同じ会社で働く若手社員を「cheer up」するために、ときどき「夜会」を開いています。
もちろんですが、基本は当方で負担します。まぁ「cheer up」に加えて、こちらが若手の本音を聞きたいためでもあり、そのための「コスト」を負担するのは当然であります。
こうした夜会で、聞き役に回っていると、間違いなく言われるのが「将来が見えなくて不安」という言葉。「将来が不安」の意味は、もちろん「社会情勢の将来が見通せない」という意味だったり、「会社の将来性が分からない」という意味もありますが、最も共通しているのは「自分の将来の姿が見えてこない」ということ。
当然ながら聞き役に回っていますので、「そうだよね、そうだよね」と相槌を打ちながら、もっと本音を、もっと本音を、と聞き出そうとするのですが、さすがに、20代そこそこの若手から「自分の将来の姿が見えてこない」と言われ続けると、
「自分の将来の姿なんて、今から判る筈はないじゃないか!」
とつい声を荒げて言いたくなってしまいます。
人類の歴史が始まって以来、個々の一人ひとりの人生は、はかなく弱弱しいものでありました。大自然の災害や病気あるいは飢えといった理由によって、子供の時期に亡くなるケースが多く、うまく大人に成長できたとしても、戦争などに明け暮れる日々を必死に生き抜くといった世界。だいたい、日本人の平均寿命は、太平の世だった江戸時代ですら40歳に達しておらず、ちゃんと平均寿命が50歳を超えたのは戦後になってようやくのこと。それだけ、病気や戦争で、若くして亡くなる人が数多く存在したということであります。
それが、ここへ来ての医学の進歩や経済の発展、日本においては「歴史上稀とも言える80年間続く平和」のおかげで、平穏に生活できることが当たり前、という感覚が染みついています。それ自体は有難い事なのですが、それを「当たり前の権利」と勘違いしている輩が数多いようです。
平穏で生活できている自らの幸運をきちんと受け止めて、その幸運を活かすも無駄にするも自分次第であることが分かっていない。だからこそ、「自分の将来の姿が見えてこない」などという「他人まかせの言葉」が出てくるのだと思います。
平均寿命が40歳に満たなかった江戸時代に生きていた町民たちが、「自分の将来の姿が見えてこない」と嘆いていたでしょうか。「自分の将来が見えてこない」不安から、貯金ばかりに精を出して、消費や投資を抑制していたでしょうか。
全く逆です。
先が見えないことはむしろ常態であり、だからこそ、今日一日を大切に生きようと「必死に」しかも「楽しく」、人生を謳歌していたのが江戸の町民たちでありました。だからこそ、今の時代にも輝く「歌舞伎」「浮世絵」などの芸能文化や、「江戸前寿司」「鰻の蒲焼」「天麩羅」などの食文化が栄えたのであります。
これを言うと「炎上」必至ではありますが、あえて言わせていただくと、
「将来が見えなくて不安」という人は、自分から変化を起こすことを怖がっている人だと思います。自分から何もしないでいても「老人になるまで平穏に生きる権利がある」と勝手に思い込んでいる人たちです。人類の歴史上で最も恵まれた平穏な環境を生きているにも関わらず、そのチャンスを活かそうとしない人たちです。自分から行動を起こさない理由に「将来が見えなくて不安」と、責任を自分以外に転嫁しているだけ。
少し厳しい言い方になりました。
しかし、ウクライナやガザ地区の若者たちの置かれた状況を見てもまだ、日本の若者の多くが「将来が見えなくて不安」と呟いています。自分の殻ばかりに閉じこもっていないで、もう少し自分たちの置かれた状況を、客観的・歴史的に評価する習慣を身につけるべきだと思います。
誰の人生にも「確定した将来」などは存在しません。
むしろ無限の可能性が広がっているのです。
そして、その無限の可能性を切り開くのは、他の誰でもなく、あなた自身であります。