紫陽花記

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別館★俳句「めいちゃところ」

兄ちゃんと萌

2022-06-04 07:01:34 | 著書「風に乗って」★「兄ちゃんと萌」

 電子レンジが、チンと鳴った。味気ない餅の膨らみに、幼い頃の兄の笑顔があった。
「背中をツンツンとつっつがれ、振り向いたらそごに、入道坊主がいたんだど。びっくらすて腰抜かすているうぢに、入道坊主は、深ぇ雪ん中を、あっという間に走って行っで、裏の大杉の天辺まで登って行ったど。そすてこっつさこって、手招ぎすたんだどっしゃ」
 親子ほど歳の違う兄ちゃんは、土間に続く戸が開いていて寒かったのかもしれないが、大きく身震いをした。萌子は『おっかねぇなや』と思いつつ、炉端の金網の餅が気になっていた。大きさは様々で、兄ちゃんは、あまり焦がさないように、気短な動作で裏返した。
「丁度いい具合に焼けできた。おめぇ、どっつの餅欲しいのや」
「オラ、こっつの方がいいっちゃ」
 萌子は、一番手前の大きな餅を指差した。
「ナヌ、あっつのがいいのがや」
 兄ちゃんは、一番向こうの小さいのを火箸で指した。
「ちがう。こっつだってば」
 兄ちゃんは、火箸で熾きを持つと、萌子の手に近づけた。
「あつっつっつ」
「やっぱり、あっつすかや」と、兄ちゃんは一番向こうの餅を、箸でつまんだ。
「取ってやっからっしゃ。その前に、寒いがら入口の戸を閉めて来てけらいん」
 萌子は、すぐに立ち上がったが、入道坊主の話が怖い。――戸に手をかけた。
「ほらっ、きたっ。入道坊主だべっ」
 兄ちゃんの声が萌子の背にかぶさった。
 跳び上がり、地団駄踏んで萌子は泣いた。
「おっかながりやだなや。入道坊主みだいな、おっきな餅を食べらいん」




 秋の取入れが終わると、兄は毎晩出かけていった。
「兄ちゃん何処さ行ったのっしゃ」
「何処さ行ったんだべなや。萌子さ何も言わねぇのが」
 母は探るように萌子の顔を見た。
 兄が東京から帰って間もなく、青年団の人たちが来た。その時「稲刈りが終わってからでがすぺ。いがす、協力すます」と兄が言っていた。きっとあの時の約束事に、出かけているのかもしれない。
 今年も村の慰安会の日がきた。兄は午後三時が過ぎると、普段着のまま、東京から帰ってきた時のトランクを持って出かけて行った。
 早めの夕食が終わった。母は納屋から莚を持ち出すと、父に声をかけた。
「父ちゃんも行がねがすか」
「飲んでた方が、良いがす」
 父は、炉端を動かない。
 県道を村人が小学校を目指す。歌謡曲が聞こえてきた。母の足が速くなった。萌子は走って後に続いた。
 校庭に舞台が設けられ、縦横に張った綱に裸電球がぶら下がり、もう灯りが入っていた。
 母は少しでも前にと莚を広げ、萌子は持参した座布団に座った。
 いよいよ慰安会が始まった。地域別の青年団による唄や踊りの出し物が続いた。
「次は、大字中津山のスターによる、赤いランプの終列車でがす」
 幕が開き、蓄音機から伴奏が流れると、トレンチコートに、大きなトランクを持った兄が現れた。中折れ帽にちょいと手をやりながら、唄に合わせて軽くステップを踏んだ。
「キャーッ」という姉っ子たちの声に、兄の顔が輝いて見えた。


 

 梢に一つ残った柿が、鴉に食べつくされた日、初雪が降った。
 納屋に入ったきりの兄が、枯れ竹を材料にキリやナタを使っていた。
「兄ちゃん、何作っているのっしゃ」
「鳥籠だ。鳥っこ捕って飼おうかと思ってしゃ。萌子は鳥が好ぎが」
「オラ好ぎだど。ほんだけど、小ちゃけぇ籠さ入だら、可哀想でねぇべが」
 兄は器用に鳥籠を作り、馬の尻尾で作った罠を用意した。
 大豆を布袋に入れると、長靴を履いた。
 萌子は、防寒頭巾に綿入れ半纏を着て、兄の後へ続いた。
 北上川の堤防に立つと、黒い帯の流れと、綿菓子のような河川敷の畑が静まり返っていた。
 兄は、馬の尻尾の罠を畑のあちらこちらに置くと、大豆を撒き散らした。
「これで良すと。明日の朝が楽しみだど。鳩っこかがっぺ。萌子、今度は竹薮だど」
 堤防まで戻って振り返ると、兄妹の足跡だけが続いていた。
 竹薮の雪は風で落ち、根元に積もっていた。
 兄は、竹薮の北側に、竹竿についた霞網を張ると、南側に回った。
「見でろ。面白いくらい雀が捕れっからしゃ」
 そう言うと、ふいに南側の竹を揺すった。雀は塒から追いたてられ、北側へ飛び出した。
「兄ちゃん止めでけろ。鳥っこが可哀想だべっちゃ。兄ちゃんてばぁ」
 兄は、もがき騒ぐ雀を、一羽一羽霞網からはずすと、夕空へ向け放した。
 翌朝。一人畑に行った兄が戻ってきた。
 主の居ない鳥籠が、縁側の陽だまりの中に置き去りになった。


 

「オラ、こんなごど初めでだっちゃな」
 兄は顔を真っ赤にして言った。眼が充血している。萌子は、只事ではない兄の次の言葉を待った。
「オラ家の山羊殺されたど。腹大っきかったのにっしゃ。腹を鎌で切られでや。可哀想なごどすたぁ」
 兄はそう言うと、納屋の中へ走り込んだ。
「兄ちゃん、誰そんなごどすたのっしゃ」
 兄の返事は無かった。しばらくすると「グスン」と鼻汁をすすり上げながら出てきた。
「わがんね。誰のすわざか。土手の上で死んでいだ。可哀想に」
「山羊、何処さ居んの」
「死んだもの、どうすようもねぇべ。川原さ運んでいって埋めださ」
 山羊は、全体の毛足が短く、紫がかった灰色をしていた。性格は大人しく、もうじき子供が誕生するはずだった。
 兄は、山羊小屋の敷き藁をすっかり取り払うと、しばらくぼんやりと立ちすくんでいた。
 萌子は兄の傍に行くと、そっと兄の手に自分の手を繋いだ。
 隣の豚小屋で、母豚がドッカリと体を横たえ、生まれたばかりの子豚が、十匹も乳房にしゃぶりついている。
 子豚は、上になり下になり、賑やかな泣き声を上げている。
 兄は、豚小屋の柵に寄りかかった。
 萌子も、柵に寄りかかった。だが鼻につく悪臭に我慢が出来ない。
「兄ちゃん」
「今度は、ウサギでも飼おうがなや」
 兄は、大きく溜息を吐いて言った。
 翌日から山羊小屋に金網を張り、二階建てのウサギ小屋を造り始めた。


  

「ギャーッ、ウッ、ギャーッ」と、庭から呻き声がする。縁側の障子を開けると、雪解けの庭に、飼い猫のヨモが転がりもがいていた。
「母ちゃん。ヨモ何すたの」
「猫いらず食ったネズミを、食ったんだべ」
「水飲ませだの」
「うん。飲ませだ。今度は駄目だべなや」
 母は眉をひそめて首を振った。
 何ヶ月か前、同じことがあった。その時は苦しむヨモに水を飲ませて命を取りとめた。
 萌子は障子を閉め、耳を塞いだ。しばらくするとヨモの苦悶の泣き声が途絶えた。
「ヨモやー」母の声が響いた。
「萌子。お前が一番可愛がったのだがら、川さ運んで埋めてこうっ」父の声がした。
「良いがす。オラが行ってくるがら」兄の声。
 萌子は、ヨモの虎模様の毛並みを想った。

 雪が三十センチほど降った朝。二階建てのウサギ小屋から、父ちゃんウサギが逃げた。家族全員で家の周りを捜した。
「居たどう」と父の声。
「あやっ。犬にやられたなや」と母。
「こりゃあ。生ぎていがれねべなぁ。腰やられてすまったもの」と言う兄の声。
『おっかねぇ、おっかねぇなや』萌子は奥座敷に逃げ込んだ。
「萌子。昼飯食うどぉ」と兄が呼ぶ。いい匂いがしてきた。飯台に肉の煮たものがある。
「柔らかぇごど。旨めぇなや。申し訳ねぇど、有難く頂ぎます」
 と、父母と兄が箸を伸ばした。
 萌子は、毎日草刈をして飼育した父ちゃんウサギの末路を、楽しむわけにはいかない。
 いつまでも、父ちゃんウサギの残した家族を見ていた。

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