師匠の不思議な日常

天の語らい地の学び 香る神々との対話 天界、龍神界の物忌み(巫女)師匠こと天卜占と弟子で審神者(さにわ)である臣の日々

ともにあるもの

2011年03月05日 | 天意の実践

師匠に頻繁に神さまが降りてこられていた、初期の頃。

お店によってきた友人、お客、営業など、さまざまなひとたちが

帰った後に、こう、問われていた。

あれは、ともにあるものか?

と。

神々とともに在りたいと願うものたちかー

という、意味なのかと、当時は理解していた。

お店を閉めて以降も様々な方たちと出合い、思う。

幸せでいるにはそれ相応の『覚悟』が、本人には必要なのかと。

師匠は、それを「踏み出す勇気」と言ったことがあった。

状況。環境。さまざまなものや、事象が変化することを

受け入れるだけの心構えがなければ、不可能だし、

不可能に自身がする。

ちょっとの勇気なのか、相当の覚悟なのかは、自身が

決めることだ。 

決めて、案外楽になったし、楽になれたという声を聞く。

反面、変わりつつあることに恐れ、驚き、進むことを

やめるものもいる。

ただ、やめたものたちの末路は決して楽ではない。

幸せでいることをやめて、困難にふみとどまった。

宇宙の法則である、『生成発展』を拒んだのだ。

それもまた、自身が決めることだ。

ただ、師匠と関わって、口では変わりたいと言っていても、

本人は変わりたくないのだと感じた時、

師匠は、そっと、身を引くことにしている。

関わらない。

思う、思わないに関わらず、変化は起きる。

それをよしと思われないのであれば、

本人が喜ばないのであれば、関わらない方が、

本人にとっては都合のよいことなのだなと。

よい、わるいは、本人の都合。

だから、都合がわるいひととは関わらぬ方が

賢明なのだと、感じている。

師匠にあたえられている能力は、はかりしれなく、

本人のコントロールが難しいこともある。

簡単に、変化へのスイッチが入り、喜ぶ顔を見てきた。

逆もまた、然り。

神さまが言っておられた、『ともにあるもの』とは、

神さまと共に、生成発展の流れにあること。

なにより、『真・善・美』といった衝撃を、笑い、喜べるものを

神さま、人間の区別なく、うれしく思うのではないだろうか。

そして、なにより、師匠のように無邪気にどんなことも受け入れ

喜ぶことができたらーと思う。

自分を守ることを省みても、その選択は正しい。

自分のフィルターエネルギーとレベルが違う者同士が、

同じ空間に存在することは難しい。

低いものが心地いいものと、心地わるいものがいる。

だから同じレベルのもの同士が、魅かれあうのは当然だし、

心地よい。

そして、同じレベル同士の方が、互いを守ることができる。

互いに守るフィールドが広がれば、そこの空間はそのレベルに

応じて守られる。

自分が存在する空間を汚染されることなく、守ることができるのだ。

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メッセージ

2011年03月04日 | 天意の実践

真実を認識できたとき、

ことばが消えます。

ことばはありません。

「今」に、ことばがないように

限界ある存在はなくなるのです。

三次元を越えるとは、

ことばを必要としない、次元に在る

ことにほかなりません。

ことばが、三次元のあなたを作っていて、

三次元を選択したあなたが、

また、ことばあるあなたを選択し、

円環がつながっているのです。

先へ進むことを、あなたが望めば、

円環は切られ、新たが広がります。

    

突然降ってきた声をこちらへ転送しました。

何度も同じようなことばがぐるぐると廻るのであれば、

それは、それとして、いつかの今にえらぶのでしょう。

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ふたあたま

2011年03月03日 | 天意の実践

これは、神降ろしを師匠が始めた頃に、あるお客さまに対して、

降ってきた言葉だ。

『ふたあたま』

あたまが二つある。

二律背反が本人の中で成立している思考。

二重人格に似ているが、根本においては違う、と知った。

いろいろな方とお話しをさせていただいているにつれて、

それこそいろいろあると痛感する。

なかでも、話をしていて違和感がある場合。

「たぶん、うそなんだろうな、真実には程遠い。」

と、師匠は言う。

聞いていて、辻褄があわないことを一生懸命に話している。

それは、本人だけの真実。または、そういうことにしたい

という、願い。

以前はその程度であったし、『ふたあたま』などという事例は

そうそうないかと思っていたが、

何度かの違和感だったのが気がつけばなにやら背筋に

うすら寒いものに感じるようなことが出てきた。

事故や事件が近い将来 《ここで起こるのだ》

を感じた、

あの感覚が

人に対してもあることを知った。

『ネガティブマインド』。見方をかえれば、『人間トラップ』。

『マイナスエネルギーの焦点となっている、ひとのカタチをした

別なもの』 

という表現が一番近い。

だから、『ふたあたま』。

 

ものすごく礼儀正しく、挨拶などはふつうにできるのに、

人間関係においてはトラブルが多く、本人も悩んではいるようなのだがー、

ある瞬間、他者の困惑を悦ぶ表情を浮かべた。

これが違和感の正体だった。

『性悪』ー性根が悪い。

これが本性。ひとを困らせ、怒らせることが、

この者の悦び

ほかには興味がない

このために、この者は在る

本人が何より望むこと

つまり、この『性悪』が本人の存在意義なのだ。

本人が望む以上、それを無くすことはできない。

ただ、そのような者と共に在りたくなくば、

関わらぬことだ

それもまた、そなたの自由

そちら側、こちら側。どちらにも自由がある。

選ぶのは、自分である。

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足るを知る 足らぬを知る

2011年03月01日 | 天意の実践

どちらも正しい。

そのフィルターレベルに応じて。

低位のレベルにおいては、知識は重要だ。

この世界を認識するに至るまでは。

そして、知識が深まり、認識が深まれば、高位に依りて

この世界のすべてがつながりあい、相互の関係によって

成り立っていることを体感する。

    

この数週間は、『足る』、『足らぬ』について、長い会話が

なされていた。

結論から掲載したが、簡潔すぎて、わかりにくいかもしれない。

わかるもよし、わからぬもまたよし

ということなのかー。

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