すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

学級崩壊に、少しの勇気を。

2014-11-24 09:24:54 | 世の中のこと
小学生のお母さん集団でした。スーパー前の歩道で学級崩壊についての立ち話が白熱していたので、しばらく聞き耳を立ててみました。

「お兄ちゃんのクラス、今年は多動児ばかりが集まって本当に最悪。学級崩壊」

「◯◯小も、◯◯小もらしいね」

「若い先生だから、全然言うこと聞かないみたいで、授業も全然すすまない」

「先生が泣いて訴えると、響くのは普通の子どもたちで、多動の子達には全然伝わらないみたい」

「そういう子の親に限って、出てこないんだよね。保護者の集まりとか」

「学級崩壊するようなクラスになるかならないかは、はっきり言って運なんだよね」


背筋が凍り付きそうな会話でした。お母さんたちの、その冷たい物言い。自分さえ、自分の子どもさえ無事ならいいという感じ。なんだか、無性に悲しくなりました。


学級崩壊が起きているクラスって、本当は何が起きているんだろう。一般的な母親たちの意識が、その会話のトーンに支配されているとしたら、先生、子どもたち、学校、それぞれどんな気持ちでいるんだろう。


若い先生は?

初めて受け持つクラス。校長や親や子どもたちからダメな教師だと思われたくない。親のクレームは、校長からの評価にもつながるから特に怖い。このクラスは多動児さえなんとかすればうまくいくのに。多動児さえ。でも、どなっても叱っても無視しても彼らは全く言うことを聞いてくれない。でも、誰にも頼れない。どうせ助けてくれない。多動児に憎しみさえ覚えながら、でも、彼らに対して大きな罪悪感も抱えてる。教師失格。


クラスの子どもたちは?

あの子たちは悪いヤツら。先生を困らせて、授業もできない。お母さんも、困った子達だ、とんでもないクラスだって呆れてる。そうか、人と違うことをしたり、人に迷惑をかけると絶対嫌われるんだ。みんなと一緒にできないヤツ、和を乱すヤツは、大人に見捨てられる運命なんだ。あんなヤツらはイジメられたって仕方がないのかもしれないよな。僕は、絶対、あんな風にはなってはいけないんだ。


多動児といわれる子は?

ここは安心できない場所。怖い場所。僕の自由を壊す場所。優しい人もいない。おこられてばかり。いつ押さえつけられるかわからないし、従順に座ってるなんてできないよ。少しでも安心したいから、自分の世界に逃げたいから動いているんだ。ずっとずっと動いていよう。


学校は?

ベテランの厳しい教師なら、もっとうまくやれたろうに。新人だからこんなもんだろう。学級崩壊は、学校の責任というより、多動児の存在がある限り防ぎようがない。親からのクレームには、「そういう子たちは病気だから学校ではどうしようもない」というしかない。


多動の子の母親は?

学校の先生に会えば、息子の苦情ばかり。クラスの母親たちの冷たい視線だって、もううんざり。こういう子を持つ親の苦労なんてわかるわけない。誰もわが子を褒めてくれない悲しさだって、理解してくれる人はいない。学校は、みんな敵ばかり。そんなところに乗り込む勇気なんてない。


あくまで私の想像ですが、それぞれのこんな意識が透けて見えます。

実は、一番問題なのはクラスの子どもたちへの影響です。学級崩壊よりも、そのことを巡って大人たちの中に生じている異物と感じるものを「排除」する意識。これを彼らが生きる土台にすることがものすごく怖くありませんか?

「迷惑をかける」「人と同じようにできない」という理由で他者を排除する意識が強いと、そのベクトルは自分にも必ず向います。

自分がそうした境遇になった時に、自分が自分を排除したり、他者が自分を排除することを受け入れることにつながります。例えば障害者に対して偏見の強い人は、自分が障害者になった時に、自分を受け入れられない人が多いものです。


そんな人間に育てなければいい。

そう考える人もいるかもしれません。でもそれは無理です。人生の中で、誰かに迷惑をかけたり、多数の人と違う境遇に立たされる場面は必ずあります。

受験に失敗するかもしれない。結婚しないかもしれない。子供が欲しくても持てないかもしれない。生まれた子どもに障害があるかもしれない。不治の病にかかって働けなくなるかもしれない。リストラに合うかもしれない。自然災害で全財産を失い生活保護を受給することになるかもしれない。離婚してシングルマザーになるかもしれない。認知症で要介護になるかもしれない。

長い人生、ちゃんと、みんなと同じように生きられない状況なんて、いくらでもある。逃れる方が難しいのです。


みんなと同じようにできない他者を排除することは、みんなと同じようにできない自分を排除することに他なりません。


じゃあ、どうすれば。

学級崩壊を構成する意識の中で、もしかしたら誰かが小さな勇気を実践することで突破口が開けることもあるはずです。

たとえば、お母さんができることはないでしょうか。

少なくとも先生や多動の子や、その子の親の悪口で盛り上がることではない気がします。その意識が、もしかして、事態をもっと悪くしているのかもしれません。

若い先生を、温かな眼差しで応援することは難しいでしょうか。小さな勇気を出して先生を信じることはできないでしょうか。

「先生、のびのびとやってください。少しくらいクラスが騒がしくても、勉強が遅れても大丈夫ですから。どうぞ楽しいクラスを作ってください。応援します」

例えば、そんな温かな意識を向けられた先生の中になにが起こるでしょう。親からの非難やクレーム、そんなプレッシャーに注いでいたエネルギーが取り戻せるかもしれません。本来、その先生がもっている能力が動きだして、多動の子に対して本当に大切な粘り強い関わりができるかもしれません。

先生の意識が緩むと、子どもたちの多動の子へのまなざしも緩みます。クラスの雰囲気がかわります。

そして、多動の子にとってそこは居心地の悪い場所ではなくなります。彼らが何も感じない?そんなの嘘です。アウトプットの方法が異なるだけ。自分を受け入れてくれる場所だと分かると、彼らの問題行動は確実に減ります。全部を同じにできなくても、みんなと一緒にできる部分は増えます。

そうなると、彼の個性がたどる成長を先生もお母さんも、大人は、楽しんで見守る余裕が生まれます。

学級崩壊と聞くと、とかく何かを悪として、問題として吊るし上げます。それが悪だとして、問題だとして、自分はそれに加担してないと言えるのでしょうか。何かのせい、誰かの責任、そんな意識を止めることが一番の解決策だと思うのです。

はじまりは、きっと誰か一人の小さな勇気です。


photo by pakutaso.com







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2 コメント

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ですよね (SAKU)
2014-11-30 11:17:35
初めまして。心屋さんのブログからこちらに来ました。
私は小学生二人の母です。
この記事、ジンときました。
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Re:ですよね (ayase_9)
2014-11-30 17:27:06
SAKUさん
コメントありがとうございます(*^_^*)
現役の小学生のお母さんに共感いただけたなんて、嬉しい限りです。私も息子が小学生になった時に小さな勇気を惜しまない母親でいたいと思っています。
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