●〔88〕梅田望夫『シリコンバレーから将棋を観る-羽生善治と現代-』中央公論新社 2009(2009.09.10読了)
○内容紹介
IT時代の最先端を行く筆者と将棋との取り合わせ。面白い切り口だったと思います。
○指さない将棋ファン
○ビジョナリー
○イノベーションを封じる村社会的言説
○内容紹介
好きなものがありますか?極めたいことは何ですか?―ベストセラー『ウェブ進化論』の著者が「思考の触媒」として見つめ続けてきたものは、将棋における進化の物語だった。天才の中の天才が集う現代将棋の世界は、社会現象を先取りした実験場でもある。羽生善治、佐藤康光、深浦康市、渡辺明ら、超一流プロ棋士との深い対話を軸に、来るべき時代を生き抜く「知のすがた」を探る。予測不能な未来を前に我々はいかに生き抜くべきか。『ウェブ進化論』著者が真理を求める棋士たちの姿に見出した「超一流の方程式」!
IT時代の最先端を行く筆者と将棋との取り合わせ。面白い切り口だったと思います。
○指さない将棋ファン
ブログに将棋のことを書きはじめたとき、はじめはおそるおそろだった。将棋の強い人から「将棋も指さず、ろくに将棋のこともわからない奴が何を……」と言われるだろうと思っていたからだ。私も「指さない将棋ファン」ということになるのでしょう。
しかし、こうした隠れファンからの予想外の反応を得て、私にも私なりの将棋の世界への貢献があり得るかなと思うと同時に、「指さない将棋ファン」というコンセプトが、将棋ファンの裾野を広げ、その裾野を豊かにしていくという意味で、とても重要なことだと考えるようになっていった。将棋を指す子供たちが最近また増えているなか、そのお母さんたちへの普及という観点からも。また、これからますます大切になってくる将棋のグローバルな普及という観点からも。
そして、羽生(善治)さんをはじめ、佐藤(康光)さんや深浦(康市)さんや渡辺(明)さんといったプロ棋士たちとの個人的な親交が深まっていくにつれ、皆同じような問題意識を持ち、「指さない将棋ファン」「観て楽しむ将棋ファン」を増やしていきたいと考えていることを知り、とても心強い気持ちになった。
将棋を「観て楽しむ」 ための資格なんて、どこにもないのである。
誰でも、明日から「指さない将棋ファン」 になれるのだ。
将棋から一度は遠く離れたけれど将棋の世界が気になっている人、将棋は弱くてもなぜか将棋が好きで仕方ない人、将棋を指したこともないのに棋士の魅力に惹かれて将棋になぜか注目してしまう人……。
そんな人たちに向け、指さなくとも感じ取れる将棋の魅力、そして棋士という素晴らしい人たちの魅力を描くことで、「将棋を観てみよう」と思う気持ちを一人でも多くの人が持つことになればいい……。それだけを願いながら、本書を書き始めることにする。(pp.14~15)
○ビジョナリー
いつの時代にもどこかに必ず、凡人には見えない未来をイメージし、そこに向けての第一歩を踏み出している人たちがいる。彼ら彼女らは、思考するだけではなく、自らが思い描く未来のビジョンを実現するために行動し、そしてその過程で、未来の本質を示唆する何かを表現するのである。羽生善治がビジョナリーということです。
そういう人たちのことを、ビジョナリーと呼ぶ。(p.19)
○イノベーションを封じる村社会的言説
「変わりゆく現代将棋」第16回が掲載された『将棋世界』98年10月号の「新・対局日誌」に、三浦弘行八段(当時六段)の将棋を評したこんな文章がある。筆者は将棋界の語り部としてたくさんの名著を残してきた河口俊彦七段である。
《図は開始七手目の局面。▲1五歩と突いたところだが、こういう手にがっかりさせられるのである。これは一つのアイディアであることはわかる。先手番の得を生かしているとも言える。振り飛車にすれば端の位が生きるし、居飛車穴熊を封じている意味もある。実戦も、この後、振り飛車にして、先手作戦勝ちとなった。だから、これをB、Cクラスの棋士が指したのなら褒められる。しかし、三浦六段はそんな器じゃない。今はC級1組だが、格はAクラス並と仲間は思っている。格にふさわしい、堂々とした指し方をしてもらいたいのだ。▲1五歩といった変な得を追求するようなことをやっていると、将棋のスケールが小さくなってしまう。》
この文章が書かれてからわずか十年あまりだが、開始7手目の▲1五歩のような工夫(イノベーション)をこんなふうに酷評する人はもういない。「邪道」という言葉と同様の意味で、「器」「格」「堂々とした」「変な得」「将棋のスケール」といった曖昧な概念で他者の将棋を酷評する先輩棋士は、昔に比べて明らかに減ったのである。(pp.32~33)