三日月ノート

日々の出来事を気ままに。

裁判員裁判は機能しているのか?

2018年03月23日 14時20分54秒 | 思い
既にSNSでも話題になっていますが・・・。

「13歳のときから義父による性的虐待を受け続け、産んだ赤ちゃんに手をかけるまで追い込まれた女性に実刑判決」

新潟地裁で開かれた裁判員裁判の判決です。

詳細はリンク先のニュースを参照していただきたいのですが、心が痛むという言葉では片付けられないほどの内容です。

リンク先では事件の内容と、判決の内容にしか言及されていませんが、裁判員と裁判官がどのような評議を経てこの判決に至ったのかが非常に気になるところです。

今回の事件であらためて「裁判員制度」について調べてみたのですが、通常、裁判官3名と裁判員6名で評議が行われるそうです。
また、最終的な判決には必ず裁判官1人以上が多数意見に賛成していることが必要だそうです。

つまり今回のケースでは、裁判員の多数が実刑判決を望み、それを1名以上の裁判官が支持したということになるでしょう。

裁判員裁判の一つの目的とて、「法律の専門家ではない裁判員の経験、感覚を裁判に生かす」というものがありますが、確かにそれは必要なことでしょう。

しかし私はこの「裁判員制度」自体が、日本人には馴染まない(というよりも、今の段階の日本人には無理な)制度ではないかと思うのです。

裁判員制度についてのサイトでは、「評議において裁判官と対等の立場で議論をし、お互いに自分の意見を述べるとともに、お互いの意見をよく聞いて、議論を尽くして、被告人が有罪か無罪か、有罪の場合はどのような刑にするかを決める」のがその役割だそうですが、これまで私が経験した会社員生活の中で、

「対等の立場で議論をし、お互いに自分の意見を述べるとともに、お互いの意見をよく聞いて、議論を尽くす」ということを、ミーティングでしっかりできる人(日本人)をほとんど見たことがありません。

大手外資系企業で地位や男女関係なく自由に意見を言える雰囲気があっても、他人と違った意見を言うのを躊躇したり、忖度したり、まぁ要するに目立つことをなるべく避けようとする人がほとんどでした。

SNSでは強気で発言する人も、十数名が参加するミーティングで多数とは異なる意見をハッキリと主張できる人はどのくらいいるでしょうか。

まして裁判員裁判のように、他人の人生に大きな影響を与える場において、そういった人が「裁判官と対等の立場で議論」することなどできるのでしょうか?

声の大きい人の意見に従ったり、多数意見に流されたり、裁判官のちょっとした言葉から忖度して意見を述べたり、となる恐れはないのでしょうか?

そもそも通常の社会においても「議論」ができず、反対意見を自分に対する「否定」と捉えて感情的になったり、理論的に物事を考え意見を主張することが苦手な日本人に、理想とする裁判員制度を運用することはできるのでしょうか。

裁判員制度のウェブサイトには「チームの全員が一体となって、真剣に議論した結果であれば、妥当な結論に至ることができるはずです。」と書いてありましたが、このような結果を得るためには、例え自分以外の人間が、自分とは異なる意見を持っていたとしても、自分の意見をしっかりと伝えることができる、成熟した人間が参加する必要があるのではないでしょうか。

今回の判決には多くの批判が集まっていますが、他人に流されず忖度なしで多数決によってこのような結果が導き出されたのであれば、それはそれで言い様もない冷たさを感じますし、そうではなく、少なくとも執行猶予付きが妥当ではないかと思っていても、それが言い出せなかった人がいるとするなら、今後もこのような事が繰り返されるのではないでしょうか。


最新の画像もっと見る