紫陽花記

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別館★写真と俳句「めいちゃところ」

銘茶処

2020-04-18 08:41:20 | 風に乗って(おばば)

 銘茶処

「あのう、こちらですか」
 一人の女が戸を細めに開けると、遠慮がちに中の者に声をかけた。
「おや、いらっしゃい。あんたもここのお茶をご所望かね」
 曲がった腰のお婆が出てきて言った。
「さまざまなお茶があるとか・・・・・・」
「そうだよ。裏山に湧き出る水で入れるお茶さね。それであんたはどんなお茶を」
「なんとか、夫の心の中が見えるようになるお茶を頂きたいと」
 お婆は、古びたのれんをくぐり奥へ消えた。

 水瓶から鉄瓶に入れる水音がして、鉄瓶の口から水をこぼさないようにしながら、お婆が現れた。上がり端の、大きな火鉢の五徳を押しつけて、鉄瓶をのせた。僅かに残っていた燠に炭を足すと「ふうっ」と吹いた。
「なんで夫の心の中まで見たいのかね」
 お婆は、湯が沸くまで何でも聞いてやるから、訳を話してみろと言った。女は、その言葉を待っていたように涙をこぼし、話し始めた。話しているうち怒りが込み上げてきたのか、身ぶり手ぶりも激しくなってきた。そのうち、口から泡を飛ばしながら、鉄瓶が音を立てるまで、延々と続けた。

 お婆は、手元に急須と湯飲みを引き寄せた。
「ずいぶん悪いことばかり聞いたが、良い所の一つもない男なんだね。女は男次第さ。徹底的に見た方がいいよ。もっと悪い所が見えるかもしれない」
 女は悲しい顔をしたが、気をとり直したように手を振り「少しは良い所もある」と言った。それに私にも悪い所がと、苦笑いをした。
「それでもしっかり見たいのだね・・・・・・」
 女は下を向き、火鉢の縁を撫ででいたが、「普通のお茶にして下さい」と言った。



観音めぐり

2020-04-05 09:17:55 | 風に乗って(おばば)

観音めぐり

 滝の音を聞きながら、三十三番目の観音様に手を合わせ、立ち上がった。
 残雪の下り坂は、地獄の囁きのように足裏で喚いた。身を削がれるほどの寒さに、心身の汚れが薄らいだような気になる。

 一山を歩き、お婆は疲れていた。
 峠の茶屋を後にしたときのことが懐かしく、ふと思い立った旅立ちが、何を意味していたのか、自分でも分からない。ぬるま湯のような毎日に嫌気が差した訳でもなく、かといって、何かを求めたと言うことでもないような気がする。

 霊山を見上げると、木立の中に差し込んだ弱々しい陽ざしに解けた雪水が、少しずつ量を増して沢を目指し、やがて滝と一つになって渓谷を下って行った。
 しばらくお婆は立ちつくし、眺めていた。滝の音は煩悩を洗い流し、お婆の存在さえもかき消すように尽きることを知らない。
 浄土ってこのようなものかも知れないと。お婆は時間の止まった中にいた。

「おひとりですか」
 お婆より少し年上に見える老女が笑いかけた。線香と小銭を手にしている。
「三十三の観音様には毎年参るんですよ」
 老女は山を見上げて微笑んだ。
「不注意で子供を亡くしたのが、わたしが二十歳の時。それから子供は授かりません。その子があの世でも辛いことが無いようにと。この季節は一番辛い時期。だからこそ来ます」
 アカギレの手を擦り合わせると、ブルッと身震いをして、凍てつく道を上って行った。
 後ろ姿に充実感があった。
 しばらくの間見送っていた。

 何かを確かめたくて、お婆は、もう一度山に向かった。



著書「風に乗って」収録済み「おばば」シリーズ25作です。