師匠の不思議な日常

天の語らい地の学び 香る神々との対話 天界、龍神界の物忌み(巫女)師匠こと天卜占と弟子で審神者(さにわ)である臣の日々

ナンデヤロ どうしてやろ

2009年06月14日 | 天意の実践

りんご農家の木村さんの自著読了。

感想は別館に掲載した。

観察というものは、最初は外見である、外の目に見える世界から

入り、やがて目には見えない、内的世界へと変わって行く。

「ナンデヤロ」と思う。

それは、ふとした簡単なことだったり、好奇心であったり

うまくいかなかったり、うまくいかなくなったりして、思ったり、

それは様々だが、そう思うことで、

新たな自分の世界へ行くことができる。

「ナンデヤロ」は入り口であり、かつ、

内的自分からの招待状でもある。

体感という理解へ続く道筋。

それはあなたの物語へのはじまりなのだ。

「ナンデヤロ」は、謙虚さへの体感への入り口でもある。

どこまで行っても、自然のありのままでしかないこの世界を

改めて、認識し、体感し、自分もこの「一部」だと体感すれば、

あたまを下げるしかない。自然を理解して、おだやかに

笑っていよう。

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すべては理路整然とつながっている

2009年06月12日 | 天意の実践

『奇跡のりんご』の本を読んで感じていたのだが、

神さまからのメッセージは、人間だけでなく、この世界のすべてに

つながって、教えてくれていることを思い出させてくれる。

だが、この思い出すということも、一種のひらめきである。

少し前に読んで、今度別館でも紹介するが、りんご農家の木村さんの

自著でも、改めて、世界はつながっていることを思い出させる。

マスターの長からのメッセージはとてもありがたいのだが、それでも、

内容を理解しているかといえば、私はまだほど遠い自分を感じる。

師匠の言う『体感』は、中から湧き上がってくるものだ。

体感がひらめきと感じることもあるだろう。

理解とはそういうものだ。

理解ができていれば、的確に説明もできる。

数日前も、カウンセリングをしていて感じたのだが、

自分を理解していないと、状況説明も、こころもとないものだ。

そして、自分を理解できず、神から離れ、流離う人が増えている。

いろいろな表現をしてもいいとしても、その表現が体を、精神を

蝕んでいる。

何かの事件のときに、インタビューで、「罰当たりだ。」と言った人が

いたが、まさに、神との関係を絶つことで、自分に罰を引き寄せて

いるようなものだ。

わるいことの本質は、神との訣別でしかない。

自分の魂が神であるのにも関わらず、自分が、自分自身を捨てて

しまったのだ。その結果、バランスを壊している。

自分を見据える。自分を観察する。自分を調和する。

それが自分を救うのだ。

師匠が以前、自分がひとにおこなっているのは、調律だと思う、と

話していたが、まさに調和が、世界を創っているのだ。

木村さんが自然をりんごを観察し、すべてのつながりをおこなっている

神ー調和を経験して、本を通じて、一粒のタネをココロに蒔いている。

思い出そう。自然であるということは、わたしたちの思う以上に

理路整然としていることを。

ココロに魂に、光をあてよう。凝り固まった精神を歪んだカラダを

ときほぐそう。

それができるのは、この世界の中でただひとりの自分という、

アナタだけが、自分にあたえることができるのだ。

追記

別館に感想を掲載しました。

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どこから来て、どこへ行くのか

2009年06月11日 | 天意の実践

この世界は、二つが対立するのではなく、

二つが在ることで、寄り添い、より合わさって、できている。

結界の注連縄や、DNAなどは対立ではない。

太陽と月 右と左 男と女 

二つで在るもの。

古代の神々もまた、同じ。男性神と女性神が一対で存在してている。

『キ』と『ミ』は『ホツマ』では

木と実であり、男性と女性のことでもある。

学び、知識を深めれば、恐れを手放せる。対立は終わったのだ。

自分と対立せず、自分自身でいよう。

外への関心が極まれば、自ずと中への関心も深まる

自分自身を知れば、自分自身を思い出すことへと

導かれる

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ガイド(守護者)の長 リューシェーヒエンよりのメッセージ

2009年06月07日 | 天意の実践

何も悲観することはない。

この多次元宇宙のなかで、あらゆるレベルのマインド(魂)が、

共生しているから、共生をするためには、そのマインド(魂)を

保護しなければならない。

保護の膜として、あなたが思う次元障壁はあるのだ。

次元障壁ーフィルターは、周囲のレベルの干渉からマインド(魂)

を守るためにも存在している。本来のマインド(魂)のレベル、

高次元からみれば、それはさほどの問題ではないのだ。

フィルターのレベルは存在する次元に添うよう、調整がされている。

すべては、そのマインド(魂)にとって、善きものがもたらされるよう

できている。

歩く道すがら(生きていく中で)、途中の事象はいろいろなことが

あるが、それがあっても、導かれ、たどり着く場所は、目的地であり、

あらかじめ用意されている地なのだよ。

       

追記

師匠が瞑想中に降ってきたメッセージ。

師匠が受け取るメッセージは、八幡大神さまたち、神々であったり、

ガイド(守護者)からのものであったりする。

最近、文章の形態を変えたのは、師匠が受け取る感覚が変わった

がためなのだが、どの話も、この多次元の世界へむけてのもの

であることに変わりはない。

どの話も、届けられた人にだけ、わかるようになっているものなのだ。

その恩寵はあなたに向けられている。

リューシェーヒエンについて   初出  『高次の世界では』

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情報断食のすすめ 附

2009年06月06日 | 天意の実践

ひとには感情というものがあるが、この感情がとても厄介なのだ。

だから、いやなもの、いやだなと思う、思わせるものは見ない。

少し前なら、いやなことも体験するのが人生では当たり前だと

教えられてきたが、今の状況は違ってきている。

いいことよりも、いやだと思うようなことが、あまりに多すぎる。

ひとは生活も、思考も、ありとあらゆるものを求め、手にいれ、

在り様を多様化して来た結果、自分という存在を理解できないまま

ひとにいやな思いをさせていることにも無関心となり、自分ではない

ネガティブボディのまま、走り続けている。

自分が起こしたムーブメントは、ネガティブポイントを増殖させて、その

ネガティブボディは肥大化し続けている。

これは以前の記事にも書いたが、自分の意識に関わりなく、相手の

感情を暴走にスイッチを入れてしまうことがある。

それにより、相手が発したネガティブの影響を受ける。

一種の呪である。

そして、逆に、いやな思いを暴走させ、歯止めが利かなくなって

いるのだ。

感情が暴走することによっても、ネガティブポイントが増殖する。

このことは、多くのひと、先人たちが繰り返し言っている。

言い方を変えるなら、おだやかなこころでいること。

瞑想や、癒しが求められているが、すべては、無に帰依すること

にほかならない。

この世界にある、『ねばならない』事象や、『常識』といわれて

いたことは崩壊している。

否、常識と呼ばれるものは、常に変化するものなのだ。

そとの世界は変わり続ける。なかの世界の『在る』という自分は

変わらない。

変わるものの中に在って、変わるものを越えたところに、

答えが在るのだ。

コメント (2)
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