ΓΝΩΘΙ ΣΑΥΤΟΝ-購書&購盤日記-

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《読書》石原千秋『秘伝 中学入試国語読解法』新潮選書(その2)

2006-06-30 05:47:21 | 読書
(承前)
 この本の第2部は「入試国語を考える」ということで、中学入試国語読解の「秘伝」が述べられています。
 私なりに「秘伝」を抜き出してみると以下のようになります。


 いま「国語」がやっていることは「道徳教育」である。小説(物語)であろうと評論(説明文)であろうと、そのことに変わりはない。しかし、そのことは当の子供たちにはきちんと知らされていない。いないどころか、「思ったこと」を答えなさいなどとまやかしの「自由」を押しつけられている。子供たちだって知っている。本当に「思ったこと」を答えたら叱られることを。あるいは、マルをもらえないことを。でも、なぜそうなのかは教えてもらえない。子供たちは、ルールを説明されないままゲームに参加させられているようなものなのだ。(p.9)

 フランスの批評家ロラン・バルトは、「物語は一つの文である。」という意味のことを言っている。これが、これから僕が「国語」について解説する立場である。
 「物語は一つの文である。」ということは、物語が一文で要約できるということである(これを物語文と呼んでおこう)。たとえば、『走れメロス』(太宰治)なら「メロスが約束を守る物語」とか、『ごん狐』(新美南吉)なら、「兵十とごんが理解し合う物語」とかいう風に要約できる。これが物語文である。もちろん、もっと抽象的に「人と人とが信頼を回復する物語」(走れメロス)とか、「人間と動物が心を通わす物語」(ごん狐)でもいい。ここで気づいてほしいのは、こんな風に物語文を抽象的にすればするほど物語りどうしが互いに似てくるということだ。この共通点が「物語の型」なのである。
 「国語」が得意な人はこの「物語の型」が身に付いている人だ。それは読書によって得られることが多いから、読書をよくする人が「国語」が得意になるのである。だから、「本を読みなさい」というアドバイスは正しい。僕も読書を勧める。
「国語」で繰り返し語られるのは「子供が成長する物語」である。どういう風に成長するのか。小さな旅行を経験して成長するのか、兄弟喧嘩をして成長するのか、はたまた恋を知って成長するのか、それはいろいろである。だが、それらの共通点が「成長」にあることは紛れもない事実である。それが教育というものだからである。「成長」することが道徳的に価値があるのだ。それを直接教えないことで、子供の内面を子供の気づかないように「管理」(教育)するのが、「国語」教育の目的なのである。(pp.179~180)

 僕たちはこういう二元論によって世界を分類している。たとえば、あいつは「明るい」がこいつは「暗い」と考える時、僕たちは二元論によって友達を分類している。「科学」が「自然」を破壊している(つまり環境破壊)と感じる時、僕たちは二元論によって善悪を決めている。「科学」が悪で「自然」が善だ。これは実に単純な考え方だが、実際この手の評論を読んだことは多いはずである。そのくらい二元論は僕たちの物の見方を支配している。男が偉くて女は偉くない、これも二元論だ。だから、本当は僕たちはもうそろそろ二元論から自由になりたいのだが、残念ながら中学入試を解く時には二元論は絶対的な力を発揮する。(p.185)

 二元論(二項対立思考)については、樋口裕一『ホンモノの思考力-口ぐせで鍛える論理の技術-』集英社新書(2003)でも述べられています。
 第二部二章以下では、以上のような理論に基づいて、実際の中学入試国語問題を例にあげて解き方が説明されています。ここの部分はナナメ読みしました。

 さて、この本はいったい誰が読むのか?

 一つめは、受験生本人は六年生になってから(できれば一学期中に)読んでほしいということだ。第一部は体験編だから、むしろ早めに読んでほしいところだが、第二部は違う。実際の入試問題を解く以上それなりのレベルになっている。(p.177)

 著者は受験生本人が読むことを想定しているようですが、今のところ、息子に読ませる気にはなりません。読めと言っても読まないだろうし。

《読書》石原千秋『秘伝 中学入試国語読解法』新潮選書(その1)

2006-06-29 05:31:22 | 読書

●〔43〕石原千秋『秘伝 中学入試国語読解法』新潮選書 1999
(2006.06.21読了)
 2002年2月に買った本です。いつか役に立つのではと思って買いました。今年、息子は小6になりました。中学受験を念頭において塾へ行かせています。「いつか」は今だと思って読みました。
 著者の石原千秋は漱石論を専門とする国文学者。「カミソリ石原」の異名があるそうです。この本を書いた時は成城大学助教授でしたが、現在は早稲田大学教授です。こう言っちゃあ悪いですが、成城大学出身で学者として有名になる人も珍しいかと思います。
 この本は2部から成り立っています。
 第1部は「僕たちの中学受験」で息子の中学受験の体験記です。面白く読めました。
 以下に、思ったことをランダムに。

○東京は選択肢がたくさんあって中学受験が大変である。
 地方だと受験できる学校の数が限られているので、どこをどのように受けるか、あまり悩む必要がありません(少なくともウチに関しては)。

○中学受験に関しては石原家はかなり恵まれた環境にあった。
 1.中学受験のために塾に行かせ、さらに中高一貫私立校へ行かせることができるだけの経済力がある。
 2.親に知的能力がある。
  ・受験に関する情報を収集し、分析することができる。
  ・子どもに勉強を教えることができる。
 3.親が子どもの受験に関わる時間的余裕がある。
 逆に言えば、これだけの条件が揃わなければ中学受験を成功させることはできないのでしょうか?
 石原自身も次のように言っています。

 社会学で用いる考え方の一つにハビトゥスがある。慣習と訳されることもあるが、ハビトゥスとはその人の身についた文化の型のことである。ハビトゥスは、ある階層が他の階層とは違っていることを示す徴(しるし)となる一方、自分たちと同じハビトゥスを持つ階層をコピーのように再生産する働きも持つ。したがって、ハビトゥスという概念は社会階層が存在することを前提としている。日本には階層がないと言われることもあるが、全くないわけではないのである。
 たとえば、東京大学の学生の保護者は、学歴でも、収入でも、社会的地位でもトップクラスにあることは周知の事実である。東大生の保護者の八割近くは、医師、弁護士、大学教授(僕は助教授だ!)や、大企業・官庁の管理職、中小企業の経営者などいわゆる「専門・管理職」に就いていると言う。極端に言えば、東大はある特定の階層の子供が通う大学なのだ。(中略)
 つまり、こういうことだ。僕たちは、塾の費用や中高一貫校の授業料といった経済的負担だけで、高学校歴を手にすることができるわけではないということである。その程度の負担になら、いまや中流家庭でも十分に耐えられるだろう。だから、東大生の親たちの階層は高収入以外の何かを持っていることになる。その何かがハビトゥスと呼ばれるのである。この階層のハビトゥスとは、学校制度に対する適応力であろう。この階層の子供たちは、戦後一貫して学業成績がいいのだ。それは一つの「文化」である。
 中学受験で純粋に子供の能力だけが試されていると考えるのは、むしろ甘い夢にすぎないのではないだろうか。偏差値とは、子供の学校制度への適応力という「文化」を測る物差しではないのか。公立中学では四十人学級でも荒れるのに、進学校では五十人学級でも荒れないのは、だから当然なのである。中学受験で子供の能力が試されていないとは言わない。そのことも含めて、もっと大きな力が試されているのである。(pp.38~39)

 要するに金があるだけではダメだと言っているのでしょうか。ますます「格差社会」が広がっていくような気がします。

○かなり赤裸々が記述がされている。
 息子とのやりとりも克明に記され、答案まで載せられています。また、塾の講師との軋轢や息子が通う小学校での学級崩壊の様子も書かれています。もちろん、実名は出ていませんが、読む人が読めばわかるでしょう。関係者にとってはあまり愉快ではない本かもしれません。

「wad's 読書メモ」では次のように評されています。

 いろんな意味で悲惨な本である。まず何よりも、この人の息子は今後そうとう長い間、「入試を親に手伝ってもらった男」という烙印を押されることになるだろう。親がこんな本を書きさえしなければばれなかったかもしれないのに。たぶんグレる。

 ちなみに石原親子が第一志望とし、そして合格したのは桐朋中学校です。

〈To be continued.〉

《person》鈴々舎馬風

2006-06-28 05:55:29 | person

落語協会新会長に馬風さん 円歌さんは最高顧問に
 社団法人落語協会(東京)は26日の総会で、会長を5期10年間務めた三遊亭円歌さん(74)に代わる新会長に、副会長の鈴々舎馬風さん(66)を選出した。円歌さんは最高顧問に就いた。
 馬風さんは「空いているホールや映画館などに話を持ち掛けて落語家の活躍する場所を増やしたい」と抱負を述べた。
 馬風さんは千葉県出身。柳家小さん門下で、1973年に真打ち昇進、76年に10代目鈴々舎馬風を襲名した。
(共同通信) - 2006年6月26日

 鈴々舎馬風がついに落語協会の会長になりましたね。「会長への道」が実現したわけです。シャレがマジになりました。芸風からすれば傍流でしょうが、圓楽や談志が協会から出て、志ん朝が死んだため、棚ボタでなった感もあります。芸の力や知名度からすれば、小三治がなってしかるべきかとも思うのですが、本人がなりたがらないんでしょうかね。小さんの襲名も断ったし。
 何か悪口ばっかり書いてますが、実は私、鈴々舎馬風は好きな落語家の一人です。著書の『会長への道』小学館(1996)も読んでます。
 2ちゃんねるでは、春風亭小朝、五街道雲助が役員を辞退したことが話題になってましたが、何かウラがあるんでしょうか。素人考えでは、いずれ小朝が会長になると思うんですけど。

 馬風一門にはホームページがあります。
※馬風一門ドットコム『鈴々舎馬風一門の長屋』はこちらです。
 一門ラインアップを見てみると、柳家三語楼がいます。御存知のように三語楼は五代目柳家小さんの実子で、この秋には六代目小さんを襲名することになっています。
 プロフィールを見てみると「平成14年 小さん没後、馬風一門加入」とあります。真打になる前に師匠が死んでしまった場合は、どこかの師匠につかなければならないのはわかっていますが、真打になった後に一門に加入することにはどういう意味があるのでしょうか。

《雑記》『白い巨塔』研究(その6)

2006-06-27 05:41:45 | 『白い巨塔』研究
◎『白い巨塔』におけると学閥と閨閥(4)

 それは、この班会議の班長であり、東都大学の第二外科の主任教授である船尾に対する多分に儀礼的な意味を含めた聞き方であった。班会議は、文部省から支出された研究費によって、大学の臨床、基礎、研究機関の教授たちが、横の連絡を取りながら、共通のテーマを研究する集りで、班長には文部省との交渉に実力を持つ政治力のある教授がなり、その実力によって、年間三百万円ぐらいの研究費を握って、各メンバーに配分することになっていた。それだけに、班会議のメンバーたちには、何かにつけて班長である船尾をたて、船尾に憚るような雰囲気があった。
 しかし、東からみれば、船尾の存在は、微妙な存在であった。自分より十一歳齢下の船尾は、かつて東都大学で東の兄弟子であった瀬川教授の門下であったが、現在、東都大学の教授であり、班会議の班長をしているから、東としては、一目おかねばならぬ微妙な関係にあった。(p.78)

 東は自分のために空けられた席についてみると、別に席順などきめていないと云っている席が、実によく出来ていることに気附いた。班長である船尾と東の席の次は、旧帝国大学の国立大学、その次は旧単科医科大学の官立大学、新制大学というような順で席が並び、同一大学から二人出席している場合は、卒業年次の早い者が上席に着くという順になっていた。(p.80)

「ええ、来年の三月がいよいよ私の停年退官の時期にあたっているので、私のあとを継いで、うちの第一外科を切って廻せるような人物がほしいのですよ。」
 東は、一気にそう云った。船尾は怪訝そうに東の顔を見、
「おたくには、あの財前君という食道外科で定評のある、腕のたつ助教授がちゃんといるじゃありませんか、うちの教室のいる連中は、東都大学以外は大学じゃないなどと考えているほど、東都大学絶対主義の連中が多いのですが、おたくの財前君には、さすがに意識してますよ、(中略)
「ええ、そりあ、心あたりはないことはありませんが、ただ東都大学の系列下の大学ならともかく、浪速大学出身者で固められている当の浪速大学へ、東都大学出身の者を出すことは、まるで、姑、小姑いじめの多いところへ、一人だけ可愛い弟子を婿入りさせるようなものですからね、これがちょっと可哀そうで――」
(中略)
「なるほど、可愛い弟子につまらぬ苦労をさせたくないというお考えですか、しかし、その点はご心配なく、教室の姑、小姑にいじめられる苦労は、私自身が十六年前にいやというほど経験しましたが、今度、私のあとへ来る人は、既に私が切り拓き、地均らしした地盤へ来るのですから、そんな苦労はありませんよ。それに船尾さん、あなただって、正直なところ、この話は悪くない話でしょう、あなたの時代に、東都大学のあなたの門下生を浪速大学へ送り込んでおくということは、あなた自身のジッツ(ポスト)の拡張になり、それだけ、主任教授としての船尾さんの勢力が拡大されることじゃないですか」(p.83)

(船尾教授よりの手紙)
 その際、ご依頼を受けました東教授の後任候補者の人選の件は、非常に延引致しておりましたが、(中略)別紙同封の如く、現新潟大学教授亀井慶一君と、現金沢大学教授菊川昇君の二名を推薦致します。
(中略)
 学歴と職歴は、両者よく似たもので、どちらも地方の名門中学校から旧制第一高等学校理科へ入学、さらに東都大学医学部へ進学し、卒業後、教室に残って副手、助手、講師を経て、ともに昭和三十二年に東都大学医学部講師から、地方国立大学医学部の教授に就任している四十三歳の少壮教授であった。(p.107)

 東都大学の船尾教授は学問的業績もあり、政治力もある、まさに学会の大ボス中の大ボスです。この船尾の推薦で金沢大学の菊川教授が財前の対抗馬になるわけです。しかし、いかに東都大学出身とはいえ、講師から助教授を経ずにいきなり教授になるものでしょうかねえ。
 劇場版「白い巨塔」では、滝沢修が船尾教授を演じていますが、その重厚な演技が印象に残っています。

※画像は劇場版「白い巨塔」ポスター。

《購書》2006.06.24 ブックオフ福山野上店

2006-06-25 05:49:42 | 購書
ブックオフ福山野上店

●2006127,空中ブランコ,奥田英朗,,文藝春秋,,2004,¥105
 面白いかと思って。

●2006128,アポロ13号奇跡の生還,ヘンリ・クーパーJr.,立花隆,新潮社,,1994,¥105
 立花隆なので。

●2006129,エリザベート-ハプスブルク家最後の皇女-,塚本哲也,,文藝春秋,,1992,¥105
 知的興味関心から。

《読書》米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』角川書店

2006-06-24 08:35:50 | 読書

●〔42〕米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』角川書店 2001
(2006.06.20読了)
 2006年6月13日にNHK-BS2で「追悼 米原万里さん 世界・わが心の旅 プラハ 4つの国の同級生」という番組が放送されました。この番組は1996年2月に放送されたものの再放送です。1960年、プラハのソビエト学校で同級生だった3人の友達(ギリシア人・リッツァ、ルーマニア人・アーニャ、ユーゴスラビア人・ヤスミンカ)を米原万里が訪ねて、再会を果たすという内容です。
 プラハのソビエト学校で学んでいた生徒は、各国の共産党関係者の子弟です。その後、1989年の東欧革命及び1991年末のソ連の消滅により、東欧の社会主義圏は崩壊してしまいます。それにより、リッツァ、アーニャ、ヤスミンカも激動の人生を歩むことになります。したがって、彼女たちと30年ぶりに再会を果たす話は、必然的に感動的な物語となっています。
 この本も同じ中身です。面白く読むことができましたが、先にテレビ番組を見ていたので、ややネタバレでした。しかし、本の方が当然、背景や状況などが詳しく書き込まれていました。「社会主義」というものを考える上で多くの情報を提供してくれる本だと思います。


 その日の授業は、マリヤ・アレキサンドロヴナ先生のこんな質問からはじまった。
「人体の器官には、ある条件の下では六倍にも膨張するものがあります。それは、なんという名称の器官で、また、その条件とは、いかなるものでしょうか」
(中略)
「では、ターニャ・モスコフスカヤ、あなたに答えてもらいましょう」
(中略)
「だって、マリヤ・アレキサンドロヴナ先生、あたし、恥かしくて答えられません」
 ターニャはさらに激しく身をよじりながら、弁解した。
「私の両親は、パパもママもとても厳格なんですよ。おじいちゃまの名に決して恥じないよう、はしたない言動は慎みなさいと、いつもいつも言い含められていますもの。先生は、そんな私に恥をかかせる気ですか? 絶対に絶対に答えられません。口が裂けても嫌です」
(中略)
 それで、先生は、矛先をヤスミンカに向けた。
「よろしい。では、ヤスミンカ・ディズダレービッチ、同じ質問に答えてください」
 ヤスミンカは、即座に立ち上がって簡潔に答えた。
「はい。突然明るいところが暗くなったような条件下の瞳孔です」
「その通り、ヤスミンカの答えは正解です。瞳孔は、ちょうど写真機の絞りの役割を果たしているのですね」
 マリヤ・アレキサンドロヴナ先生は満足げにヤスミンカの方を見やって、座るように合図すると、ターニャの方に向かって言い添えた。
「モスコフスカヤ、あなたには、三つのことを申し上げておきましょう。第一に、あなたは宿題をやって来ませんでしたね。第二に、とても厳格な家庭教育を受けておいでとのことだけど、そのおつむに浮かぶ事柄が上品とは言い難いのは偉大なお祖父様のおかげかしら。そして、第三に……」
 と言いかけたところで、先生は突然恥かしそうにうつむいて口をつぐんだ。
(中略)
 先生にそう言われてヤスミンカは腰を下ろしかけたのだが、何を思ったのか再び立ち上がった。
「あくまでも私の想像なんですが、先生がおっしゃりたかったのは、次のようなことではありませんか」
「はあ」
 マリヤ・アレキサンドロヴナも生徒たちも虚を突かれて間が空いた。その隙を突くようにヤスミンカは顔色一つ変えることなくサラリと言ってのけた。
「第三に、もし本当にターニャがそう思っているのなら、そのうち必ずガッカリしますよ」
 そして腰を下ろした。五、六秒ほどの沈黙に続いて教室全体が振動するような笑い声が響き渡った。マリヤ・アレキサンドロヴナも顔を真っ赤にして笑い転げている。どうやら図星だったみたいだ。(pp.195~199)

 上記のジョークはどこかのジョーク集で読んだことがあります。これが、オリジナルなのかもしれません。ただ、この本は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しているので、ノンフィクションなのでしょうが、あまりにもよくできすぎている気もします。

(ドイツで医者をしているリッツァに対して)
「それで、ドイツ人やドイツでの生活には満足しているの」
「ぜんせん。もちろん、病気じゃないかと思うほど街も公共施設も清潔なのは気持ちいいけれど、ここはお金が万能の社会よ。文化がないのよ。チェコで暮らしていた頃は、三日に一度は当たり前のように芝居やオペラやコンサートに足を運んだし、週末には美術館や博物館の展覧会が楽しみだった。日用品のように安くて、普通の人々の毎日の生活に空気のように文化が息づいていた。ところが、ここでは、それは高価な贅沢。」(pp.79~80)

 「物質的には貧しくても心は豊かだ」というのは、かつては社会主義国を賛美する言説でしたが、それが、ここに出てくる意味は何なのでしょう。

 市民図書館で借りました。

《雑記》『白い巨塔』研究(その5)

2006-06-23 05:19:18 | 『白い巨塔』研究
◎『白い巨塔』におけると学閥と閨閥(3)

 曽祖父も、祖父も、国立大学医学部の教授であり、殊に祖父は、その附属病院の院長であった家庭に育った佐枝子は、日常茶飯事にような応え方をしたが、それが佐枝子を縁遠くしている一つの原因でもあった。(p.21)

「何? 開業医――、国立大学教授の娘が、街の一開業医と結婚したいと云うのか」
「いけませんでしたかしら?」
 静かな眼ざしの中に、父の言葉を詰るような光があった。
「絶対、反対だよ、何代も続いている有名な個人病院や医院の場合は別として、一般の開業医になる者の多くは、大学の医学部を卒業して、教室に残りたくても、残れず、大学での出世コースを進むことも、地方の大学病院の勤務医としてのコースを歩むことも出来ない者が、仕方なく開業医になる場合が多いのだ、こともあろうに、一介の町医者となど……」
 曽祖父の代から国立大学教授になることを、東家の変えることの出来ぬ聖職と考え、その道をまっすぐに歩んで来た東貞蔵の頭の中には、医者と云えば、国立大学医学部の教授か、せいぜい助教授、講師ぐらいの姿しか思い描くことが出来ず、牢固とした開業医に対する偏見を抱いていた。
(中略)
東の長男である東哲夫は、医者になることを嫌い、中国文学を専攻することを望んだのであったが、医学者である祖父と父の強固な反対に会い、無理に無理を重ねた理科系の受験勉強に苦しんだあげく、高等学校から新潟医大へ入学したその年に胸を病み、戦争中の食糧不足が加わって二十二歳で夭逝してしまったのであった。(pp.21~22)

「お祖父さまとお祖母さま、或いはお父さまとお母さまのようなご結婚でございますわ、お祖父さまが恩師の令嬢であるお祖母さまをお戴きになり、お父様がお祖母さまのご縁続きの著名な法医学者の娘であるお母さまを妻にお迎えになり、その閨閥と学閥との繋がりで、お祖父さまは正四位勲二等勅任官の国立洛北大学附属病院長にまでおなりになり、お父さまも、母校の東都大学で教授におなりになれなかったとはいえ、浪速大学でご自分より古い方々を飛び越して教授になられ、東家は結婚という意識的な培養によって出来上がった医学者一家でございますわ、私はそうした人工培養のような学者種族をつくるための結婚など厭でございます」(pp.22~23)

 東佐枝子は東貞蔵の娘で、純粋で清らかな人物です。やがて里見に仄かな恋心を抱きます。
 東の開業医蔑視もここまで言い切ると却って爽快な感じもします。
 東の息子は新潟医大へ入学したということですが、国立大学(帝国大学)へは入れなかったということなのでしょう。

旧医科大学(きゅういかだいがく)とは、大正時代の時点で存在していた旧制9医科大学を母体としている大学の内、帝国大学へ昇格した大阪大学、名古屋大学、非官立であった京都府立医科大学を除く岡山大学、新潟大学、金沢大学、長崎大学、千葉大学、熊本大学の6大学のことで、大学病院格付をあらわすために用いられる言葉である。旧六医科大学、旧六、旧官六とも呼ばれる。
これらの大学はそれぞれ、岡山医科大学、新潟医科大学、金沢医科大学、長崎医科大学、千葉医科大学、熊本医科大学として戦前に活躍していた。旧制医科大学は、旧帝国大学に対抗する形でそれぞれの地方で強固な学閥を築き上げ、現在、各地域の医学部や病院をリードし、医学界に貢献する存在である。また、科学研究費補助金などの予算も、生命科学系分野では旧帝国大学に次いで大きい額を分配されている。これらの医学部では教授の純血率が高く、それゆえに各地域で誇り高く振る舞っていることが特徴である。(ウィキペディア「医科大学」より)


 ここまでの登場人物の学歴をまとめてみると以下のようになります。
・財前五郎        浪速大学医学部卒 → 浪速大学医学部助教授
・東貞蔵         東都大学医学部卒 → 東都大学医学部助教授 → 浪速大学医学部教授
・東貞蔵の父       洛北大学附属病院長
・東一蔵(東の祖父)   国立大学医学部教授
・鵜飼医学部長      浪速大学医学部卒 → 浪速大学医学部長
・鵜飼敬之輔(鵜飼の父) 国立大学医学部卒
・里見脩二        浪速大学医学部卒 → 浪速大学医学部助教授
・里見清一        洛北大学医学部卒 → 洛北大学医学部講師 → 開業医
・羽田融(里見の舅)   浪速大学医学部助教授 → 名古屋大学医学部長
 こうなると東一蔵が何大学の教授だったか知りたくなりますね。

※画像は東佐枝子(島田陽子・左)と里見三知代(上村香子・右)。「白い巨塔」1978年フジテレビ版より。

《雑記》『白い巨塔』研究(その4)

2006-06-22 05:42:19 | 『白い巨塔』研究
◎『白い巨塔』におけると学閥と閨閥(2)
鵜飼は、東と同窓ではなかったが、東の祖父東一蔵が、鵜飼の父鵜飼敬之輔の恩師であったため、東都大学出身で、ともすれば外様大名になりがちな東をひきたて、昨年の医学部長選挙で医学部長の椅子についてからは、さらに東をひきたてて来たのであって。内科医に珍しく豪放磊落な彼は、斗酒なお辞せずの方で、酒を飲んでは陽気に喋り、毒舌を振ってずけずけ人の批評をしたが、それだけの実力があり、浪速大学の医学部内においても、隠然たる力を持っていた。(中略)小心臆病な東が、威厳と余裕のポーズをもって、浪速大学医学部の実力者の一人になり得たのは、多分にこの鵜飼のおかげであるかもしれなかった。それだけに東は、齢でいえば、自分より三つ齢下の鵜飼であったが、彼が医学部長になってからは、出来るだけ彼をたてるようにして附き合っているのだった。(p.11)
 鵜飼医学部長は典型的な俗物で、さしたる学問的な業績もないのに、学内政治だけで医学部長にまで登り詰めた人物です。最初は東の盟友ですが、教授選では袂を分かって、財前支持にまわります。
 東の祖父が鵜飼の父の恩師とはなかなか細かい設定ですね。

 早く父を失い、母にも大学を卒業する前年に死別している里見は、三知代の父の名古屋大学の医学部長をしている羽田融に、普通の舅と、その娘の夫という間柄以上の親しみと、尊敬を抱いていた。
 達筆なペン字でしたためられた手紙の封を切ると、一行十二、三字ぐらいの大きな字で、(先日、そちらの鵜飼医学部長とたまたま会う機会があり、あなたが着々と『生物学的反応による癌の診断法』の研究を続けておられる由を聞き、ただただ欣慶の至り、学問的業績のない医学者は駄馬に等しい、三知代には、ますます、日常の雑事を押しつけ、ひたすらに学問に励まれんことを祈ってやまない、小生の愚息にも、あなたを見習い、研究一筋に励むよう厳しく申しつけたが、何かの折、ご指導を乞う)という短かい手紙であったが、そこに解剖学の権威者として、その道一筋に生き、三知代の弟にあたる一人息子にも、同じ医学の道を歩ませている老医学者の面影が彷彿としていた。
「相変わらず、お舅さんらしい手紙な」
 と云い、医者は、患者にとって信仰のようなものだよ、と云い切ることの鵜飼と、生涯研究を続けることが医学者だと信じ、その道を歩んでいる舅の羽田とが、何を話題にして語り合ったのか、怪訝な思いがし(後略)(p.53)

 (里見の兄は)京都の国立洛北大学の第二内科の講師にまでなりながら、主任教授と意見が合わず、些細な事件から大学を去った(pp.54~55)
 里見脩二は第一内科助教授で、財前五郎とは同級生で、親友(?)です。学問一筋の純粋な人物で、それ故に浪速大学を追われることになります。
 兄は洛北大学(=京都大学)医学部、弟は浪速大学(=大阪大学)医学部とは、賢い兄弟ですね。

※画像はDVD「白い巨塔劇場版」

《雑記》『白い巨塔』研究(その3)

2006-06-21 05:46:53 | 『白い巨塔』研究
◎『白い巨塔』におけると学閥と閨閥(1)
 私がなぜ『白い巨塔』が好きなのかを考えてみると、医学部を舞台に「組織と権力と人間」が描かれているからでしょう。これは私が最も興味関心があるテーマです。
 そこで、『白い巨塔』における学閥と閨閥について、関連部分を抜き書きする形で、研究(笑)をすすめていきたいと思います。なお、テキストは1965年発行の新潮社版です。

 財前五郎が、この八年間、地方大学からあった教授の口に耳もかさず、この割の合わない助教授のポストを辛抱強く勤めて来たのは、東教授が退官した後の教授の椅子を得るための忍耐であった。それだけに、何としても、来年の春の東教授退官の機会に、教授に昇格しなければ、国立浪速大学医学部教授のポストにつく機会を失い、万年助教授で終るか、それとも地方の医科大学の教授に転出させられてしまうかもしれなかった。浪速大学医学部の教授の停年は六十三歳であるから、東教授の退官のチャンスをはずせば、また次の新任教授が停年になる時までまたねばならない。ということは、四十三歳の財前五郎にとって、永遠にその機会を失うことに等しい。(p.6)

 小学校を卒業する年に、小学校の教員をしていた父の事故死に会い、中学校、高等学校、大学とも父の弔慰金と母の内職と奨学資金で進学し、浪速大学の医学部へ入学した年からは、村の篤志家で開業医である村井清恵の援助を受けて勉学出来たのであった。その村井清恵と、妻の父である財前又一が大阪医専の同窓であったところから、財前が医学部を卒業して五年目の助手の時に、将来を嘱望されて、財前家の養子婿になったのであった。(p.14)

 言うまでもありませんが、財前五郎は『白い巨塔』の主人公です。メスは切れますが、野心家です。浪速大学医学部教授を目指し、その目的を達成した後も、際限なく上をめざしていきます。

 余裕と威厳――、それは、東の最も愛好する言葉であった。どんな場合でも、国立大学教授としての余裕と威厳を失わないということが、彼の生活信条であった。
 東京の国立東都大学医学部を卒業し、三十六歳で同大学医学部の助教授になり、四十六歳で大阪の浪速大学医学部の教授になって、今日に至るまでの間、この信条を変えずにやって来、それが今日の東の外見と地位をつくりあげているのであった。
 内心は人一倍小心で、石橋を叩いても渡らぬほどの臆病な性格であったが、そんな気振はおくびにも出さず、余裕と威厳に満ちた表情とポーズを取りつくろっていると、何時の間にかそれが、東貞蔵の得意な風貌になり、彼をして医学部の有力教授の一人にしてしまったのだった。(中略)
 退官後のことを考えると、浪速大学の現役教授の椅子で退官を迎えることは、他の地方で退官を迎えるより倖せなことであるかもしれなかった。東都大学医学部の助教授から浪速大学医学部の教授に転じた当時は、母校の東都大学で教授になれなかったことを終生の痛恨事に思い、暫く思いきれずにいたものであったが、三年ほど経つと、経済都市の大阪にある浪速大学医学部の教授に転じたことは、長い人生を通してみると、決して損ではなかったと思うようになった。
 東都大学に残って、学問一筋の学者生活を貫くならともかく、学問的業績とともに、そこそこの経済的余裕をも望むのであってみれば、財界人の大物クラスの患者が、ずらりと居並ぶ浪速大学医学部の教授の椅子の方が、経済的に恵まれている。(pp.6~7)

 東貞蔵は財前五郎の前任者です。財前の教授就任を阻止しようとしますが、敗れます。貧しい出自の財前に対して、純然たるエリートに見えますが、かなり屈折しています。

 見え見えですが、浪速大学は大阪大学、東都大学は東京大学ですね。後から出てくる洛北大学は京都大学です。

※画像は財前五郎(田宮二郎・左)と東貞蔵(東野英治郎・右)。映画『白い巨塔』(山本薩夫監督)より。