紫陽花記

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カウンターの中の土瓶

2019-06-28 07:22:44 | 野榛(ぬはり)エッセー集
カウンターの中の土瓶

            1996/6 ぬはり短歌会誌上掲載

『現代短歌』をパラパラ捲っていると、山崎方代の短歌が目に入った。読み進むうち、歌集『こおろぎ』の部分にある一首に思わず笑ってしまった。

 卓袱台の上の土瓶に心中をうちあけてより楽になりたり
                   山崎方代

 この短歌を読んで「土瓶」は私だなと思った。卓袱台の上の土瓶でなければ、喫茶店主は、カウンターの中の何だろう。よろず承り所のお婆よろしくなんでもかんでも聞く。聞くというよりも聞かされる。まぁ、サービスの一環との気持ちもあるが、退屈しのぎの聞き手というのかもしれない。

 客は気の向いた時にやって来て、いきなり本題に入る。こちらの精神状態などお構いなしで続ける。それが良い話なら良いのだが、大抵、怒りに繋がることが多い。

 近所との関わり方。夫への愚痴に始まりのろけまで。娘に彼氏が出来て寂しくなった父親。勤務先でのいじめ問題。妻の父親の死で、遺産相続でもめた話。

家庭内別居。娘の進学問題で夫婦間の亀裂。嫁姑の確執。子供の不登校。事業の失敗。などなど。

 他人の話は、七割がたは聞き流している。当人にしてみれば大変な事件なのだろうが、聞く私は単なる土瓶に過ぎない。どの人も話を聞いて欲しくって、大して飲みたくもないコーヒーを飲みに来る。そして先客が居ればその人の話を一緒に聞き、頃合いを見計らって、胸のつかえを一気に吐き出しにかかる。その時のエネルギーはもの凄いものだ。

 話をしに来た人は大筋では私のことを自分の味方だと思っているみたいだ。それなのに私はたしなめたり元気づけたりするが、時には本気でその人を怒ったりする時もある。そのような時は意外だという顔をする。

 商売気が強ければ、適当な相槌や意見の延べ方があるのだろうが、どうも苦手だ。自分の精神に忠実なのは不器用とも言える。そのような中でも、本当に腹が立って、神様とも言えるお客様に向かって怒ったことがある。もはや土瓶ではあらず。自分の顔がどんな顔をしていたか見たかったほど。

 その若い男性はパープルのスーツを着ていて二十三、四歳に見えた。誰もいない店内に入ると、カウンターの椅子に掛けるなり「職業安定所は何処にありますか」と聞く。ある病院の看護士をしていたそうだが、患者の家族とトラブルを起こしたと言った。上司のそのまた上司にまで報告がいってしまい、居づらくなって退職したと言う。藤沢の○○福祉学校を卒業したが、その学校への進路も突然思い立って決めたのだと言う。「今度は知的障害の施設にでも勤めたいな」と言うので訳を聞いた。「バカを相手にする方が楽だからね。身体障害者は頭がしっかりしているだけ大変だから」と言った。その時、私の商売気はどこかへ行ってしまった。我が生涯のテーマは「身障者の息子と共に生きる」なのだから、プッツンと切れてしまった。

 その後はもう正義感に燃えたお婆は、その若者に向かって怒りを言葉にしていた。
「福祉の仕事をする資格は無い。福祉学校で何を学んで来たの? どんなに職場を変えようとも、またトラブルを起こすわよ、君、よーく考えるのね」
 若者は、カウンターの中の土瓶が、蓋をパカパカ言わせて沸騰しているのに恐れをなして、小さい声で最後に言った。
「ありがとう、今まで誰も注意してくれなかった……」と。


誘発

2019-06-18 07:55:53 | 野榛(ぬはり)エッセー集
   誘発
            
1996/4 ぬはり短歌会誌上掲載

 込み上げてくる声にならない嗚咽の源は何かと、私は持っていた短歌の本を眺めた。それは答えにはならないと思ったけれど、確かに「野榛」を開いていた時の感情だから、その中の、菊池柳子さんの連作の数首に涙を誘われたのだろう。

 視界なき霧の岬の救いなれこころ病む子に背負われて夫は
                    菊池柳子

 大分前だったと思うが菊池柳子さんのエッセーで、出家した息子さんの事を読んだ事があった。その息子さんの背に夫はいるという短歌だ。
 
 私の脳裏に荒々しい三陸の海が広がった。それは私の知らない海ではあるが、遠浅の少ないと聞く三陸だから荒々しい海が見えたのだろう。そこに、黒い衣の背に老いた男の縋り付く姿と、それを見ている柳子さんの視線の先に、霧に霞む水平線が空との境目さえも分からない程に煙って見えた。

 だとしても何故に胸を突いたのだろうか。この息子さんの姿に到底及ばない私の長男に思いがいったのだろうか。ここ数日不眠症に悩まされていた身障の息子と、そのために迷惑を被った同室の入所者と施設の職員。そしてその度に電話で報告を受けた私たち夫婦の戸惑い。一番に苦しかったのは、一人眠れず夜の闇を蠢いていた長男だったはずだ。その息子に思いが繋がったのだろうか。

 柳子さんの心を病んでいる息子さんと私の身障の息子。菊池柳子さんの短歌に誘発された私の涙は、暫くの間頬を伝わった。

 短歌を始めて三年余。「野榛」誌上の短歌を全部読んだわけではない。仕事の合間にぽつぽつ拾い読みした。種々雑多なモチーフを、その人なりの心のあり方で詠んでいるのだが、本当の悲しみを知っていると思われる人の作品は心を打つ。

 私の誘発された涙は、決して今の自分を嘆いて出たわけではなく、人間の本質にあるもの。それは誰にでもある無垢なるものを揺さぶられたのだろうと思う。

 生活音のする午前十時。良く晴れていて窓からの陽ざしも穏やかな時。それなのにシンとした静けさが感じられる。涙を流したことによって、洗われてしまったのか。

 人間は他の生物と比べると欲望の固まりみたいなもの。とりわけ肉親に対する情は深く、愛する人々への情を詠うことが多い。それは父母に対するより子を思うことの方がずうっと深いような気がする。こうして、突き詰めて考えてみると、自然界の法則に則った感情なのかもしれない。託された相手よりも、託す相手を大切に思うのは、種を残そうとする本能に通じるものなのかもしれない。そのようなことを考えているうち、頬の涙が乾いていった。

 涙で洗われた心で読み進んでいったが、他の短歌は一向に頭に入らない。いつまでも、私の知らない海がうねり、ますます霧が濃くなっていく。強烈に縛られたまま、読むことを諦めて「野榛」を閉じた。

 現実は厳しくとも、どこかで心を遊ばせることの出来るのは、のたうち回るほどの苦しみの果てに会得した技で、子供という一番の修行場にどっぷりと浸かったが故。
 もう何もかも、両手を広げて抱きとめるほど修行を積んだはずなのに、まだ泣けるほどの余裕のあることに驚いている。形が違えども子を思う心は同じ。
 菊池柳子さんの連作に誘発された涙は、私の息子に対する思いに、何かを教えてくれたような気がする。

 私は、深くふかーく息を吸い込み、徐々に吐き出した。