春頃から、師匠の提案で柞原へお参りして帰る道を変えてみた。
ナビがついてからは、ちょっと、回り道したり、新しくできた道を
通ってみたりしている。
山奥の離合がやっとのところを抜けて、自動車道沿いの新しい
道を走っていると、同じように新しい病院ができていて、その前を
通っていた。
師匠「○○○病院かあ。名前からして、まあたらしいよね。」
その後、何度か、この病院を気にしつつ、前を通っていた。
それが何かがわかるまでー。
病院の前を通って、道を抜け、ふと、知り合いのお店の前を行くと、
お店が無くなっていた。
以前、お店を閉めて、自宅でしようか、などと話していたので、
久しぶりに携帯に電話をしてみたら、病院に入院しているとのこと。
それも、師匠が気にしていた病院に、
丁度、私たちが前を通るようになった頃からー。
とても、勉強家で、入信している宗教団体の出版物だけでなく、
他のスピリチュアルな本にも目を通し、何かを求めていたひとだった。
きもののご縁で知り合い、気がつけば、彼女は求めるものに
囚われていた。
今は、自由な中で、開放されていることだろう。
病気には、それぞれに意義がある。
いつか、その意義が消滅する日まで。
師匠は時折、「意味がないことが在る。」と言う。
これも、そのひとつ。
なぜ、それをするのかの、動機が消滅するのだという。
ただ、こちらの道を行く。
選ぶのではなく、行くのだと。
特別なことは何もない。それだけが存在すれば、よいのだろう。
そう。特別なことは何もない。
あなたが在るために、要るものが来る。
それだけのこと。
ありとあらゆる選択し続けた結果、選択すらなくなる。
行く方向だけが、在るのだ。