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すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

浜田真理子さんへ

2006-05-19 00:12:37 | 本・映画・音楽

5月5日のこどもの日、
浜田真理子さんが、名古屋のライブにはじめて来てくれました。
旅行の予定を変更して無理無理出かけたんですけど、
でも、無理して行ってよかった。
見逃さなくて、よかったです。

みんなすすり泣いてましたね。
私も、ほとんどずっと泣いていました。
あんなライブ初めてです。
しんみりとした、奇跡のような歌声の合間に、
真理子さんのとぼけたMCがあって、
そのギャップが、心地よかったです。
美しさと可笑しさ、温かさと悲しさ、
いろんなものが交差する真理子さんのステージは、
人間的魅力が炸裂でした。

有名どころと言われるアーティストのライブを、
これまで何本か見ましたが、
そのどれとも違うライブでした。
少なくとも、私の魂にダイレクトに触れた、
最初のライブでした。

そこに、自分の心そのもの、
自分の求める世界が広がっている感じでした。
そして、自分のために歌ってくれている、
真理子さんが、自分のためだけに歌ってくれている、
そんな錯覚に自然に酔うことのできるライブでした。

観客席にいた人たちの多くが、
似たような感じで聞いていたんじゃないかしら。

真理子さんの歌は、
ずっと聞いていたいのだけど、
でも、
永遠にステージを見ていたというのとは違い、
終わりがあるからこそ、
そこにいる一瞬が大切で、尊くて、愛おしい。
そんな風に、
始まりと終わりを実感できるステージでした。

私の歌って欲しい曲を全部歌ってくれましたね。

「純愛」「のこされし者のうた」「水の都に雨が降る」
中島みゆきさんのカバーをした「世情」
そして、アンコールに「あなたへ」。
初めて聞いた「十五夜」「胸の小箱」も
本当に一度聞いただけで、とても好きになりました。
真理子さんの選ぶ歌詞の言葉が本当に魅力的でした。
胸にすっと降りてきました。
でも、まだその2曲はCD化されていないんですね。
だからこそ、
余計にライブのあの時間が貴重に思えてきます。

あの日、
一人の人間の魂が、洗い流されました。
流した涙の分だけ、
心がつるんとしました。
頭がすっきりしました。
なんというか、
神様に、
「これまでよく頑張ったね」って
頭をなでてもらった気分でした。

真理子さんにあんなに素晴らしい歌を作らせるために、
真理子さんのこれまでの人生を通り過ぎた人々、
そして何より、真理子さん、
ありがとう。
本当に、ありがとうございました。

映画「かもめ食堂」

2006-04-28 01:31:28 | 本・映画・音楽
いやぁ、よかった、よかった。「かもめ食堂」。
レディスデーで千円だったので、
友だちと小さな映画館まで出かけてきました!
(もう、すごい行列・・・)

劇的なストーリー展開があるわけでもないし、
恋愛のエピソードが描かれてるわけでもない。
どんな話?と聞かれても、
言葉に詰まってしまうような、
そんな映画なのだけど、
でも、とにかく理屈ぬきでいいんだな、これが。

舞台はフィンランドという非日常の設定なのだけど、
内容は、「かもめ」という名の食堂を舞台にした、
まるっきり日常の世界。
まさに、生活の一コマ一コマの点綴だ。

こんなにも豊かで、ぜいたくな普通を生きられるなら、
大金もちや、セレブといわれる人たちが、
気の毒に思えてきたりする。(なあんて・・・)

もちろん、
普通を楽しむのも、
日常を豊かにするも、
実はそうは簡単なことじゃない。
それには、とっても大事なコトがある。

自分にとっての幸せを良くわかっていること。
そして、肩肘張らずに、
目の前にあることを、
楽しみと喜びをもって丁寧に淡々とこなし、
さらに、自分自身や自分が掲げる信念や目標、夢なんかを、
あせらず、ゆるぎなく、
信じ切れる力を持っていることかな。
これ、簡単なようで、難しい。
難しいけど、
ありのままの自分を掘り当てて、
そこに充分に浸かることができたら、
見えてくることはあるかも。

ところで、
主人公の女性を演じたのは、
三谷幸喜夫人でもある小林聡美さん。
独特の雰囲気をもつ、素敵な女優さんだ。
ドラマの「すいか」を見たときにかなりほれ込み、
今回いっそうファンになった。
決して美人女優というくくりの中にはいる人ではないけど、
愛らしくて、あたかかで、キュートで、
でも、決して折れない、
しなやかで強い心の芯を持っていそうな女の人だ。

そのイメージ、「かもめ食堂」の主人公と、
そっくりそのまま重なる。まさにはまり役だね。
だから、演技も映画の空気も、
あんなに自然なんだよなぁ。

今日は、わたしも贅沢な時間をもらったぁ。
日常、万歳!普通、バンザイ!

茂木健一郎「脳と仮想」を読む

2005-09-14 00:18:30 | 本・映画・音楽
心脳問題を研究する気鋭の科学者として注目を集める茂木健一郎の「脳と仮想」を読んだ。

きっかけは新潮社の雑誌「考える人」の編集長が書くメルマガだった。

そこには、この著書で第4回小林秀雄賞を受賞した茂木氏の、記者会見上でのエピソードが紹介されていた。

茂木氏は、東京大学理学部に入りながら途中で法学部に転部している。その理由をどこかの記者が質問すると、茂木氏は言いよどみながらも、話しはじめたのだとか。ようは、純粋培養の科学少年だった茂木氏が、あるとき恋に落ちた。

そしてその人は、茂木氏が学ぶ科学とは全く相容れない「法学部」的な価値観を信じる女性だった。

恋のとりこになった茂木氏は、その世界を深く知りたいと思い、そして、法学部に入りなおしたというのだ。

このエピソードを読んだだけで、もう普通に「いいなぁ」って思ってしまった。

恋に落ちるのは文学少年ばかりではない。科学少年だって恋に落ちるのだ。そこが面白い。

理性の世界で生きている人間が恋に落ちたとき、理詰めでは通らない出来事に遭遇して、一体何を悩み、苦しんだのだろう。

科学という自分が専門とするアプローチ方法ではあるもの、この本は、茂木氏が
若い頃に抱え込んだ課題を解き明かそうとする「あがき」が含まれているのでは、なんて、うがった見方をしてしまった。

文章は硬めで、専門用語が頻繁に登場し、茂木氏が研究テーマとする「クオリア」というキーワードもすんなり胸に入ってはこなかったけれど、でも、科学者でありながら科学周辺の領域に寛容に手を伸ばそうとするところには、茂木氏のやわらかさとか暖かさをを感じた。

本文中、心に残った文章を引いてみる。

【私たちが、他者の心を知ることは原理的にありえない。私たちは、ただ、他者の心が判ったことにするだけである。
そこに立ち現れる他者の心は、一つの仮想である。場合によっては、相手の実際の心とは似ても似つかないかもしれない仮想である。理解と誤解の間には、無限といっていいほどの諧調がある。

肝心なのは、理解ということを、世の中に確かに存在するはずの「他者の心」の把握という意味に捉えるならば、完全な理解など、決して存在しないということを認識することである。】

この手のことは、例えば心理学系や人生指南系の本などでは、よく書かれていることだ。

それは、大体は著書の直感であったり経験によって書かれており、脳よりも心の問題、人間関係の切り抜け方として扱われている。

茂木氏の文章は、あくまで脳科学という
科学から導かれた客観事実を基に書かれているので、また違った重みを感じる。

茂木氏は、科学という自分の使いなれた道具を使って、ここにたどり着いた人なんだな、という気がした。

そして・・・、

【押せば動くというような、単純な力学に従わない、やわらかい存在だからこそ、他者の心は自分にとって切実な意味を持つ。自らがコントロールできる対象ではない。相手には、相手の意志がある。価値判断がある。そのような、他者の心が、その独自の意志に基づいて自分に好意を寄せてくれる。だからこそ、恋愛の成就は、飛び上がるほどうれしい。】

この文章の中に、茂木氏をして心脳問題に深く関わらせ、この本を書かせた答えがあるように思えた。

恋愛エッセイのように甘かったり情緒的だったりはせず、あくまで冷たく硬い断定的な文体の中にだからこそ、茂木氏の生々しい体験とそこからもたらされた述懐がにじんでいるような印象を持った。



「対象喪失」小此木啓吾

2005-08-15 07:49:41 | 本・映画・音楽
フロイト研究の第一人者でもあった
精神科医、小此木啓吾先生の「対象喪失」(中公新書)を読んだ。

死別、愛の喪失、目標の消滅、リストラなど、
人生を生き抜く上で、誰もが必ず遭遇する喪失体験。

本来人は、その悲哀のプロセスを通して、
対象が自分にとってどういったものであったかを再確認し、
悲しみに満ちた心を回復していくものであるが、
モラトリアム人間が席巻する現代社会においては、
この「悲哀の仕事」を達成できず、
心身の病や自己喪失に陥ってしまう人が増えているという。
そうしたことが、具体的な事例とともに書かれた本だ。

ズドンと胸をやられた記述を引いておく。

「自分に心的な苦痛や深いを与える
身近な人の苦しみや悲しみに関わることは辛くて耐えられないといえば、
それは現代人の<やさしさ>のように受け取れるが、
この<やさしさ>は、汚れ、醜さ、深い、悲しみを感じさせるものは、
できるだけ眼前から排除し、遠ざけておきたい<冷たさ>と一つである」

「モラトリアム人間は自分自身を常に仮の自分と思い、
本来の自分は、どこか別のところか、これから先の未来にあると思う。
一時的、暫定的な状態に身をおき、
予期される変化への適応にそなえ、
何事に対しても、当事者になることを避け、
どんなかかわりも深まりすぎて、傷つくことを恐れる」

恐れ入りました、という感じだ。
これ、自分のことだ!と思ってしまう。

まあ、ただ、この文章を読んで、ハッとしない人は、すごいと思う。
自分も含め、シラっとしたところと、
独善的な繊細さが同居しているような人が多き現代は、
まさに総モラトリアム化しているのかもしれない。



「わたしという運命について」を書いた白石一文

2005-07-09 11:55:01 | 本・映画・音楽

白石一文って、好きな作家だった。
エゴイスティックで、インテリを気取ってて、
精神的に弱っちそうで、でもプライドは人一倍高くて・・・。

そんな生きていくだけでもしんどそうな人間の、
心にたまった澱が全面に押し出された小説の文章は、
限りなく手前勝手で独りよがりでありながら、
でも、この人の人間臭さがどうしようもなく体現されていて、
どこかでカタルシスを感じてもいた。

作品によっては過激なセックス描写もあって、
女性の読者としては結構引いてしまい、
「この人はいったい何か書きたいのだろ。
この描写はただのマスターベーションじゃないの」、
なんて断罪したくなったりもする。

でも、その不快感を埋め合わせするように、
含蓄のある一文が随所にちりばめられていたりする。
そうした文章に出会うと、
「あっ、この観念を煮詰めて一文にするのに、
この人はものすごい時間を費やしたんだろうな」と感嘆する。
その一例が、こんなくだり。

『どうしても生きないではすまいないような、
生きるしかないような、
そういう切羽詰った理由を見つけてから再び社会に出よう、
などと甘ったるく考えていたが、
今回のことで洪治が身に沁みたのは、
どうしても死なないではすまいないような、
死ぬしかないような切羽詰った理由でもなければ、
人は生きつづけるしかない、ということだった。』
(「草にすわる」より)

目からうろこだった。
気持ちが不安定だった時期に読んだこの文章は、
決して楽観的で明るいものではなく、
励まされるといった類のものではないけれど、
生きることに本来意味を求めること自体がおかしい、
あるいは、辛い時どうしても求めたくなる「死」は幻想でしかない、
と諭されているみたいで、ハッとした。

そう、だから、時々、鼻に付きながらも、
白石さんの小説は、やはり新刊が出てくると手に取った。
人が良さそうでとっつきやすような雰囲気の人が多い最近の作家とは違い、
この人は、たとえば、実際に身近にいても、
絶対に議論なんかしたくないし、
一緒にお酒なんかものみたくないタイプの人だけれど、
でも、だからこそ作家としての才能はやはり天賦のものだと思うし、
ぬるくってゆるい作品(嫌いじゃないけどね)が、
林立する今の文学界にあって、
時代性を織り込むことはしても決して時代に翻弄されることはない、
本当の作家なのだと、強く思っていた。

その白石さんが、
「わたしという運命について」という小説を書いた。

もっと言えば、“書いてしまった”、
あるいは、“書かされてしまった”・・・。

読む前は、
「運命」という、描き方によっては安っぽく流れてしまうテーマを、
白石さんがどんな風に料理しているのか楽しみだった。
そして、いくつかの書評で予備知識を少しだけ入れて、
ようやく購入し、読んだ。

そして・・・、あーあ、と思った。

この路線で行くなら、
もうこの人の小説は、読めなくなるかも・・・と悲しくなった。
それなりに光る一文には出会えた気もするけど、
それらは小説の釈然としないものを埋め合わせてくれるほどのものではなかった。

「運命」については、哲学者や思想家も含め、
すでにいろんな人が書いているから、
白石さんが考え詰めて書いた一文も、
そうしたものの上塗りにしか見えないのだ。

これが、白石さんの本当に書きたいことだったのだろうか。
著者がそれに気づいているかどうかは別にして、
なんだか、作品の中には違う意図が潜んでいるように思えた。

途中から、読者を無理やり性急にどこかへ連れて行こうとしている、
しかもひどく薄っぺらい、ありきたりな場所へ導こうとしている、
そんな予感が積み重なっていき、
静かな落胆を感じずにはいられなかった。

豊富や知識や巧みな取材力?や構成力で、
時代背景や経済ネタをふんだんに組み入れ、
難しそうな小説という体面はなんとか保っているようにみえるけれども、
でも、中身はセカチュー、いま会い、冬ソナだ。

この三つが、低俗だなんていう気はない。
後ろ二つは読んだし、
冬ソナにいたっては自分でも情けないほどはまった。
でも、あれは、冬ソナだからいいのだ。
メロドラマだからいいのだ。
いずれブームが終われば作品そのものはともかくとして、
作品のエッセンス(純愛とか運命とか・・・)は
忘れ去られるものだからいいのだ。
わたしも、しばらくしてお腹いっぱいになったし、
冬ソナが後々わたしのなかに残してくれたものは、
もうこの先たぶん見ることのないDVD以外なにもない。

白石さんは、冬ソナを書く必要はないのに、
落としどころが必要な小説なんてあえて書く必要はないのに、と思う。
「わたしという~」は色々なプログを読むと絶賛している人も多いので、
結構売れるのかもしれない。
セカチュー、いま会い、あと、四日間の奇蹟のように、
純愛&ファンタジーは“売れる”
あるいは“女性に受ける”ための必須アイテムのようだから、
女性読者を増やすきっかけになるかもしれない。
そうなると、これを機に白石一文を知り、これまでの作品に触れて、
「わたしという~」の作風のがいい、
という読者だってでてくるはずだ。

でも、白石さんの、独善的でデカタンとでもいうべきかな、
そんな小説に引き込まれた読者からすると、
「ちょっと、そりゃないよ~」だ。

これまで読んだ小説は、ストーリーはどれもおぼろげだけど、
読み進むうちに自分の中に芽生えた、
「やったぁ!この一文に出会えただけでこの本を読んだ価値はあった」という、
魂の震える感じは、ずーっと、強く残っている。

でも「わたしという~」に関しては、それはなかった。

あー、すごい長文になった。それだけ、落胆したってことだ。
でも、それだけ、この作家が好きだったってことだ。
強いことを言ってもみても、新作が出れば、きっとまた読むに違いない。

でも、この作風があと二作続いたら、考えちゃうなぁ。

「対岸の彼女」と「天国はまだ遠く」

2005-06-14 21:03:35 | 本・映画・音楽

話題の女流作家が書いた「対岸の彼女」(角田光代)と「天国はまだ遠く」(瀬尾まいこ)の二冊を続けざまに読んだ。
さすが、売れてるだけある。シンプルに面白かった。

娯楽性があるという印象は薄いけど、なんというか二つとも物語りとして、一級品だ。

どちらもストーリー展開にひきつけられるし、登場人物が魅力的で、いとも簡単に感情移入させられる。号泣というほどではないけれど、ところどろこで、うるっと泣ける。

ある特殊な人たちを描いたストーリーと言うよりは、自分もコレに近い経験をした、こんな気持ちになったことがある、
あるいは今こんな気持ちだ、と、多くの人たちが共感しそうなエッセンスがちりばめられていたりする。

多分、この二冊を読んで、「好き!」という人はいても、「嫌い」という人は少ない気がする。敵を作らない小説だと思う。

二つの小説というより、二人の作家に共通してそうなのは、「いいひとっぽい」感じ。登場人物からして、優しくて、繊細で、でもどこか強くって、素朴なのだから、きっと著者もそんな人たちなのだろう。

時折文芸誌に載っている写真なんかを見ても、二人とも斜に構えたところがないし、ギラギラ野心に燃えてる感じも受けない。

自分の才能がフルに発揮できる好きな仕事をして、身の丈にあった生き方を実践している、ある意味器用な人たちかもしれない。

今の女流作家というのは、普通のお姉さんっポイ人が書いてる風に見えるのがトレンドなのかも。

少し前に、林芙美子の小説をいくつか読んだけど、その登場人物たるや、イジワルだし、嫉妬深いし、強欲だし、いわゆる女性の嫌な部分を全部持ち合わせているような性質だった。そうした女性に共感はできないものの、なんというか、自分もここまで情熱的に生きてみたいな、
といったある種の羨ましさを抱いたりはした。

でも、あんなあくの強い人と友達になったり、一緒に仕事をするのは願い下げである。

林芙美子自身、極貧にあえぎ、人にだまされ、相当過酷な人生を送り、と小説そのままに生きた、いわゆる“人間くさい”人だったようだ。決して凡人に真似できる生き方をした人なのだろう。

昔の小説は、共感よりも羨望だったのかもしれない。今と一昔前とでは、作家も小説もずいぶん違う。




浜田真理子さんの歌声

2005-02-28 23:48:41 | 本・映画・音楽

昨日から聴いている、浜田真理子さんというボーカリストのアルバム。
ネットで視聴して、
「これは、やばいかも」と思ったらビンゴ。
アルバム二枚「MARIKO」「あなたへ」を手に入れて、
すっかりはまってしまった。
というか、もう中毒に近いかも。

シンプルなピアノに合わせた、
シンプルかつ情熱的な詩と癒し系の歌声が、
彼女のいわゆるセールスなんだけど、
私には、その詩がいいのか、歌声のどっちがいいのか、
よくわからない。

詩は、たとえばCoccoを彷彿とさせるけど、
あそこまでクセがないというか過激でない。
歌声は、キャロルキングとか、ノラジョーンズとか、
声を裏返すところなんかは、元ちとせにも似ているけど、
彼女たちほど、個性的でもない。

でも、この詩とこの声が組み合わさると、
なんとも不思議な世界を作り出してしまう。
これはいったい何なのだろう。

とにかく、この人の歌を聴いていると、
客観的に考えると、
どうしたって癒し系の穏やかメロディなのだけど、
落ち着かなくなって、呼吸が荒くなって、
胸がにわかにドキドキしてくる。
そして、やがて体が脱力する。
ほかごともあんまりできない。

なにか、特定な人間の脳みそに反応する、
特定ななにかが歌に紛れ込んでいるとしか思えない。

・・・一見神秘的な彼女も、その実像はものすごく普通の人。
その普通すぎるとことが、逆に普通でないといえる。
わたしが惹かれるのは、そこかもしれない。
娘さんが一人いるお母さんで、
コンピュータのソフト会社で会社勤めをしていたりなんかして、
「生活との調和があってこその歌」というポリシーを持っていて、
メジャーへの関心が極端に低く、
いまだ東京から遠く離れた松江に暮らして、
時々気が向いたら・・・といった形でライブを開いている。

淡々と送っていそうな日常の中から生まれる歌のその熱っぽさを思うとき、
私たちの日常だって、捨てたもんじゃないかも・・・なんて思わせてくれる。

そのそもこの歌声との最初の出会いは、
寺島しのぶ主演で話題になった映画の「ヴァイブレータ」。
そのエンディングにかかっていたのが「あなたへ」。
映画の余韻に浸るのにはこれ以上にない楽曲で、寺島しのぶの、
最後の切なくてでも満たされた表情に、うまくかぶさっていた。

映画全体の純度を一気に高めたと思う。
その「あなたへ」の歌のどうしてもちゃんと聴きたくて、
いろいろ探し当てて、突き当たったのが、
浜田真理子さんというボーカリストだった。

一度ライブに行ってみたいな。