師匠の不思議な日常

天の語らい地の学び 香る神々との対話 天界、龍神界の物忌み(巫女)師匠こと天卜占と弟子で審神者(さにわ)である臣の日々

難しいことはわからない・・・けれども、私は私なのだ

2013年03月29日 | 天意の実践

この世界でおきていることをすべて理解することなど、

到底できるものではない。

なぜなら、ありとあらゆるレベルの世界が混然一体となって

流れているからだ。

そして、違うレベルのことを完全に理解する必要もない。

在る。ただ、それだけ。

自分と言う定義において、自分と、自分を取り巻く世界がある。

そして、自分の世界が存在する。

理解が必要な事象とは、自分の定義する世界を拡大する場合

において、その時はじめて現出する。

無理につき進むこともなければ、義務もない。

ただ、ただ、自分と自分の世界の只中に在ることを体感するために

この世界に在るのだ。

K3340104


月の祓えの日、いつもの早吸日女さまへご挨拶。

いろいろな種類の桜が咲き、木々の香りは漂よう。
  

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天岩戸神社の天安河原で聞こえてきた祝詞ー鎮魂歌

2013年03月26日 | 天意の実践

聞こえてきた祝詞に近いものがあった。

【鎮魂歌(みたましづめのうた)】

ア~チ~メ~ オ~オ~オ~

天地(あめつち)に 来(き)ゆらかすは さゆらかす 

神(かみ)わがも 神(かみ)こそは 来(き)ね聞(き)こゆ 

来(き)ゆらかす

すめ神(がみ)の よさしたまへる 大(おほ)みこと 

ふみ行(ゆ)くことぞ 神(かむ)ながらなる

よりかへし 打(う)ちかへす 波(なみ)はなぎゆき 

海(わた)の面(も)もしづけし

たけすさびにし あらしもややに すぎゆきて 

そらにかかれる 八重雲(やへぐも)も見(み)ず

さつをらが もた来(き)のま弓(ゆみ) おくやまに 

みかりすらしも 弓(ゆみ)のはず見(み)ゆ 

ひと ふた みい よう いい むう なな や ここのたり 

ふるべゆらゆらとふるべや

 

鎮魂歌にはもう一種類あった。



アチメ オーオーオーオー

高天原にいてり 透(とお)らい 鎮坐(しずまりうぃ)ます

天照皇大御神(あまてらすすめおほみかみ)

亦の御名(みな)は大日霊女貴尊乃神霊(おほひるめむちのみこと)

の神霊(かむみたま) 天地四方(あめつちよも)に きゆらかすは

げに眞澄乃鏡(ますみのかがみ) つぎに夜乃食国(よのおすくに)

をしろしめす

月読大神(つきよみのおほかみ)またの御名(みな)は

神須佐鳴尊(かむすさのをのみこと)

霊(みたま)は四方(よも)にさゆらかす

皇王神(すめおほかみ)は かもしたまひぬ

萬(よろづ)の霊(みたま) 日月(ひつき)の神かこそは

いと尊(とふと)く 坐(ま)しければ 大身(おほみ) 

気根気(きねき)こう

ここに大神(おほかみ) 大霊(おほみたま)、授(さづ)け賜へば

吾身(わがみ)すなはち神に等し

神(かみ)に等しき霊(みたま)こそ 天地四方(あめつちよも)に

きゆらかす
  

 

香りが消えた。

新たな神迎えがつつがなく終えたことに安堵する。

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言挙げの日

2013年03月24日 | 天意の実践

誕生日となり、二つの神社へご挨拶に伺わせていただいた。
  

どちらも、参拝のひとたちが増え、特にお休みの日は団体の

バスでの乗りこみも多く、想念は祓えきれていない。
  

幣立では、大体、お昼前後に到着後ただちに参拝していると
  

曇りがちだった空がにわかに晴れてきたので、いつものように

日拝をさせていただいた。

日拝が終わるとまた曇り空へと戻って行った。
  

天へ向かう地。
  

天を迎える地。

それぞれのお役目は変われども、エネルギー宿す地には
  

変わりない。
  

天岩戸神社では、天安河原へと引っ張られるので、こちらへも

ごあいさつ。

途中、道々で修祓の力強い声が聞こえてくる。  

この数日、そして来る途中の車の中や降りた時には、
 

さまざまな香りが漂っていたので、どなたかが、こちらへ

降りられるようだ。

降神の祝詞が聞こえてくるのと同時に歌うような声が

聞こえる。臣さんの大祓詞だ。

呼びかけられ、それに応えた。

奏上して、祓い清めを終えた頃、団体客が参拝に

ぞくぞくとやってきた。

ちょうどタイミングもあわせていただいたことに

感謝だ。

そして、あらためてイノチを再生させていただいた。

追記

道中、さくらの満開に遭遇。

蘇芳も咲いていた。

これも出会い。

写真は、丹生神社の巴且杏。

K3340101

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同じ風景 同じもの

2013年03月23日 | 天意の実践

どれをえらぶのも自由だが、それをどう取るのも自由。
  

同じものなのに、そのひとにはおそれの対象物であったり、
  

楽しくて仕方ないものであったり。
  

だが、その対象物にも、本質は存在する。
  

その対象物を正確に捉えたい、または、

あるがままに観ることができる存在もある。
  

それは、どういう存在かと言うと、

純粋に物事を捉える。

本質を客観的に捉える。

感情にまかせない。
  

という存在。

それが、その人自身であるかもしれないし、

その感覚を意志でもって

磨いた結果なのかもしれない。

もし、そう望むなら、

美しいものにふれることだ。

美しいものを観る。

絵画であったり、音楽を聞いたり、およそこの世界に存在する、

高尚と呼ばれている一群。

そして、自然にふれる。

この時期の次々と咲き誇る花々に、美を観、感じる。

意識して観る。

意識せずに観る。

そうやって、自分と言う存在を瞬間、瞬間、選び続けている

それが、人生と言うものなのだ。

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感覚にたよる 感覚を磨き、研ぎ澄ます

2013年03月22日 | 天意の実践

アタマで考えることは、自分、または、誰かの経験則での

判断に委ねられていることが多く、たいていは

他者がフィードバックして思考した時に、

マイナスを帯びた思考でフィードバックすることの方が多い。

これも、経験のなせる技なのか。

だが、これをもう体験したくないと決めるなら、思考ではなく、

感覚に委ねる訓練に切り替えた方がいい。

どうきめるかは、自分がすべて判断をしてるのだから、

他者の経験は、あまりあてにはならない。

結果、自分の考えで判断をしているのだから、

自分の体感が反応するのに任せる。

反応から判断をきめる。

結局は、自分の人生をどう生きるかは、

自分の場所ーフィールドでしか、存在しない。

降ってきたキーワードの

『フィールドパック』

これも、ことばと言うより、感覚だった。

なにを入力し、何を出力するのか、

は、人生そのものだ。

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