師匠の不思議な日常

天の語らい地の学び 香る神々との対話 天界、龍神界の物忌み(巫女)師匠こと天卜占と弟子で審神者(さにわ)である臣の日々

畏れる 敬う 畏敬の念

2009年06月17日 | 天意の実践

畏れるとは、どういう状態なのか。

何かを恐れるのだが、かしこまり恐れる。

畏れ多い相手とは、誰なのかが、わかるだろうか。

畏れ多い感覚は教えてもらうものなのか、などと考えていた。

情報断食以前の問題な師匠の最近のドラマ観は、ほとんど実も

蓋もない。テレビドラマを観ていて、楽しくないという。

ドラマに限らず、視点に謙虚さがないから、見ていて疲れるという。

謙虚でいるということも、教えられるものなのだろうか。

否、概念として、教え、あとはそれこそ、体感でわかるしかないの

かもしれない。

自然の中で、ひとは、畏れ多い存在を感じ取り、自然の力に、時に

無力感を感じ、謙虚に自然とつきあう術を得ていた。

それは、かつてはーと言っておこう。

合理的なものを好み、求め、突き進んだ現代では、自由に各々の

ポイントがあり、何かを追求して、今の地に存在している。

けれども、なにが合理的かと思うような、非効率なポイントに迷い込み

不確かな世界を構築している。

厳密な合理性。

それは、自然の中で、そのつながりに生かされつつ、活かしつつ

追求するものなのだ。

人の生活の根幹である、『食』はそれを如実に表している。

海の恵みも、山の恵みも、わけていただいているという、畏敬の念と

謙虚さをもってみると、ありがたいというこころもわかるだろう。

有難い。恵みとはなんと有難いものか。

自分ひとりで生きているわけではないのだから、合理的に思う。

すると、自然、畏敬の念も謙虚も、ココロに浮かびあがることだろう。

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