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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(蓮如上人 唯蓮坊の見た夢)

2011年08月19日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(蓮如上人 唯蓮坊の見た夢)

徳大寺の唯蓮坊が、
「摂取不捨」とは
どういうことなのか
知りたいと思って、
雲居寺の阿弥陀仏に
祈願した。

すると、夢の中に
阿弥陀仏が現れて、
唯蓮坊の衣の袖を
しっかりととらえ、
逃げようとしても決して
お放しにならなかった。

この夢によって、
摂取というのは、
逃げるものを
とらえて放さないような
ことであると気づいたという。

蓮如上人はこのことを
よく例に引いて
お話しになられた。

「弥陀の誓願不思議に、
 たすけられ参らせて、
 往生をば遂ぐるなり」と信じて、
 「念仏申さん」と
 思いたつ心の発るとき、
 すなわち、摂取不捨の利益に
 あずけしめ給うなり。
 弥陀の本願には、
 老少・善悪の人をえらばず、
 ただ、信心を要とすと知るべし」
  (歎異鈔一章)

弥陀の誓願は、

“すべての者を、
摂取不捨の利益(絶対の幸福)に
せずにはおかぬ”

という誓いである。

その弥陀の誓願まことだったと知らされ、
念仏申さんと思いたつ心のおきたとき、
摂取不捨の利益にあずかり
“絶対の幸福”になれる。

善人悪人などの分け隔ては、
まったくない。

『歎異鈔』を読む動機は
いろいろだろう。
名文だから、有名だから、
親鸞聖人に関心があるから、
などなどあろうが、
やはり、ここに説かれる
「摂取不捨の利益」に
生きたいから、と思いたい。

「摂取不捨の利益」とは、
「凄い弥陀の救い」のことだが、
「凄い救い」とはいかなるものか。

「摂取不捨」とは文字通り 

“摂め取って捨てぬ”

ことであり、
「利益」は“幸福”をいう。

“ガチッと摂め取られて、
 捨てられない幸福”

を摂取不捨の利益と言われる。

「救われる」前と後とは、
どこが、どう変わるのか。

その違いが鮮明にならねば、
依然として『歎異抄』は
深い霧に包まれてしまうだろう。

〝ガチッと一念で摂め取って
 永遠に捨てぬ不変の幸福〟を、

「摂取不捨の利益」といわれる。

「絶対の幸福」と言ってもよかろう。




人間の実相を語る歴史人(堅田の法住)

2011年08月17日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(堅田の法住)

近江堅田・本福寺三代目の住職・法住と
いえば金森の道西ともに
蓮如上人がまだ部屋住み時代に
仏縁を結んび、生涯を蓮如上人とともに
弥陀の本願を宣布するために
身命を注がれたお弟子である。

堅田の本福寺の初代は善道といい、
法住の祖父にあたるが
仏光寺派に帰依していた。

しかし、善道の息子、覚念は、
臨済宗大徳寺派の禅宗に走り、
妻の妙専尼から離縁された。

その本福寺三代目の住職・法住が
十七歳の頃、病気で寝ている時に、
次のような夢を見た。

薄い墨染めの衣をまとった貴い僧が二人、
法住の家に入ってこられ、

「お前は何て愚かなのか」

と言われながら羽ぼうきで
仏壇を掃除された。

すると、いろいろな虫が、
はらはらと落ちてきた。
夢の内容を語ると、母妙専尼は、

「その二人の貴い僧こそ、
 法然上人と親鸞聖人に違いない。
 もともと、祖父・善道が
 覚如上人のお弟子となり、
 浄土真宗本福寺を開いたのに、
 父の覚念が、禅宗に改宗したのを、
 両聖人さまが悲しく
 思われたのでしょう。
 病気が治ったら、必ず、
 本願寺へ参詣しなさい」

と諭した。

法住は全快後、友人を誘って、
京都の本願寺へ参詣した。
胸躍らせ、訪れたはずなのに、
法住が見た本願寺は、
あまりにも寂れていた。
その驚きを、次のように記している。

「人せきたえて、参詣の人一人も
 みえさせたまわず。さびさび」
 (本福寺由来記)

これはちょうど、
蓮如上人がお生まれになる二年前、
応永二十年(1413)のことであった。

法住が、本当の親鸞聖人の
み教えに出会ったのは、
それから30数年後の
ことであった。

蓮如上人(35歳)が、
堅田へ布教に赴かれたのである。
法住は54歳になっていた。

探し求めた真実を
知った喜びは限りなく、
すぐに上人のお弟子になっている。

堅田門徒を率いる法住は、
蓮如上人の手足として活躍し、
急速に、法輪が拡大していった。

しかし、この浄土真宗の拡大は
比叡山延暦寺山門衆徒の
嫉妬と反感を買い、
延暦寺西党の山法師が
百五十人ばかりで
京都の本願寺を襲ってきた。

表向きの理由は、
蓮如上人が門徒に
御本尊として御名号を
与えられたのを、
比叡山の山門は蓮如上人が
「無礙光宗」なる一宗を
勝手に建てたと曲解し、
攻撃したというものであった。

急の報せで琵琶湖の
堅田の法住はじめ、
近江国だけでも
二百人余りの門徒が
駆けつけたが、本願寺坊舎は
解体されてしまった。
本願寺はこの時以来十三年間、
文明11年(1479)に山科に
本願寺を建立するまで
本寺がなかったのである。

蓮如上人は摂津へ脱出、
近江に戻られても各地を
一夜二夜と転々とされた。

蓮如上人の首には懸賞金が
掛けられた。

ひとまず金森惣道場に身を
寄せられた蓮如上人であったが、
比叡山の襲撃にあい、
道場に火をかけられて、
たちまち炎上した。

そのとき燃え盛る道場から、
御本尊を背負った蓮如上人が
敵の包囲網の眼前を走り出て、
赤野井の慶乗の道場へ移したという。

幕府の奉公衆松任上野介は
この事件を目撃して感嘆、
蓮如上人に帰依したのであった。

この時、堅田の法住が単身、
比叡山に登り、
延暦寺の僧侶多数と法論し
屈服させている。

命がけで親鸞聖人のみ教えを
お伝え下される蓮如上人・

その善知識のお命を
弟子達もまた命がけで
御護りしていたのである。


人間の実相を語る歴史人(蓮如上人に、道宗あり)

2011年08月16日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(蓮如上人に、道宗あり)

阿弥陀如来に救われ、
周囲に強い影響を与えた人を
妙好人という。

このような人達は
信心の智恵に生かされた
言動をしている。

蓮如上人を無二の善知識として、
ひたすら敬慕し、
信順したお弟子があった。
後に

「蓮如上人に、道宗あり」

といわれた妙好人・赤尾の道宗である。

越中(富山県)の集落
赤尾に生まれた道宗は、
道宗は、もと平家の落人の末裔、
角渕刑部左衛門の子で、
俗称を弥七といい、
四才にして母に死別し、
十三才のとき父に別れ、
その後叔父の浄徳のもとで
養育された。

ある日小鳥が巣をつくり
雛を育てているのを見て
小鳥でさえ親鳥に
まもられているのに、
自分にはなぜ親が
いないのであろうかと悲しみ、
子ども心にも親を慕う
切ない思いに明け暮れた。

そこで叔父は大分県の
耶馬溪にある五百羅漢の話を
弥七に語った。

「五百羅漢を順々に拝んで歩いていると
 微笑んで下さる羅漢さまが
 親の顔そっくりだ」

と。彼は是非参ろうと
決心して旅立った。

越前の麻生津まで来たとき
日が暮れて、道端に腰をおろし
仮寝していた。
すると夢うつつとなく、
一人の旅の僧があらわれ、

「筑紫へ参って親の似顔の仏に
 逢うても喜びもつかのま、
 また別れの悲しみが深まるだろう。
 それより京都の蓮如上人に
 逢えば別れることのない親に
 逢えるだろう」

と告げられた。

「あなたは誰ですか」

と念の為にたづねると

「信州更科の僧、蓮如と近づきだ」

といって夢がさめた。

弥七は、筑紫参詣を変更して
京の蓮如上人を訪ねた。
三日三夜座をかえず
上人の教えを聴聞した。

その真剣な態度が上人の御目にとまり、
両親なきことを上人が聞かれて、
お傍におかれ、深く仏法に
帰依するようになったのである。





人間の実相を語る歴史人(蓮如上人 貪欲なへの御教導)

2011年08月15日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(蓮如上人 貪欲なへの御教導)

ある日、「金持ちになりたい」
という男が山科本願寺を訪れた。

山科に本願寺が
建立された頃のことである。

摂津国に、郡家の主計という
非常に貧しい男がいた。

ある時、京都東山の清水寺の
観世音堂に七日間参籠して、

「大金持ちになって、
 幸福になれるように」

と祈願した。
すると、ある夜の夢に、
観音菩薩が現れて、
こう告げたのである。

「汝、福徳をえんと思わば、
 山科に至るべし。
 彼処に尊き聖あり。
 必ず福を与うべし」
 
夢さめて、主計は大いに喜び、
直ちに山科へ向かった。地元の人に、

「この地に、尊い聖が
 おられるはずですが、
 お住まいは、どちらでしょうか」

と尋ねた。すると、人々は皆、

「それは、蓮如上人のことでしょう」

と教えてくれた。

主計は、山科本願寺へ行き、
上人の御前で、
臆面もなく申し上げた。

「私は金持ちになりたいのです。
 山科へ行けば必ず幸福になれると、
 夢のお告げがありました。
 どうか私に、大金持ちになる
 方法を教えてください」
 
蓮如上人は、
この的外れの来訪者の言葉を、
にこにこと聞いておられた。

心得違いを叱られるのではなく、
こう諭された。

「そうか、分かった。
 ならば私のもとへ五十日間参詣し、
 私が説く仏法をよく聞きなさい。
 聴聞すれば、必ずお前の願いが
 かなうだろう」

「上人のたまわく。
 われ福徳を与べし、
 我もとへ五十日参詣して、
 わがすすむる所の法を
 よく聞べしと」
  (蓮如上人縁起)

主計の喜びは大変なものだった。
翌日から、熱心に聴聞を始めたのである。

ひたすら聞法に励んでいたある日、
ご説法中に、主計が声を
あげて泣き出した。

「私は間違っていました。
 どんな大金持ちになっても、
 死んで後生へ旅立つときには、
 少しも持っていけません。
 夢か幻のような、
 この世の幸福ばかり
 追い求めていました。
 そんな我らを哀れに思し召され、
 この世も未来も、
 最高無上の幸福に救うと
 誓われた阿弥陀仏の
 ましますことを、
 まったく知りませんでした。
 なんと浅ましい自分
 だったのでしょうか」

と、涙ながらに懺悔するのであった。

蓮如上人は、

「五濁悪世の衆生の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり」
  (高僧和讃)

という親鸞聖人のご和讃を
読み上げられ、信心獲得とは、
大宇宙の大功徳のおさまっている
南無阿弥陀仏が我がものに
なったことだと、懇ろに説かれた。

億万長者などとは比較にならぬ
大安心、大満足の幸福に
救われるのである。

主計は、蓮如上人のお弟子となった。
阿弥陀仏の本願を喜び、
常に念仏の絶える間が
なかったという。

「津国郡家の主計と申す人なり。
 暇なく念仏申す間、
 ひげを剃るとき切らぬことなし、
 忘れて念仏申すなり」
  (御一代記聞書62)

何をしていても休むことなく
念仏を称えていたので、
髭を剃るとき、
誤って顔を切ってばかりいた。
髭を剃っていることも
忘れて念仏を称える幸福者に
なったのであった。

後に、摂津国郡家(大阪府高槻市郡家)に
妙円寺を開いている。





人間の実相を語る歴史人(蓮如上人 契丹人の霊夢)

2011年08月14日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(蓮如上人 契丹人の霊夢)

親鸞聖人のみ教えを、
初めて外国人に伝えられたのは、
蓮如上人ではなかろうか…。
北陸の吉崎御坊を去られた蓮如上人は、
六十一歳の御年、大阪に、
新たな布教基地・出口御坊
を建立された。

まもなく、中世の商業と
貿易の中心地・堺へも進出され、
畿内一円の教化に努められた。
参詣者の中には、中国大陸から
仏法を求めて海を渡って来た
大男があったという。

文明九年、九月下旬のことである。
堺に異国船が入港した。
その中に身長二メートルも
ある大男がいた。
彼は上陸するや、
周囲の人々に、こう尋ねた。

「私は、契丹という国の者です。
 初めて日本に来ました。
 この国に、蓮如上人といわれる
 善知識がおられるはずです。
 どこへ行けば、
 お会いできるでしょうか」
 
堺の人々は、大変驚いた。
契丹とは、中国大陸北部の国である。

「あなたは、万里を隔てた異国の人、
 しかも日本は初めてなのに、
 なぜ、蓮如上人のお名前を
 知っているのですか」
 
契丹人は答える。

「霊夢によって、
 今、善知識が日本に
 ましますことを知りました。
 万里の遠路も苦しいとは思いません。
 真実の仏法を聞かせて
 いただきたい一心で、
 ここへ来たのです。
 どうか、蓮如上人のご住所を
 教えてください」

「幸いにも、蓮如上人は今、
 堺にご滞在中です。
 私たちがご案内しましょう」
 
人々は、契丹人をともなって、
上人のもとへ急いだ。

蓮如上人にご面会した契丹人は、
通訳を通して聞法の動機を、
次のように申し上げている。

「私は、先頃、十七歳になる娘を
 亡くしました。
 あの子は、死んで、
 どこへ行ったのか。
 我が子の後生を案ずると、
 断腸の思いにかられます。
 また、人間、一息切れた後生は、
 どうなるのかと考えると、
 我が身の後生が不安でなりません。
 悩み苦しんでいたある日、
 夢の中に観音菩薩が現れて、
 こう告げられたのです。
 「汝、日本国の蓮如上人の
 もとへ行きて、ご教化を受けよ。
 然らば、汝も悟り、
 娘も救われるであろう。
 無上甚深の妙法を授け給うべし」
 と。
 私は、すぐに船に乗りました。
 仏祖のご加護でしょうか、
 順風に帆をあげて、
 速やかに堺に入港することが
 できました。
 どうか、真実の仏法を
 お聞かせください」

蓮如上人は、阿弥陀仏の本願を
懇ろに説かれた。

「釈尊が、この世に
 おでましになったのは、
 阿弥陀仏の本願一つを、
 説かれるためでした。
 本願とは誓願ともいい、
 約束ということです。
 あらゆる人々は不幸で
 苦しみ悩み続けています。
 有れば有るで苦しみ、
 無ければ無いで苦しむ。
 所詮、苦より離れ切れない、
 あわれな存在である私たちを、
 何とか助けてやりたい、
 という大慈悲心を
 おこされたのです。
 そして、阿弥陀仏は
 『われを信じよ。
  どんな苦悩をもつ者でも、
  この世も未来も最高無上の
  幸福にしてみせる。
  若し、絶対の幸福に
  できなかったら、
  仏の命を捨てよう』
 と約束なさったのです。
 この世も未来も、
 どんな苦悩を持つ者にも
 平等に絶対の幸福を与えようという、
 とてつもない本願ですから、
 親鸞聖人は『正信偈』に
 『無上殊勝の願を建立なされた』
 と仰有っておられます。
 この大誓願を信ずる一念に、
 本願の通りに絶対の幸福に
 なることができるのです」
 
契丹からの熱烈な聞法者は、
喜びに溢れ、
「南無阿弥陀仏」のご名号を胸に、
帰国の途についたといわれている。

海外からの来訪は、
堺の人々を大きく刺激した。

「遠き契丹の人が
 万里の苦難を乗り越えて
 訪ねてくるほど、
 蓮如上人のみ教えは
 聞き難い法であったのか。
 近くに住む我々は、
 仏法を軽く、粗末に
 思ってはいなかったか。
 堺に真実の殿堂を建立し、
 真剣に聞法させていただこう」
 
門信徒の話はすぐにまとまり、
まもなく堺御坊が完成した。





人間の実相を語る歴史人(蓮如上人 空善の見た夢)

2011年08月13日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(蓮如上人 空善の見た夢)

「明応三年十一月、
 報恩講の二十四日、
 暁八時におきて
 聖人の御前参拝を申して候に、
 少し眠り候中に、
 夢とも現ともわかず
 空善おがみ申し候ようは、
 御厨子の後より、
 綿をつつみひろげたる
 ようなる内より、
 上様あらわれ御出であると
 拝み申すところに、
 御相好、開山聖人にて
 在します。
 あら不思議やと思い、
 やがて御厨子の内を
 拝み申せば、
 聖人御座なし。
 さては開山聖人、
 上様に現じましまして、
 御一流を御再興にて御座候と、
 申し出すべきと
 存ずるところに、
 慶聞房の讃嘆に
 「聖人の御流義、
  たとえば木石の縁を
  まちて火を生じ、
  瓦礫の銓をすりて
  玉を成すがごとし」
 と『御私記』の上を
 讃嘆あると覚えて、
 夢さめて候。
 さては開山聖人の御再誕と、
 それより信仰
 申すことに候いき」
 (御一代記聞書)

明応三年十一月、
報恩講期間中の二十四日の
夜明け前、午前二時ごろであった。
空善は、夜を通して
ご開山聖人の御影像の前で
お参りしていた。

ついうとうとと眠ってしまい、
夢とも現実とも
わからないうちに
次のようなことを
拝見したのだった。

親鸞聖人の御影像が
納まっているお厨子の後より、
綿を広げたように
かすみがかった中から、
蓮如上人がお出ましに
なったと思って、
目を凝らして
よくよく拝見すると、
そのお顔は蓮如上人ではなく
ご開山聖人だった。

何と不思議なことかと思って、
すぐにお厨子の中を伺うと、
聖人の御影像がないではないか。

さてはご開山聖人が
蓮如上人となって現れ、
浄土真宗をご再興なさったのである
と言おうとしたところ、
慶聞坊が、親鸞聖人のみ教えについて、

「たとえば木も石も
 擦るという縁によって
 火が出るようなものであり、
 瓦も石ころもやすりで
 磨くことによって
 美しい石となるようなものである」

という『報恩講私記』の文を引き、
説法する声が聞こえて
空善は夢から覚めた。

それからというもの空善は、

「蓮如上人はご開山聖人の
 生まれ変わりである」

と、信じるようになったのある。


人間の実相を語る歴史人(蓮如上人と空善とお初)

2011年08月12日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(蓮如上人と空善とお初)

蓮如上人にご活躍により、
弥陀の本願の真実を聞かれた
多くの人が本願寺に
鞍替えしていった。

それを妬んだ他宗の坊主、
特に比叡山延暦寺は

「蓮如上人の首を
 捕った者には
 褒美を払う」

との、おふれを出した。

それによって欲に
目が眩んだ者が
現れたのは当然であろう。

蓮如上人が福井県敦賀で
ご布教を終えられた後、
京都に帰る途中、
近江の国(滋賀県)堅田を
通っておられた時、
道に迷われてしまった。

行けども里に出るどころか、
山奥へと入っていった。
周りは家の一軒もない。
このまま野宿かと
諦めていたところ、
一軒家を見つけることができた。
それが中井長右衛門の家であった。

一晩の宿をお願いすると
主人の長右衛門は喜んで
蓮如上人を家に招き入れた。

「地獄に仏とはこのことか」

と、蓮如上人も大変喜ばれ、
もてなしを受けることに
されたのである。

そこに14歳位の娘がいた。
名をお初といった。
お初は蓮如上人のお話しを熱心に
聞き入り、阿弥陀仏の本願に
感激したのである。

蓮如上人は一人一人の
後生を念じて話される。
お初も真剣に聴聞するのであった。

話しが終わり、
蓮如上人は休まれることに。
旅の疲れと、酒の酔いが廻り、
すぐに床につかれた。

ところがお初は
両親の大変な話しを
耳にすることになる。

父「おい、金の鳥が
  舞い込んできたぞ」

母「あんた、金の鳥って何のこと」

父「俺が里におりた時、
  立て札を見たが、
  あの蓮如には賞金が
  掛っているのだ。
  殺して首を出した者には
  金1貫文。
  どんな悪いことを
  した坊主かは知らないが、
  お初も、もう嫁入りの
  準備をしてやらにゃいかん。
  嫁入り道具にも
  金がかかるからの」

母「しかし、あんた一人で
  大丈夫なの」

父「そこでだ。隣に手助けを
  してもらおうと思ってな。
  今から相談にいくから、
  蓮如を逃がさぬようにな」

父、中井長右衛門は
出かけていった。
母は蓮如上人の部屋に
鍵をかけるのであった。
  
両親が蓮如上人殺しという
大罪を犯そうとしている。
お初は居ても立っても
おれなかった。
何としてでも止めなければ。

しかし、両親に悟られないように
蓮如上人に気付いて
頂くにはどうしょう。

お初は考え、急に歌い始めた。

「ガジンとリンカジンが、
 ゴンすることをモンすれば、
 タビのソウをセッすると
 ソウコウのソウの字、
 サの字取って、
 山と山がカッチンカッチン」

奇妙な歌を幾度も
歌い続けたのである。

母はお初の歌の意味が
分らなかったが、
蓮如上人は優れた智恵で、
歌の意味がすぐに分られ、
驚かれた。

この歌には大変なことが
歌われていたのだ。

静まりかえった家に
お初の歌声に響きわたった。
蓮如上人も眠りから覚め、
不思議な歌の意味を考えられた。

「ガジンとリンカジンが、
 ゴンすることをモンすれば、
 タビのソウをセッすると
 ソウコウのソウの字、
 サの字取って、
 山と山がカッチンカッチン」

これを漢字に置き換えると

「我人と隣家人が
 言することを聞すれば
 旅の僧を殺すると
 草行の草の字、
 サの字取って
 山と山がカッチンカッチン」
となる。

意味は

「私の家のお父さんと
 隣の家の人が話しを
 しているのを聞くと
 旅の僧、蓮如上人を
 殺そうと言っていました。
 草の字からサを取れば、
 早いという字。
 山と山が重なれば、
 出るという字。
 早く、出て行ってください」

と歌っていたのだ。

蓮如上人は旅支度をして、
部屋から出ようとすると、
鍵が掛っていて
出ることができない。

「これまでか。
 私は弥陀の本願に救い摂られ、
 何時死んでよしの身に
 させて頂けたが、
 これから弥陀の本願を
 一人でも多くの人に
 お伝えすることが
 できないのが、口惜しい」

と覚悟を決められた時、
お初が鍵を外して
くれたのである。

お初「蓮如上人様、
   どうか、急いでお逃げ下さい。
   里への道をお教えします。」


上人「私を助けたとなれば、
   そなたはどんな仕打ちを
   受けるか分らんぞ。」

お初「私は娘ですので、
   大丈夫でございます」

蓮如上人が家から
出てゆかれると、
家に残ったお初は、
蓮如上人の身代わりとなって
布団に潜り込んだのであった。

蓮如上人とお初が
入れ替わったことも
知らずにやってきた
長右衛門夫婦と隣の人。

蓮如上人の寝室に忍び込み、
暗闇の中で蓮如上人の
首の辺りをナタで斬りつけた。
すると、

「ギャー」

という若い女の声。
転がったのは娘の
お初の首だった。

「お初、なぜこんなところに」

二人にはお初の心が分った。
欲に目が眩み、
尊い蓮如上人まで
手にかけてようと
していた恐ろしい心。
それをお初は身を
挺して教えてくれたのだ。

しかし、蓮如上人殺しの
大罪を犯さなかったが
代償はあまりにも大きかった。
我が子を手にかけてしまったのだ。
長右衛門夫婦は泣き崩れたのである。

二人は蓮如上人の跡を追った。
そして、一部始終を話しをし、
自分達が犯した罪の恐ろしさに
打ち震えるのであった。

夫婦の後悔を受けて、
蓮如上人は二人を諭した。

「我が子を手にかけることは
 この世のものとも思えない
 恐ろしい所業。
 しかし、阿弥陀仏の本願を
 聞信するならば
 必ず救い摂られるだろう」と。

こうして、長右衛門は
空善房として
蓮如上人の弟子と
なったのである。

お初の血に染まった衣服は
今も堅田の恵専寺(えいせんじ)に
残されている。





人間の実相を語る歴史人(蓮如上人と空善)

2011年08月10日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(蓮如上人と空善)

蓮如上人のお弟子に
空善房といわれる方がいた。

空善房は
「蓮如上人御一代記聞書」の
著者の一人であり、
精進に精進を重ねて、
蓮如上人のご臨終にまで
看病した信任厚い弟子である。

「蓮如上人御一代記聞書」は
蓮如上人の日常の
法語・座談を弟子たちが
記録したもので,
およそ400条余納められている。

これを

・「空善記」
・「昔語記」
・「実悟記」

の3部にわけ,
難解の語には簡潔的確な
説明を加えてある。

「横から見た蓮如上人」
といったような
「御文章」と並んで
貴重な書である。

「四月九日に言く、
 安心をとりてものを
 いはばよし。
 用な井事をば
 いふまじきなり。
 一心のところを
 よく人にもいへ、
 と空善に御定なり
 (御一代記聞書)

とあるように、

蓮如上人は

「自分自身が信心決定して、
 人に教え聞かしめるならば
 よろしい。
 信心・安心に関係のない
 無意味なことは
 言うべきではない、
 弥陀をたのむ一念のところを
 懇切丁寧に人に
 言い聞かせなさい」

と空善に仰せられ、
それを忠実に守って
ゆかれた方が空善だった。


「明応五年、九月二十日、
 御開山の御影様、
 空善に御免あり。
 なかなか、ありがたさ、
 もうすにかぎりなきことなり」
 (御一代記聞書)。

明応五年九月二十日、
蓮如上人は、ご開山聖人の
御影像を空善に下され、
ご安置することを
お許しになられた。
その有難さはとても言葉では
表わしきれないほどだったと
空善は記している。

蓮如上人から親鸞聖人の
御影像を頂かれるほど
ご信頼の厚かったお弟子で
あったことが伺える。

その空善がなぜ、
蓮如上人のお弟子になったのか。
悲しくも、素晴らしい話が
残されているのだ。




人間の実相を語る歴史人(蓮位房の霊夢)

2011年08月09日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(蓮位房の霊夢)

建長8年の春、
親鸞聖人は84歳のご老体で、
いささかご病気がちであった。

聖人昵懇のお弟子
蓮位房と顕智房が
ご看病申し上げることが
多かった。

そんなある日、蓮位房が尋ねた。

「顕智房殿、
 あなたはわが聖人を、
 いかなるお方と
 思っておられますか」

「私は、まさしく
 仏のご化身と
 信じております」

キッパリ、顕智房は答えたが、
どうも蓮位房は、
即座に同意しかねるようだった。

「私もある時は、
 そう感ずることも
 ありますが、
 ある時はどうだか、
 そうでもなさそうに
 思えることもあります」

正直な告白に顕智房は、
微笑しながら
確信ありげにささやいた。

「そう思われましょうが、
 そのうちにきっと、
 お分かりになりますよ」

ところが2月9日の未明、
蓮位房は明らかな夢を見た。
聖徳太子が親鸞聖人を
礼拝して、
こうおっしゃって
いるではないか。

「私は、大慈大悲の
 阿弥陀仏を敬って、
 礼拝いたします。
 あなたは、微妙の教法を、
 この五濁悪世界に弘め、
 あらゆる衆生に、
 必ず無上覚を得させるために、
 来生なされた
 尊いお方であります」

夢覚めた蓮位房は驚いた。

さては、わが聖人は
阿弥陀仏のご化身であったか、
いままで、さまで尊く
思わなかったことの
あさましさよと、感泣した。

それにしても、
顕智房は不思議な
ことを言う人よ。

この人もまた、
ただ人ではなさそうだと、
驚いて語ったと
いわれている。

これらの霊夢や、
「観音の化現」

「弥陀の化身」
の相違について、
覚如上人は次のように
おっしゃっている。

「祖師聖人あるいは
 観音の垂迹とあらわれ、
 あるいは本師弥陀の
 来現と示しましますこと
 明らかなり。
 弥陀・観音一体異名、
 ともに相違あるべからず」
 (口伝鈔13条)



人間の実相を語る歴史人(道珍の霊夢)

2011年08月08日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(道珍の霊夢)

京都本願寺近くに紫雲殿金宝寺
という小さな寺がある。
金宝寺はもと、天台宗の寺だった。

ところが、五十七代めの
住職・道珍が親鸞聖人のお弟子になり、
真宗に改宗したのである。

その経緯を、当寺の
『紫雲殿由縁起』は
次のように記している。

道珍は、高僧が来訪される
霊夢を三回も見た。

そこへ間もなく、
親鸞聖人が訪れられたのである。

紛れもなく夢でお会いした高僧なので、
道珍は大変驚き、
心から敬服した。

ご説法を聴聞して、
たちまちお弟子となったのである。

時に、聖人67歳、
道珍33歳であった。

京都に帰られた親鸞聖人は
一切経閲覧の為に
金寶寺を度々訪れて
おられたのだ。
 
道珍は、聖人のために
新しく一室を作り、
安聖閣と名づけた。

道珍がしきりに滞在を願うので、
約5年間、聖人は金宝寺に
お住まいになったという。

金宝寺には、関東の門弟が
多数来訪した記録がある。

片道一カ月以上かけて、
聞法にはせ参じる苦労は
いかばかりであったか。
後生に一大事あればこそである。

また、『紫雲殿由縁起』には、
道珍が聖人に襟巻きを
進上したところ大変喜ばれた、
と記されている。

また、寛元2(1244)年の
こととして

「十月亥子の日、
 鸞師請待申、
 師の常に好める
 一入に餅を撞、
 小豆にて調え進上申」

との記述がある。

これを縁として、
戦前までは金寶寺から
毎月小豆が進納され、
祖師前に小豆をつけたお餅が
お供えされていた。

今でも本願寺本山では
御祝奠(ごしゅくでん)といって
毎月朔日には御影堂の
祖師前に仏飯器に
小豆餡をつけた小餅を
段々に盛り上げて
お供えし、朝の勤行が
つとめらている。