Mooの雑記帳

日々の感想などを書いていきます。

6月25日(木) 百田の珍説・妄言

2020-06-25 21:45:45 | 沖縄

6月23日は、沖縄戦終結を記念し犠牲者を慰霊する日。75回目にあたります。

この日は、正確には牛島中将が摩文仁で自決し、組織的戦闘が終わった日であって、米軍が沖縄戦終結を宣言したのは7月2日でした。

この日、DHCテレビ「虎ノ門ニュース」では、百田尚樹、北村晴男という例のメンバーが、とんでもない歴史脇曲発言を「堂々と」やっていました。もはや妄想あるいはお花畑の世界ですが、後世のために一部を紙上再録しておきましょう。(この部分の録画はこちら

百田 すっごい重要なことです。沖縄住民9万4千人亡くなっているけれど、この9万4千人の大半が日本海軍、日本陸軍が玉砕した後なんです。(他のメンバー ふ~む、ふ~む)

つまり、よく言われる「日本軍人は沖縄県民を犠牲にした」というんですが、違うんですよ。実際に死亡者の数を見てみたら、沖縄戦が終わった後に一般住民がものすごい沢山死んでいるんです。つまり、陸軍・海軍が健在で戦っていたときは、いかに沖縄県民の命を助けるために頑張ったかということなんです。だから、アメリカ軍はすごい残虐だったんです。

北村 だから、残虐でしたねえ。戦争犯罪といえば、一般住民を虐殺するという戦闘行為が・・戦闘行為と言えないんだけれど、虐殺行為が行われたことは間違いない。

日本という国と沖縄県を分断するために、イデオロギー的な手法でもって沖縄を捨て石にしたということを強調するのは間違いだと僕も思いますね。

米軍が沖縄中部に上陸を開始したのが4月1日、日本軍司令部が南部撤退を決定したのが5月22日。その後は、軍民一体となって南部になだれ込むことになりました。

Wikiは「軍民混在により戦闘に巻き込まれながら、軍や行政の保護も受けられなくなった住民の犠牲は夥しい数に上っている。沖縄戦における住民の戦没者数は下記の通りであるが、第32軍が首里から沖縄南部に撤退した6月に集中している」と書き、那覇市のホームページでは「本土防衛、国体護持の時間稼ぎのため5月22日に南部撤退が決定される。多くの住民が避難していた所にただ戦争を続けるために軍が逃げてき、壕などを強制的に徴用したため住民は砲弾のなかに追い出される事となった」と書いています。

沖縄戦で犠牲になった民間人の数と推移は下の通り。(Wiki)
3月  3,081名
4月  19,451名
5月  24,627名
6月  46,826名
7月   5,644名
8月  4,835名

問題は死者数だけではありません。彼らは、日本軍は住民を守るために戦い、アメリカ軍が残虐非道な行為を行ったと描きたかったようですが、沖縄捨て石作戦はイデオロギーでも何でもない、当時の日本軍の方針(※)であり、日本軍将校が言い始めた言葉だったのです。長野松代大本営移設予定現場を見れば、沖縄戦の意味がわかります。

百田さん、那覇市の該当で、このテレビで話したことをもう一度やってみてください。県民がどんな反応を示すでしょうかね。

※ 1944年12月 長参謀長 「結局、我々は本土決戦のための『捨て石部隊』なのだ。尽くすべきを尽くして玉砕するしかない」
1945年1月 大本営は『帝国陸海軍作戦計画大綱』を策定した。宮崎大本営参謀本部長は、「沖縄戦闘は、本土戦備のために時間を稼ぐ持久戦である。第32軍は手持ちの戦力をもって、出血持久戦を死闘することが、皇軍の使命を全うする所以」と訓示。(https://matome.naver.jp/odai/2146759366921746301

百田が、さもデータを駆使しているとばかりに声を張り上げたところで、ウソとデマのオンパレード。だが、歴史を学ばなければ安易に信じてしまう人もいないわけではないでしょう。それが問題です。

壕から追い出されたりスパイだとして肉親を銃殺されたりした沖縄県民の中には「米軍より日本軍が怖かった」という声が多く聞かれるし、強制集団死の悲劇も日本軍なくしては起こりえなかった。

百田のようなデマを聞けば、沖縄県民は怒りに身体が震える思いでしょう。こんな連中の言説は、今に始まったことではありませんが、安倍応援団のあまりの低レベルを、私たちはもっと知るべきだし、徹底した批判の声を上げ、ネットからも駆逐すべきだと私は思いますね。

この記事についてブログを書く
« 6月17日(水) タマネギ ゴ... | トップ | 6月29日(月) タマネギ収穫... »

沖縄」カテゴリの最新記事