、
 われらの助かる道なのだ」

とは、余りにも偏執であり、
排他的ではないか。

法然は排他的で、喧嘩腰で、頑固で、
量見のせまい坊主だ、

とののしっていた。

ところが、ある晩、
明遍は夢をみた。

天王寺の西大門に
憐れな病人が
沢山集まっていた。

その中に実に懐かしい面ざしをした
墨染の衣と袈裟をつけた
一人の聖者が、鉄鉢の中に重湯を入れて、
小さな貝でそれをすくいながら、
病人の口に一人づつ入れてやっている。

親にも兄弟にも妻子にも、
見捨てられた憐れな癩病患者を、
たった一人の僧が看護しながら、
静かに病人を拝んでいる。

そしてその看護のしぶりが、
実に親切であり懇切である。

夢中で明遍は

「何という貴い人だろう。
 末法にも、こうした人が
 あったのか」

と傍の人に尋ねた。

「あの方こそ、吉水の法然上人である」

という声を聞いて、
びっくりした時に夢さめたという。

法然上人は高慢で、
排他的だと思っていたのは、
大変間違いであった。

あんな病人に御飯を喰べよと
言ったって無理なのだ。

あの病状では、
どんな滋養になるものが、
どんなに沢山あっても
何にもならない、
喰べられるものは一つもない。

彼らの糧は重湯より外にないのだ。
重湯こそ、あの病人が生命をつなぐ
唯一の糧であることが判った。

一如法界を開けば、
八万の法蔵はあれども、
我ら凡夫には無きに等しい
高嶺の花でしかない。

末法の我々の救われる道は、
弥陀の本願以外にはないことを
知らされ、
深く懺悔して
法然上人の弟子になっている。