母が久し振りに外を歩きました。

2021年10月29日 22時58分01秒 | 介護

 昨夜は眠くて眠くて途中うたた寝をしてしまっていましたので、ブログアップが0時直前だったのではないかと思います。

それから、皆さんの記事で拝見出来ていない方の読ませて頂いたりしていたら1時になりました。

起きたのは5時半。

まだ暗いので、皆さんのブログを拝見しているうちに夢うつつだったようで気が付いたら6時半

急いで、1周だけ歩きに行きました。

 

今日の最高気温は20.4℃、最低気温は8.2℃でした。

 

朝晩は冷えますが、日中は太陽の下に出ると暑い位。

季節が二分化しているような最近の気候の中で、秋を感じる日々です。

 

我が家のバラ

「パパメイアン」と「プリンセス・ドゥ・モナコ」

 

「ラ・マリエ」

この真紅の「サムライ」

虫が食べてこんな状態に・・・

昨年は見事に咲いたのですが。

昨年はこんなに見事に咲きました。

 

 今朝の果物

昨日、友人が蒜山でメロンを買ってくれました。

完熟なので早めに食べなくてはいけません。

とっても美味しいです

お昼は真っ青な空に白い

今日も日中はとても暖かく、家よりも外の方が暖かかったので看護師さんが1時半に来て下さった時、あまりにも暗かった母を促して外に連れ出して頂きました。

母は久し振りに外に出て歩行器を使って少し歩き、その後、母の部屋の前のベンチに座ってしばし日光浴。

そのせいか、すっかり明るくなりました。

足もバタつかけて運動まで始めました。

昨年はまだ公園を歩けていたようです。

又、母とケアマネさんと看取りの話もしていたようです。

こちら

最近の目標が「秋になったら、シルバーカーを押してお散歩に行く」でしたので、ほんの少しの距離でしたが、外を歩くことが出来て私も本当に嬉しかったです。

 

 

 今日は母が「夜寝るのが怖い」と言いました。

「過呼吸になるから」と。

リハの方がいらした時にはまだいい笑顔を見せていましたが、又、帰られる頃には暗い表情になりました。

リハの方が「寝る前に頓服をしばらく落ち着くまで飲んだ方がいいかもしれない」と言われました。

昨夜も私が寝た後、苦しくなったようです。

施設のことを考えているのか聞いてみましたが、そうではないと言いました。

でも、やはり段々と弱って食べられなくもなっていますので、落ち込んでいるようです。

 

 

 

 昨日、蒜山で買ったり買ってもらったものの一部

 

 

今日は看護師さんとリハの方にコーヒーと蒜山のパンをお出ししたのですが、蒜山大根やキャベツも分けて持って帰って頂きました。

皆さん、二人暮らしか一人暮らしなので、丸ごと1本や1個は多過ぎるのです。

 

 

 

昨年の10月19日には少女時代の懐かしい詩を見つけて書いていました。

 

どこかに
クリスティーナ・ロセッティ
 
 
どこかに かならず いらっしゃる
わたしの愛にこたえて下さる方が
そのお顔 お声は知らないが
知らないままで終わるかも
しれないが
 
 
どこか もしかすると 遠いところ
陸の果て 海のつきるところ
めぐる月 夜ごと輝く星の向うに
その方はいらっしゃるかも
しれないが
 
 
どこか ひょっと近いところ
垣根ひとつへだてた向うにいらして
美しい芝生に冬の名残り葉の散ると
共にどこかへ消え去ったのかも
しれないが
 
 
高見 順 ・訳
世界を代表する詩人の愛の詩集。
 
 
イギリスの詩人
クリスティーナ・ジョージナ・ロセッティ
1830年12月5日 - 1894年12月29日
 
 
 
Somewhere or Other
 
BY CHRISTINA ROSSETTI
 
 
Somewhere or other there must surely be
The face not seen, the voice not heard,
The heart that not yet—never yet—ah me!
Made answer to my word.
 
Somewhere or other, may be near or far;
Past land and sea, clean out of sight;
Beyond the wandering moon, beyond the star
That tracks her night by night.
 
Somewhere or other, may be far or near;
With just a wall, a hedge, between;
With just the last leaves of the dying year
Fallen on a turf grown green.
 
 
 
 

 

 

 

昨日の友人が勧めてくれたこの本を注文しました。

「スタンフォードの脳外科医が教わった人生の扉を開く最強のマジック 」
ジェームズ・ドゥティ  (著), 関 美和 (翻訳)

 

 

 

 

 

★致知一日一言  【今日の言葉】

 

名作とはどんな本のこと? ~今週は読書週間~

読み終わった時に
余韻や疑問が残る。
それを持ち続けて、
その都度回答を求めながら
成長できる。
それが名作

――――――――――
西澤真美子
(坂村真民記念館館長補佐[学芸員])
――――――――――

 

 

 


★エドガー・ケイシー

 

今日(10月29日)の珠玉のリーディングをお届けします。


あなたが出会うすべての人が、あなたに出会ったことで、あなたに話しかけたことで、もっと幸福になるようにしなさい。あなたは喜びを広げることで、これを実践することができる。

Let everyone that you meet be happier for having met you, for having spoken to you.
This ye can do by spreading joy.

(3416-1)

 

 

 

 

 

★バラ十字会 メールマガジン(毎週金曜日)

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。


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下記の公式ブログで読むと、話題に関連する画像を見ることができます(下記のリンクをクリックしてください)。

https://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M842482&c=3304&d=ed84

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朝晩がすっかり寒くなり、紅葉の便りもあちこちから聞かれるようになりました。


いかがお過ごしでしょうか。



私の友人で作編曲家をしている渡辺さんから、人間の自由意志についての文章が届きましたのでご紹介します。

▽ ▽ ▽

『人間は本当に自由か』

渡辺篤紀



■人間の自由意志とは


「人間には自由意志があり、様々なことを自由に選択することができる」


おそらく、このことに異論を唱える方は、ほとんどおられないと思います。


では、人間の「自由意志」とは実際にはどのようなものなのでしょうか?


何事も、自分で自由に選択していると思っていたとしても、本当にそうなのでしょうか?



■選択するということ


例えば、自分の好みのコップとして、「赤いコップ」と「青いコップ」のどちらかを選ぶとき、そのような場合でも、何らかの思考によって選択を行っています。


そして、自身の思考によってどちらかのコップを手に取るのですが、このときの判断を論理的に説明することはできません。


「赤が好きだから」という理由で選んだ場合、「なぜ赤が好きなのか」ということについて、その根本の理由は、論理的に説明することができません。



「よくわからないが赤が好きだから」や「直感で赤がいいと思ったから」などという答えはできますが、「なぜ赤を選んだのか」という本当の理由は、答えることができません。


これは、どのような理由によって、どちらかのコップを選んだとしても同じことが言えます。


たとえ、自身の「論理的な判断」によって選択したとしても、「なぜ、それが論理的なのか?」、「そもそも論理的な判断をしたときの基準を選んだ理由は?」などと突き詰めて考えると、それを選択した理由を論理的に説明し尽くすことはできません。



■機械的な思考回路


では、コンピューターなどのプログラムではどうでしょうか?


この場合、「Aの場合は赤」、「Bの場合は青」というように、様々なパターン(ロジック)によってどちらかを選択するようにプログラムされます。


そして、その判断結果は、同じシチュエーションの場合、異なることはありません。


例えば、「1+1=2」とプログラムした場合、「1+1=0」や「1+1=3」となることはありません。



■人間の思考回路


このような機械的な思考回路の場合、最初にプログラムされたならば、それが変更されることがなければ、何度でも同じ答えが出てきます。


言い換えれば、最初に規定された「論理」に沿って、同一の答えが導かれます。


しかし、人間の自由意志(自由な思考)は、論理的には「1+1=2」であるとわかっていても、「1+1=0」を選択することができます。



正誤の判断ではなくても、「Aを買おうと思っていたのに、Bを買ってしまった」、「いつも決まった時間の電車に乗っているが、今日は一本後の電車に乗った」など、毎日のルーチンが決まっている(決めている)ことさえも、その日の気分によって変えることができます。


これは機械と人間の決定的な違いであり、機械は論理的に導き出した答えを自分自身で覆すことはありません。


しかし人間は、論理的に導き出したはずの答えであっても、自分自身の判断により最終的に覆すことができます。



しかし、そうではあっても、先ほどご説明したように、「なぜ変えたのか?」、「なぜ変えなかったのか?」ということについて、「直感」という言葉を持ち出すことはできても、その根本原因を説明し尽くすことはできません。

■論理的な思考回路=機械的な思考回路


では、この説明することができない「ブラックボックス」のような自由意志(自由な思考)を論理的に説明できたとしたら、どうなるでしょうか?


もしそのようなことができるとすれば、私たちの意識は「論理的な思考回路」を超える働きができないことになり、「機械的な思考回路」と同じ働きだけができることになり、本当の自由意志はなくなってしまいます。


普段、私たちは、意識という領域(意識下)において自由に物事を選択しているように思っていますが、実際には、その一段上にある「ブラックボックス」のようなものの促しによって、意識を利用して行動しているとも考えられます。



しかし、もしもこの「ブラックボックス」の回路が論理的に解明されたとしたら、それはもう自由意志とは呼べず、プログラムに沿って判断するのと同じになってしまいます。


ですから自由意志とは、この「ブラックボックス」が、論理的な意味で完全に「ブラックボックス」でなければ、自由であるとは言えないことになってしまいます。



■ブラックボックスの正体
では、意識の一段上にある、この「ブラックボックス」のようなものは、一体何なのでしょうか?


私は、「魂」や「ソウル」(soul)と一般的に言い表されているものの働きではないかと思います。


ただ、これはまだ科学的に立証されている存在や働きではありません。



しかし、人間の意識を考えた場合、唯物論的な考え方ではどうしても説明のつかない領域(ブラックボックス)が存在するような気がします。


そして、もしもこの領域を否定してしまった場合、人間の自由意志とは、まったくの幻であるというような逆説が生じるように思われます。


人間は、この「ブラックボックス」のような「魂」の領域を、昔から直観的に理解していたようにも思われます。



例えば、

・魂が震える

・魂の琴線に触れる

・魂が呼び合う


などの表現は、慣用的にも使われ、皆さんもよく実感されると思いますが、この「魂」を「日常意識」に置き換えたとしたらどうでしょうか?



・日常意識が震える

・日常意識の琴線に触れる

・日常意識が呼び合う


どうにも、しっくりきません。(笑)



ですから、私たちは、普段から「日常意識(顕在意識、客観的意識)」というものの一段上にある「魂(ソウル)」というものの存在を、認める、認めないにかかわらず、経験的に知っているのではないかと思われます。



最後に、魂に関する、有名な詩をご紹介したいと思います。



『完全なるもの』


   ただそれら自体だけが、それら自体を、

   そして、それら自体の同類を理解する、

   ちょうど魂だけが魂を理解するように

(ウォルト・ホイットマン『草の葉』より)

(原文)

"Perfections"

Only themselves understand themselves and the like of themselves,

As souls only understand souls.

△ △ △

ふたたび本庄です。


前回、スピリチュアルという言葉が、かなりあいまいな意味に用いられていることがあるということを下記の参考記事でご紹介しましたが、「科学的」という言葉もまた、あいまいな意味や、さまざまに異なる意味で用いられていることがあります。


参考記事:『スピリチュアルとスピリチュアリティ』

https://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M842483&c=3304&d=ed84



そのひとつとして、最もよく用いられているであろう「科学的」の意味は、「再現することのできる実験で、確かめることのできる事柄」というような内容だと思います。



これはおそらく、19~20世紀に急速に発展した物理学を応用した産業技術によって、私たちの生活が豊かで便利になったことの影響でしょう。


この意味で「科学的」であるということは、とても限定的であり、ほんのわずかな分野にしかあてはまりません。


歴史学や考古学などのほとんどの人文科学も、経済学なども、条件を統一した実験ができないため、この意味では科学的でないことになります。



また、人間の心は生まれたときから多様であり、周囲の状況も個人個人で異なり、統一した実験を行うことができず、厳密に言えば、先ほどの意味で科学的に研究することはできません。


21世紀前半の現時点においては、「科学的である」ということと「真実である」ということが、ほとんど同じ意味だと多くの人が思っていますが、よくよく考えて見ると、このことにはさまざまな問題が含まれています。


今回の渡辺さんの文章には、この問題が間接的に指摘されていたように私には思えます。


参考記事:『科学的なことと非科学的なこと- アインシュタインと神秘学』

https://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M842484&c=3304&d=ed84



下記は前回の渡辺さんの文章です。


『意識と魂はどこにあるか』

https://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M842485&c=3304&d=ed84



それでは、今日はこの辺りで。


またお付き合いください(^^)/~


◇◇◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆◇◇

■編集後記

ピラカンサという植物だそうです。

https://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M842486&c=3304&d=ed84

◇◇◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆◇◇



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