紫陽花記

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ショートストーリー

別館★写真と俳句「めいちゃところ」

町場の男

2020-05-31 08:56:51 | 風に乗って(おばば)


    町場の男

曲がりくねった峠の向こうから、見慣れない男がやって来た。
おかしな被り物の縁に、桃色のなでしこを刺して、いかにも町場の人間らしく見えた。
お婆は、見てみぬ振りをした。

「こんにちはぁ」
男は、馴れ馴れしい笑顔で立ち止まった。
仕方なくお婆は、曖昧な会釈をした。
「いい所ですねぇ」
男は懐手で辺りを見回し、何やら思案顔をした。
何処から来たのか聞きたいところだが、お婆はやりかけの仕事を思い出した。
「探し物をしているんですよ」男が笑顔をつくった。
「何をかね」
つい、お婆は立ち止まってしまった。

「私は物書きなんです。ネタを探してここまで来てしまった。いえね、物語の種を」
 全部まで聞かずに納屋に走り込んだお婆は小豆をひと掴み持って来た。
男は『何か違うな』という顔をした。
浮かない顔の男に、お婆は豚舎の雄豚の股ぐらを指さした。
「そんじゃ、こいつはどうじゃろか。この雄豚は、なかなかのやりてでな」
お婆はこの豚は、去年は三十頭もの親になったし、その前の年にはそれよりも多かったと言った。なにせそのお陰で、温泉に浸かってこられたのだから、とも言った。
「おばばさん、何かお仕事の途中じゃ・・・・」
男は、帰る素振りで言った。
「漬物にする高菜を洗うんだったが。そうだ」
お婆は、ごろりと縁側に横になった。
「このばばの寝た姿は、ネタにはならんか」
腕枕して横たわるお婆に、男はなにやら口中で言うと「ホント、いい天気だ」なんて言いながら帰って行った。



縄尻

2020-05-15 06:53:03 | 風に乗って(おばば)


   縄尻

「おばば、どうしたんだい」
南風に乗った雲が声をかけた。
ちら、と見上げたお婆は背を丸め、足元に視線を戻した。
「噂に聞いたんだが、もう何日も縄尻を探しているんだって」
雲は形を変え、遠ざかりながら言った。
「バッパー、解らない事でもあったのかい」
欅の梢から、カラスが笑った。
「ああ」
お婆は顔を上げずに、生返事をした。
盛り上がった縄の山に嫌気がさして、手を止めた。
「ちょいと、そこのカラス。縄尻がどこか、そこから見えないかね」
「いつものバッパーらしくないな」
カラスは、おもしろそうに言った。
「今度ばかしはな」
お婆はまた縄尻を探し始めた。縄尻は、見えたかと思えば、また消えてしまった。
カラスは、羽を光らせて飛び去った。

お婆は、見え隠れする縄尻を、指先に力を入れて引き出した。やっと見つけた縄尻は、スルリと、意外な程たやすく解けた。
左腕を曲げて、縄を巻いていく。
「おや、浮かない顔つきだったけど、しっぽが見つかったのかい」
舞い戻ったカラスがひやかした。
「ああ。縄の癖を知ってたつもりだつたが、やっぱり解らないものだよ」
「その縄をどうする気だい」
「そうだなぁ。おまえの首にでもくくりつけて、空でも飛んでみるか」

茜空に、窒息寸前のカラスが、はればれとした顔のお婆をぶら下げて飛ぶ姿があった。



春うらら

2020-05-01 08:37:08 | 風に乗って(おばば)


 春うらら

 お婆は、温もりのある日差しに誘われて丘に登った。雲はなく、風もない。
 決まってこの季節は、新しいものに挑戦してみたくなる。人生を長く歩んできて、怖いものもなくなったようだが、初めての事はやっぱりドキドキする。

 青々と茂る柔らかそうな葉。新芽の茎は赤紫で、指でちぎっても簡単に摘めた。
 赤紫の茎の色はすっかり湯に溶け出している。その湯の中で、真っ青に茹で上った野草は、少し苦味のある香りがした。
 お婆は、醤油を垂らすと、おもいきって口に入れた。苦味と青臭い香りが、ふわりとひろがった。噛む時『うまい』と思った。
 真っ白いご飯に載せて。塩をひと摘み入れた赤紫の汁をすすると、くどい苦味が、体の隅々まで清めてくれそうな気がした。

 村はずれの坂道を、母親が歩いてくる。黒っぽい着物に草履を履いて。しゃっきりとした足取りで元気そうだ。話かけても何も言わず、明るい顔は笑っている。
 とうの昔に逝った母は、裾をひるがえし一回転すると、こちらを向いて、川向こうを指さした。
 お婆は、年頃の娘に戻っていた。
 母は、ここは実に面白い所だと誘った。血の海は、盥船さ。針の山なんか、何の事はないと、ワラジで登っていく。お婆も登っていく。血の滴る足裏からの苦味が心地良い。血の後を、無数のミミズが追い縋ってくる。
 谷向こうから青い小鳥が飛び立った。
 咲き競う色とりどりの花の香が、風に乗って踊っている。陽気な歌声がだんだんに近づいてきて、耳の側で一気に轟いた。

 お婆は、自分のうめき声で目覚めた。
 口の中に青臭い苦味が残っていた。