天地公道(人生の処方箋)

私達人も天地自然に生かされて、
人力を尽くし、自分の運命を切り開きましょう!

3/8 最高の愛

2019-03-10 20:20:03 | 信仰


31・3・8、愛と信仰 [愛とは]

御神尊様は、よく『愛を語れば、1日あっても足らない、』と言われていました。
そこに『20年の御行と、70年の人生』を人間の苦悩と向き合われた、深い慈愛を感じるものです。

[愛とは]の意味するところは、人間関係において、
❶合うこと ❷合わせること ❸ひとつになること ❹切れないこと ❺離れないこと ❻偕に助け合うこと
❼仲良く睦まじくすること ❽理解の誠を捧げ合うこと ❾清濁併せ呑む生活に終始すること。
と、教えています。

簡単に表現すれば(夫婦親子はもとより、すべての人とひとつになり、時として切れて離れようとする心を、努力で繋いでいくのが愛)といわれます。

なかなか、難しいことですが、これをやらなければ、運命転換は、絵に描いた餅となってしまうのです。

『相手の気持ちを、汲み取り』『善いことも、悪いことも、これを呑み込む』
このところまで、くることができれば『最高の愛の生活』というものです。

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3/7 早変わり名人

2019-03-10 19:58:48 | 運命の原理


31・3・7、人間の特性
[人間は、生まれながらにして、早変わりの名人なり]

これほどわかりやすい運命の真相を、知らなかった方がいます。
神は常に、無差別平等です。老若男女、善悪、貧富、身分の上下にかかわらず『生まれながらに、心の早変わり名人』です。その名人芸を発揮すれば、たちどころに、誰でも『運命転換できる』のです。

これは、親に教えられたものでなく、人に学んだものでもありません。本来人間に備わっている力です。ところが、これの使い方は、上手下手があります。

『思ってはならない』『言ってはならない』『してはならない』と、わかっていながら、実行が伴わず、自ら、不幸病気の奈落に落ちてしまう事があります。

このような時こそ、『精神的早変わり〜気の切り替え』
『心の切り替え』を知っているのに、貴方がそれを使わなかったら、運命的苦を、自ら招いたことになります。

今こそ一刻もはやく、変わらねばなりません。
事情は関係ありません。それは、いったん棚上げです。
明日とはいわず、今日。
それも、たった今。
その早変わりによって、即座、即決、運命を転換するのです。
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3/6 無礙

2019-03-10 19:49:32 | 信仰


31・3・6、革新的ー神観 [神は人間の自由を望み給う]

御神尊様の悟りは、井戸を覗いて、その深さに呑まれそうになるようなものです。
善隣の道を、歩けば、歩くほど、切実に身にしむところですね。
つまり、私たちは神の前で、自由だということになります。
この道(このみ教え)は自由に満ちているのです。

『運命の鍵は、神仏に握られている』という、今までの考え方を、スパッと切り替えて、『運命のカギが自分自身の手中にある』のだとの信念を、容易に身に付けることができるのです。

神は、宗教の名の下に、人間を束縛するのではありません。
神の願いは、ただひとつ『人間を差別なく、丸く、穏やかに、自由の世界に、解放する』にあるのです。

キーワードは『無礙(むげ)の2文字』なのです。
この意味は、『心の中に、なんの不満や、差し障りのない』こと。
心の中で何事かを、我慢しているようでは、道を歩む意味がありませんね。

『一見すれば、箇々別々に見えて、みんな心をひとつに繋いで、生きている』それもまた、無礙(むげ)のすがた。
『自由で無礙』つまり『自然の法則に応じて生きる、自由自在の境地』
そこを目標にして、生き生きと人生のキャンパスに充実の絵をえがきましょう!
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3/5 心の目 (まなこ)

2019-03-10 19:42:50 | 信仰


31・3・5、信仰とは [信仰は、さながら水の流れの如し]

流れているから、水は清いのですが、いったん堰き止めれば淀んで、やがて腐敗するようになちます。
信仰も自分だけの喜びにとどめていたのでは、その喜びも冷めるに連れて、いつか喜びは悲しみに変わってしまいます。だからこそ私たちは、助かった喜びに安住するのではなく〈助けて助かる〉という、信仰こそ、水の流れのようにと、表現するのです。

自己満足の幸福健康は、やがて、明日の不安に囚われてきます。
ひとりの幸せに、安心して喜びに浸るわけにはいきません。必ず壁がやってくるからです。

『人のために尽くし』『人を助け、人をみちびき』『人のよろこびを、偕によろこぶ』その心は魂の歓喜というものです。

それは、けして消えることはなく、徳として積まれ、子供、孫の代までに、及ぶものです。
これを水の流れといえましょう。御神尊様は、今日、ただ今の運命に、一喜一憂するのではなく、先の先、末代まで、心の眼(まなこ)を向け、只今の信仰を施愛の実践に捧げよと、いわれます。
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3/4 徳をつむ

2019-03-10 08:09:02 | 信仰
31・3・4、信仰の山

[1日働けば、1日の徳、1ヶ月働けば、1ヶ月の徳ある如く、信仰の山も登れば、登るほど、その徳、我が身に納まりて幸いとなる]

信仰の山を、私たちは登っているつもりなのに、どうも手ごたえを感じることが、ない時があります。
そのような時とは、大きな喜びがなく、淡々と日々を過ごす時ですね。

でも、何か重大な事情が生まれ、それを見事に乗り越えた時の喜びの、充実感に満されたとき、山を実感するのではないでしょうか。言えることは『徳を積むとは、何だろう?』
『人間は一人で生きることはできない』と、昨日触れましたが、人との関係を嫌がらず、お世話をいやがらず、何くれとなく側に寄り添うことが、徳の始まりです。

私は孤独を好んでいましたから、友人は限られ、無口が表に出て、友人たちは、自然に避けて行きまた。
御神尊様は、その私を、家々の玄関に立つように導きました。そしてきずいたら『先祖伝来の、自分のことしか考えない精神の歴史を、清算する道』へと、導いてくださいました。

人様の玄関に立つことで、(無口ではならず)(暗くてはならず)(硬くてはならず)『その修行こそ、見えざる徳であり、山でもあります』

加えて、徳人と言われる人は、敬神崇祖の念も育っていくものです。
その時、その場限りの喜び、に終始することなく『。家族、人様、と、偕に生きる、喜び』を創造していきましょう。







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