紫陽花記

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別館★俳句「めいちゃところ」

★5 じっと、見守る

2023-05-28 06:44:23 | 「とある日のこと」2023年度


その日は土曜日の夕方の電車内。空いていた席に座ると、向かい側の三人シートの車両連結部分側に、杖を持った高齢の男性が股を広げて座っていた。出入り口側には女性が座って居るが、男性の杖が幅をとっていて、少し空いたところには誰も座ろうとしない。
反対側のシートに座った私は、目の前のおじいさんの様子を見るつもりも無く見ていた。

車窓を移る風景が小雨に煙りだした。私の下りる駅に後一駅となった時、向かい側のおじいさんが、杖を引き寄せ立ち上がる様子を見せた。同じ駅に降りるようだ。
足元にはリックが置いてある。どうするのだろう。手助けは? との思いは、私に限らず、周囲の数人は同じだったかもしれない。

おじいさんは、先ず、杖を引き寄せた。緩んでいた腹筋に力を込めたのだろう、背筋が少し伸びた。少しずつ体制を整えて、連結部分側の壁に背中を押し付けて、ゆっくりと立ち上がった。広げた両足を少し狭めて、空いている左手を足元のリックの持ち手に伸ばした。指がリックの持ち手に届くと、手前側に引き寄せ、リックのショルダーベルトまで指を伸ばした。曲がったままの膝を少し屈め、ようやくしっかりとショルダーベルトを捕まえた。私は、密かに息を吐いた。根性の外出だったのだろうと思う。

動いている電車内を、杖を移動させ、体を左右に揺らしながらドアの方向へ。私は立ち上がらずにいた。おじいさんは、ドアの前に移動出来た。数人の客は少し間を開けながら、見守っている様子。

雨は少し強くなってきた。私は家人に電話をして迎えを頼んだ。おじいさんは、駅員の押す車いすでタクシー乗り場へ。タクシーは一台も無い。駅員とおじいさんは小雨の中。私は、また密かに息を吐いた。



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★4 笑わせて、なんぼ

2023-05-21 07:28:16 | 「とある日のこと」2023年度



「世界一周旅行をしたいと思って」と、初対面のYさん。このEホールの常連らしい。私は、豪華客船のダンスホールを思い描いた。
「それで、男足を習おうとして教室に通ったのよ。クルクルと可愛い女性を回して踊らせるなんて、面白そうだなぁと。プロのレッスン料は高いのよね。2カ月習ったのだけど、何か違う、やっぱり私は女の方がいいわと気づいたの」と、Yさん。
「背が高いから男足を覚えたら喜ばれるわね」私は、身長172cmだと言うYさんを見上げた。80kgあった体重がダンスだけで15kgほど減量できたとか。
「自分が大きいけど、大きい男性はちょっとね。小柄な男性の方が全身を使って踊ってくれるので好きなの」とYさん。

 以前、大きい人は小柄を好み、小柄の人は大きい人を好むと聞いたことがある。私は150cmだが、どちらかと言えば大きい人が好きだ。その説通りなのかもしれない。

 それにしても世界一周旅行となれば多額の費用が掛かると思うが。弁護士会の事務所で仕事しているというYさん。あらゆることを記録しているというスマホを、大切そうに撫でた。そこへ行くと私は、どんぶり勘定である。よくぞ生活を破綻させなかったかと・・・。
「小柄の男性は全身を使わないと、私にお押し倒されるという危険を感じるみたいよ」と、Yさんは、悪戯っぽい目でフロァーの小柄な男性を見た。

 話の内容も面白いが、ズシリとした身体をリズムに乗せて、汗をかきながら踊るYさんが、初対面の私を笑わせようとしていることが伝わってくる。笑いは止まらない。
「良かったぁ、笑ってくれて。大阪人は笑ってもらえるのが一番嬉しいのよ。笑ってもらって、なんぼなのよ」と、Yさん。



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★3 どうする? 老後

2023-05-14 07:35:29 | 「とある日のこと」2023年度


「家にばかり居たら、ただのおばぁちゃん」と、更衣室のAさんが水色のドレスを着替えながら言った。何でも一時間半位電車に乗って、このEホールへ来るらしい。噂では定年まで百貨店の仕入れ業務をこなしていたとか。150cmの私より身長は低く見えるし、背中が少し曲がっている。御歳は80代半ばと見受けられるが、遠距離を物ともせず踊りに来るエネルギーに、現役時代のパワフルな仕事ぶりが想像できた。

「孫みたいな子等と踊っていられるのだから、有り難いよ」と、ボデイスーツだけになった上に、ベージュ色のTシャツを着て黒のパンツをするりと履いた。

 私は、Aさんの言葉を何度も思いだした。大きな病気や怪我をせずにこのまま踊りに行くことが出来たなら、そして、ある日のこと、ボックリとお迎えの車に乗ることが出来たなら最高だわねぇ。それにはどうすれば良いのだろう?・・・。

 先ずは、健康体でいるしかない。8週ごとの循環器科への通院と歯科医院への定期検診くらいで過ごせている現在は、身体障碍者の長男の介護と喫茶店主の仕事で疲れ切っていたあの頃と大きく変わっている。ぎっくり腰は数えきれないほどしたし、その後遺症の神経痛。諸々の問題を抱えていたので、不整脈と胃潰瘍も患った。その状態から抜けられたのは、次男の結婚後からである。考え方一つだが、キッチン係は卒業させられた。これが一番の幸せ。主婦は毎日の食事の担当は当たり前みたいだ。その係を卒業できたのである。

 現役時代に覚えた社交ダンスと物書き。現在の楽しみの二つはこの先も続けたい。それには先ず、健康体で居なければ。あ、それに、踊り疲れて帰っても、夫の沸した一番風呂と次男の嫁の手料理に感謝、感謝、感謝である。


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★2 三年ぶりの発声

2023-05-07 06:33:49 | 「とある日のこと」2023年度


  新型コロナ感染症のニュースが報道されてから3年余。ピタリと行かなくなったカラオケ店。どちらかと言えば、大きな声を出す方ではなく、大人しいと言えば聞こえが良いが、少し内気の陰気さのある私に、歌友のOさんから電話があった。

「歌いに行こうよ、久しぶりに。コロナ、もう大丈夫そうだし」と、熱心に誘う。
「声が出ないわよう」
「私だって。一曲だけでもいいじゃない。あとはお喋りでもいいんだから」
 ということでカラオケ店へ。

店のママは帽子にマスク姿の私に戸惑った表情。
「元気そうねぇ、ママ。ワ・タ・シ・よ」ママの以前よりふっくらした両頬を両手で挟んで声をかけると、「あらぁ~」と、ママは思いだした様子。女性ばかり7人ほどのお客様がいた。以前同様に、奥まった窓際のソファーに案内されて腰を下ろした。

 先客が次々と歌う。皆、マイクをすっぽり包むような布袋で感染予防をしている様子。マスクは外して唄っている。
「これ、新曲なの。だから、歌えるかどうか?」と皆さん呟きながらマイクスタンドの前に。
「新曲ですって。昔の曲しか唄えないわ」と、Oさん。私だって浦島太郎みたいなもの。

 次々と聞いたことのない歌手名と曲名。どの曲を聴いても同じようにしか聴こえない。唄う皆さんは満足気に微笑む。惜しみない拍手を私たちはする。

「一曲歌おうかな」Oさんが選曲を。私は自分の歌える曲さえ忘れている。記憶を手繰る。テレサテンのところから入って「空港」を選ぶ。はてさて、音程は狂わないか? 声は出るか? 三年ぶりの発声は少しずつ調子を取り戻した。2曲目は「雨の旅人」この曲も古いが好きな曲だ。

この日は、2曲だけ・・・。


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★1 頑張ろう私

2023-05-01 08:15:51 | 「とある日のこと」2023年度


 20週続けた「すみれ五年生」の連載を終えたが、さて次の記事はどうしようかと、考えが纏まらないでいた。

 決して若くない年齢になってから、身体を苛めるような鍛え方を半年続けて、ようやく、社交ダンスのパーティーで、デモンストレーションという大役をなんとか果たすことが出来た。かなりの心身の消耗だったが、ようやく体力の消耗と精神の消耗が少しずつ回復してきた。そして、三週間が過ぎ、ホッっとする間もなく、次のレッスンに入った。
k先生が聞きました。
「厳しくした方がいいですか? それとも優しい方が?」
「半分半分に」私は即座に答えました。周りにいた数人の男性ダンサーがクスッっと笑います。k先生はちょっと睨むような笑うような眼です。

「あ、七三で」と、私。気弱ではないつもりだが、思い返せば、子供の頃からいじめられっ子側だったような気がする。というのは当てはまらないかもしれないが、あまり言い返すことをしない方だからか、言われやすいのかもしれない。ダン友のHさんは、「私は絶対言い返すから」って、強気。私もそうありたいと思うのだが、つい、相手の内面が見えたような気がして言えないのだ。

k先生のレッスンは、以前と違って、厳しさが増しています。
「そんなだったら、いつまで経っても上手くならないよ」「種目が代わっても、同じなの。同じことを何度も言わないよ」って。
「ウェぇ~ン」私のべそ泣きが内耳でします。
こうして、次なるミニデモに向けて、ワルツのレッスンが始まりました。頑張ろう、ワタシ。



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