師匠の不思議な日常

天の語らい地の学び 香る神々との対話 天界、龍神界の物忌み(巫女)師匠こと天卜占と弟子で審神者(さにわ)である臣の日々

ことばにひそむ想念のトラップ

2010年07月31日 | キーワード

師匠が情報断食にはいって、数週間がたつ。

最近特に、些細なことでも容赦なく、異変や違和感があることに

気がつく。

ドラマの内容であれ、情報番組であれ、言っていることに対して、

不快感を感じるようになった。

師匠「たぶんね、

   私の言っていることは正しいんだから、

   相手に気を使うように

   要求しているものが多いからだと思うよ。

   もっと、私に気をつかえっ、てね。」

言われてみれば、

本人的には、気を使って言っているようなことばなのに

結果は、大きく違うものをもたらしていて、本人も満足を得ている。

その結果が正解ならば、機能的には、そうだ。

確かに要求をしている。

そうしてくださいと、お願いをしているわけではないけれども、

結果は、それを要求している。

謙遜したり、遠慮した言い回しなのに、

とても、今は歪曲をしていて

なんとなく、聞いていて、気分が悪くなる時がある。

師匠「ことばも、歪んだものは、とても、気持ちが悪い。

   歪んだことばをしゃべっている画は、もっと、気持ちが悪い。」

それが、作られたドラマであれ、情報番組であれ、同じ。

ことば自体に想念がある。想念が宿っている。

そう何度もつかわれることで、ことばの命は大きく変わる。

その意味自体が変化を起こす。

そうして、ことばは変わる。ことばはイノチをおびて、

それを使うひとも変わる。使うことで、ひとを変える。

だからこそ、沈黙する。カンガエナイ。とらわれない。

そして、同意もしない。

それすらも、在る。

だから、それにこだわらない。

いつでも、想念は身近にあるのだから。

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まんまる

2010年07月30日 | 天意の実践

自分を見出すと、そこはことばのない世界。

自分でいる。在るだけの世界がひろがる。

すべては、自分であり、自分がすべて。

そこには喜びの波動が満ち溢れている。

やわらかで、ゆったりとしたバイブレーションの世界。

自分という塊から場へーそして、場から、自分という宇宙への変転。

せまい閉ざされていた個体から液体へそして、開かれた気体へと

変化をする。

そのとき、自分という意識は、全体との関わりであることに

きがつく。 

つながりあう喜び、つながりあう手と手。

その手は、よく伸びてすみずみまで行きわたり、誰もが、誰かのためにと

腕を手を、指を広げている。

個体や場であった時に、ちぢこまって、握りしめられていた手が

今は広げて、どこまでも広げてあたたかく包み込む。

握っていては、なにも手には はいらない。

自分の望みばかりを握りしめていた。

かつて、望みは叶わなかった。

けれども、今、すべてとつながることで、『私の望み』は消える。

『私』は消える。

限定された世界から抜け出し、わたしと同じ世界の誰かが

望みを叶え、笑いあう。その、喜びの光は世界を照らす。

つながりあう円環は世界そのもの。

すべてが在る世界。

満ち足りているのだから、満ち足りていないものは何もない。

誰かとことばという不完全なもので、伝えあわなくても、

つながることで、すべては伝わる。

これは体感のみが在る世界。

自分の本当の姿を見出すことができるのだ。

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みつけたっ

2010年07月29日 | 天意の実践

感情をまじえない訓練は、判断し、選択することにおいて、

とても、重要だということは、ここでは、何度も話しをし、

ひたすら訓練をすることで、それはやがて普段どおりに

できるようになる。

その延長線上にあるのは体感だ。

体感は、だれにも、教えられない。

けれども、この体感を味わったことが少しでもあるなら、

その意義を深く感じられる。

この世界にあふれる、さまざまな体験。

ひとが作り出したすべてのものに勝るこの体感。

それは、驚き

そして、喜び

えもいえぬ楽しさ。

そのどれもがフィルターレベルのなしえるものだ。

だから、体感はひとそれぞれ。そうして、この体感が在るから

ひとはまた、生き続けられる。

体感こそは神そのもの。

神とはよろこびなのだ。

故に、神に繋がるすべてのものの本来の姿は、

喜びなのだ。

感情のうえに成立するのではなく、

感情を排したところにのみ、現れるのは

神であり、

自身

の姿だ。

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処世訓ー黄金律(ゴールデンルール)

2010年07月28日 | 天意の実践

「わたしが悪いのですか?わたしは、悪くないですよね。」

そう言われれば、あなたは悪くないとだけ、言っておこう。

ここでの話にあるように、否定はしない。けれども、肯定もしない。

それが、在るがままに生きることだ。

大事なのは、感情に自分の場を明け渡さないことだ。

わたしは悪くないと決めることは大事だ。

けれども、

この判断は、あなたの成長をとめることばでもある。

魂は、いつか、本質体へと成長をとげる。

変異、へんげ、変化する。

いまの状態がいいのであれば、それは、それでかまわない。

よりよい自分。今の自分ではない自分を選びたいなら、

成長をも、在るがままにする。

変化をも、在るがままにする。

変わらないことだけが在るがままなのではない。

さとり、めざめ、進化、成功、勝利。

どのことばであれ、すべては、この体感で、得られる。

それは、どのような時代。どのような場所。

どのような事象であれ、変わらない。

感情をまじえず、判断し、常に前進、上昇する選択をすることが、

古今東西の書物でも綴られてきたことだ。

それは、普段の生活においても、

何事かのときであっても、

変わらない。

判断ミスをさえしないよりよい選択。

当たり前のようであって、

それができるひとはわずか。

けれども、なんども、なんども訓練を重ねて得る体感は、

なにものにも代えがたい。

感情を律する。コントロールする。

これこそが、人生の黄金律だ。

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こころのささくれ つづき

2010年07月27日 | 天意の実践

そうして旅の中で自分に寄り添う、たかきところよりの存在に気がつく。

いつも、いつも、こころにかけてくれていた存在。

いつも、いつも、見守っていてくれた存在。

どんなに苦しんでも、あがいていても、

嘆こうとも、

じっと、鎮まるまで傍で守ってくれている存在。

時に、ののしったとしても、静かに微笑んでいる存在。

喜びにふれ、楽しみに歌い、その時もともにある

存在。

こころのささくれがとけるまで

しずかに、ココ にイル

そとへの旅に出て、そとで気がつき、

そとからかえる

『オカエリナサイ。』

いつも、そばで笑っている 

じぶんじしん。

そう。自分を捨て、また、自分へかえるための旅なのだ。

思い出せ。自分とはなにものか。

Sh350224

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