人間の実相を語る歴史人(蓮如上人 唯蓮坊の見た夢)
徳大寺の唯蓮坊が、
「摂取不捨」とは
どういうことなのか
知りたいと思って、
雲居寺の阿弥陀仏に
祈願した。
すると、夢の中に
阿弥陀仏が現れて、
唯蓮坊の衣の袖を
しっかりととらえ、
逃げようとしても決して
お放しにならなかった。
この夢によって、
摂取というのは、
逃げるものを
とらえて放さないような
ことであると気づいたという。
蓮如上人はこのことを
よく例に引いて
お話しになられた。
「弥陀の誓願不思議に、
たすけられ参らせて、
往生をば遂ぐるなり」と信じて、
「念仏申さん」と
思いたつ心の発るとき、
すなわち、摂取不捨の利益に
あずけしめ給うなり。
弥陀の本願には、
老少・善悪の人をえらばず、
ただ、信心を要とすと知るべし」
(歎異鈔一章)
弥陀の誓願は、
“すべての者を、
摂取不捨の利益(絶対の幸福)に
せずにはおかぬ”
という誓いである。
その弥陀の誓願まことだったと知らされ、
念仏申さんと思いたつ心のおきたとき、
摂取不捨の利益にあずかり
“絶対の幸福”になれる。
善人悪人などの分け隔ては、
まったくない。
『歎異鈔』を読む動機は
いろいろだろう。
名文だから、有名だから、
親鸞聖人に関心があるから、
などなどあろうが、
やはり、ここに説かれる
「摂取不捨の利益」に
生きたいから、と思いたい。
「摂取不捨の利益」とは、
「凄い弥陀の救い」のことだが、
「凄い救い」とはいかなるものか。
「摂取不捨」とは文字通り
“摂め取って捨てぬ”
ことであり、
「利益」は“幸福”をいう。
“ガチッと摂め取られて、
捨てられない幸福”
を摂取不捨の利益と言われる。
「救われる」前と後とは、
どこが、どう変わるのか。
その違いが鮮明にならねば、
依然として『歎異抄』は
深い霧に包まれてしまうだろう。
〝ガチッと一念で摂め取って
永遠に捨てぬ不変の幸福〟を、
「摂取不捨の利益」といわれる。
「絶対の幸福」と言ってもよかろう。
徳大寺の唯蓮坊が、
「摂取不捨」とは
どういうことなのか
知りたいと思って、
雲居寺の阿弥陀仏に
祈願した。
すると、夢の中に
阿弥陀仏が現れて、
唯蓮坊の衣の袖を
しっかりととらえ、
逃げようとしても決して
お放しにならなかった。
この夢によって、
摂取というのは、
逃げるものを
とらえて放さないような
ことであると気づいたという。
蓮如上人はこのことを
よく例に引いて
お話しになられた。
「弥陀の誓願不思議に、
たすけられ参らせて、
往生をば遂ぐるなり」と信じて、
「念仏申さん」と
思いたつ心の発るとき、
すなわち、摂取不捨の利益に
あずけしめ給うなり。
弥陀の本願には、
老少・善悪の人をえらばず、
ただ、信心を要とすと知るべし」
(歎異鈔一章)
弥陀の誓願は、
“すべての者を、
摂取不捨の利益(絶対の幸福)に
せずにはおかぬ”
という誓いである。
その弥陀の誓願まことだったと知らされ、
念仏申さんと思いたつ心のおきたとき、
摂取不捨の利益にあずかり
“絶対の幸福”になれる。
善人悪人などの分け隔ては、
まったくない。
『歎異鈔』を読む動機は
いろいろだろう。
名文だから、有名だから、
親鸞聖人に関心があるから、
などなどあろうが、
やはり、ここに説かれる
「摂取不捨の利益」に
生きたいから、と思いたい。
「摂取不捨の利益」とは、
「凄い弥陀の救い」のことだが、
「凄い救い」とはいかなるものか。
「摂取不捨」とは文字通り
“摂め取って捨てぬ”
ことであり、
「利益」は“幸福”をいう。
“ガチッと摂め取られて、
捨てられない幸福”
を摂取不捨の利益と言われる。
「救われる」前と後とは、
どこが、どう変わるのか。
その違いが鮮明にならねば、
依然として『歎異抄』は
深い霧に包まれてしまうだろう。
〝ガチッと一念で摂め取って
永遠に捨てぬ不変の幸福〟を、
「摂取不捨の利益」といわれる。
「絶対の幸福」と言ってもよかろう。