師匠の不思議な日常

天の語らい地の学び 香る神々との対話 天界、龍神界の物忌み(巫女)師匠こと天卜占と弟子で審神者(さにわ)である臣の日々

なるのは、自分自身

2009年06月25日 | 天意の実践

別館で感想を掲載した 『映画 ハゲタカ』

映画の中で、劉の科白に、

「誰かになるんだ。」というものがある。「誰かになる」と叫んでいた劉。

他人の名を名乗り、何者でもなかった彼は、一体、誰だったのか。

自分とは何者か。

確かに、何かの道へ進んでいくとき、憧れの人物や、目標とする人が

いると、目標はイメージしやすくなる。モデリングしやすくなる。

けれども、それはあくまでひとつの道標であったり、ランドマークに

すぎない。

自分とは個であったり、つながりあう中での記号や目印であったり

する。

感情をまじえて、物事を見ることは、まちがいなのだ。

感情は共感を呼ぶものと思われがちだが、

実際、その感覚は個のものなのにー。

そのことで、現代人はなにかを見失ったのだ。

個人であることがまかり通った時代が終わり、

全体でも、個が尊重される時がきたのだ。

全体と個を切り離した結果の今があるからこそ、

全体がどんなに大切かが、わかることができるのだ。

世界を作ってるのは自分なのだ。

そのことを、思い出せ。自分を思い出せ。本来の自分を思い出せ。

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決めている

2009年06月21日 | 天意の実践

先日、遠路はるばる、大分へお客さまがやってきた。

宇佐八幡と、湯布院へお連れしたが、出会うことで、さらに

神さまからの贈り物も届けられた。

決めたその瞬間から、新たな道が明確になった。

世間とか、大衆に流されるひとたちがいて、

進むべき道が明確なっているひとたちがいて、

そういう意味では、この世界の二極化がどんどんすすんでいる。

魂がどんなにあがいても、それを支配しているネガティブマインドが

無視し続ければ、確実に蝕まれる。

それはどうすることもできない。

魂の本質を無視し、魂の声を無視することは、

自分が自分を抹殺しているに等しい。

だからといって、何かあれば、神が助けてくれるはず、と望むのは

虫が良すぎる。

ネガティブマインドを許している自己が存在している以上、

それを許している自己を、神は尊重する。神は寛大なのだ。

どうしてこれを選択するのか、自己に問い始めれば、世界は輝く。

光の道は、そこここにあることに気がつくのだ。

ひとは知らず知らずに、ひとの念ー感情を受ける。誰もが光の念を

抱くわけではない。今のひとのレベル程度では、ほとんどが闇の念

をひとにあたえたり、増殖する方向を選んでいる。

そうして、二極化は進んでいる。

できうるなら、光のコミュニティを望む。

魂の本質に添った、輝かしきコミュニティを。

神の声に、魂に引き寄せられて、あなたはこれを今、読んでいる。

それでも、御祖神は、あなたを守ってくれる。

どんなに闇をまとっても、ここにふれたものを、我らは守る。

選び、選ばれたものは集う。そうして、我らは守る。

あなたたちは、すでに決められた場所にいるのだ。

あなたがここへ降りたのも、意味あってなのだ。

あなたはその意味を、そして、自分の意義を感じ取っている。

あなたは、あなたの道を正しく歩んでいる。

あなたは出会うべく準備されたものを、手にしている。

光のコミュニティは建設される。

より多く、輝くものよ、より多くを手に入れるものよ。

我らはあなたたちを迎え入れる。

     

ありがとうございました。

あなたの魂が光にあふれるものであるよう

祈りとともに念ずる   編集時に聞こえた声とともに

天卜占

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湯布院にて 泰山木の花

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絶対者=自分

2009年06月20日 | 天意の実践

例えば、

移動中に、道が混んでいたりすると、別な道はないかと考える。

そして、バイパスを行ったり、脇道を探したりして、走行する。

ところで、バイパスを走ったあなたと、脇道を走ったあなた。

どちらが早く目的地に着いただろうか。

答えは、わからない。

    

仮にバイパスをAとし、脇道をBとしたとき、

バイパスを行った、あなたaは

Aの地点にのみ存在している。

脇道であるBに、あなたaは存在しない。

もちろん、あなたbがいるなら、比べられるかも知れないが、

a=bではないのだから、=ではない。

ということは、この世界の自分とは、オリジナルな存在しかいない。

この世界の自分とは、絶対支配者の自分でもあるのだよ。

     

師匠がこんな話をしてくれた。

そう考えると、また、新たな視点が開けてくる。

ひとはつねに選択をしている。たいてい、右か左か。

これを使う。使わない。選ぶ。選ばない。

などなど。

けれども、選んだ瞬間、選ばなかったことは存在しなくなる。

よく、あのとき、選択しなければ、と思っても、どちらがいいかなんて、

それは、誰にもわからない。

ということだ。

あなたの選択に、あなたの体感に、わたしたちは介入しない。

あなたが、あなたの世界の絶対者なのだ。

   

追記

加筆しました。

    

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畏れる 敬う 畏敬の念

2009年06月17日 | 天意の実践

畏れるとは、どういう状態なのか。

何かを恐れるのだが、かしこまり恐れる。

畏れ多い相手とは、誰なのかが、わかるだろうか。

畏れ多い感覚は教えてもらうものなのか、などと考えていた。

情報断食以前の問題な師匠の最近のドラマ観は、ほとんど実も

蓋もない。テレビドラマを観ていて、楽しくないという。

ドラマに限らず、視点に謙虚さがないから、見ていて疲れるという。

謙虚でいるということも、教えられるものなのだろうか。

否、概念として、教え、あとはそれこそ、体感でわかるしかないの

かもしれない。

自然の中で、ひとは、畏れ多い存在を感じ取り、自然の力に、時に

無力感を感じ、謙虚に自然とつきあう術を得ていた。

それは、かつてはーと言っておこう。

合理的なものを好み、求め、突き進んだ現代では、自由に各々の

ポイントがあり、何かを追求して、今の地に存在している。

けれども、なにが合理的かと思うような、非効率なポイントに迷い込み

不確かな世界を構築している。

厳密な合理性。

それは、自然の中で、そのつながりに生かされつつ、活かしつつ

追求するものなのだ。

人の生活の根幹である、『食』はそれを如実に表している。

海の恵みも、山の恵みも、わけていただいているという、畏敬の念と

謙虚さをもってみると、ありがたいというこころもわかるだろう。

有難い。恵みとはなんと有難いものか。

自分ひとりで生きているわけではないのだから、合理的に思う。

すると、自然、畏敬の念も謙虚も、ココロに浮かびあがることだろう。

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個人的なことですが

2009年06月15日 | お知らせ

6月14日は私、臣の誕生日でした。

師匠より、一足早く、50歳になりました。

お祝いのメールや、プレゼントをくださったみなさん、ありがとう

ございました。

新たな一年の始まりです。これからもよろしくお願いします。

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