●〔100〕浅羽通明『右翼と左翼』幻冬舎新書 2006 (2006.12.30読了)〈2006296〉
○内容紹介
「もはや右翼も左翼もない時代」といわれる。が、依然「右‐左」のレッテルはさまざまなものに貼られている。しかし「では右って何?左って?」と訊かれると答えに窮する。「右‐左」の対立軸は何か?なぜ「上‐下」「前‐後」ではないのか?定義はもとより世界史的誕生の瞬間から派生まで、影響された日本の「右‐左」の特殊性から戦後の歪み、現代の問題点までを解き明かし、ここ百数十年の世界史とそれに巻き込まれた日本の歴史がわかる画期的な一冊。
○本書の執筆理由
右に挙げた文献を一覧すればわかる通り、本書は、新書や文庫を中心とした概説書や入門書ばかりを資料として短期間で書き上げたものです。いずれも入手しやすく何ら専門知識などなくても読めるものであり、いうなれば、本書など誰にでも書けるといえましょう。
では、なぜそんな本を書いたのか。それはただ、「右翼と左翼」「右と左」という対立軸がよくわからない、わかりやすく教えてほしいと訴える読者がかなり存在し、そうした人々の要望に応える手頃な書物がまるでないという「需要」ゆえであります。本来ならば当然、政治思想や政治学、内外の歴史についての学識豊かな専門家、こうしたテーマについて広く深い洞察ができる著述家こそが、この「需要」に応える適任者というべきでしょう。
しかしなぜか、専門家や大家とされる先生方による著がない。先生方はより重要な専門のお仕事でお忙しいのか、あるいは己の学問や思想の奥義を究めないうちは未だ通俗啓蒙書など著するべきでないという厳しい謙抑心ゆえなのか、それとも知的関心に富むごく普通の生活者からの「右翼と左翼」「右と左」を手っ取り早くわかりたいという「需要」をご存じないのか、いずれかでしょう。
一流、もしくはそれに伍する諸賢が著してくれないならば、とりあえずは三流、四流が「需要」を引き受けて、この場をつながなくてはなりますまい。私は、「誘い水」「咬ませ犬」という喩えが好きです。「鳥なき里の蝙蝠」という諺も幼少期より好きでした。「まず傀より始めよ」なる故事も好きです。「三国志」では、諸葛孔明よりも徐庶が好きなのです。
いずれ、しかるべき学識と洞察力と資格のある先生が、人々の知的欲求のありどころ、「需要」の内容を掴み、右翼と左翼』を十全に解説した決定版を刊行するまで、小著を世に出しておく。それが本書の執筆理由です
(中略)
イタリア一七世紀の思想家ジャン・バティスタ・ヴィーコは、『学問の方法』(上村忠男他訳・岩波文庫)で、彼が考える知の方法の利点を三つ挙げています。『論点を一方向からでなくさまざまな人々の視点を考慮して論じられる。二、投げかけられた疑問に対して右から左へ即答できる。三、誰にもわかりやすく、説得的に伝えられる。これを充たす彼の知とは、神話や寓話、歴史から故事、エピソードを巧みに引きながら、問題の本質を示してゆく「トピカの知」というものでした。論理を飛ばさず緻密に辿るのを要求するデカルトの演鐸知、再現性ある実験による実証を要求するベーコンの帰納知などと比べて、なんとまあいい加減で、あやふやで、その場しのぎの「知」であることでしょう。
しかしです。論理的厳密さ、実証的客観性を担保する方法論にこだわるあまり、非専門家が最も教えてほしい答えをいつまでも返してくれない知の専門家があまりに多い(現に「右翼と左翼」が手軽にわかる本がないではありませんか)。現在、ヴィーコが挙げる三点から出発するもう一つの知の可能性を考えてみる必要がはたしてないといえるでしょうか。(「あとがき-非正規兵からの一言」pp.249~251)
上記からわかるように、非常にわかりやすくまとめられた本でした。図表も多数ありました。
第一章は「右翼」と「左翼」の定義について。ふだん何気なく使っている「右」と「左」ですが、つきつめてみると意外に定義が難しいことがわかります。
第二章~第四章はフランス革命以降の世界史のお勉強、第五章は明治以降の戦前までの日本の歴史のお勉強で、私自身にとっては既習の知識が多く、やや退屈でした(知識を持たない人には勉強になると思います)。
第六章は「戦後日本の「右」と「左」―憲法第九条と安保体制」ということで、これは面白く読むことができました。
「第七章 現代日本の「右」と「左」―理念の大空位時代」は結論ですが、結局、今までのような単純な「右」と「左」の対立といった図式はもう通用しないということでしょうか。ここらへんはよくわかりませんでした。
ということで、本書執筆の目的は十分に達成されていると思いました。
〈To be continued.〉