兄のことがあって、遠い昔のことをよく思い出します。
うちは5人家族でした。
まずは祖母。明治45年生まれで、代々木のB服装学園で教鞭を執る教育者で、明治生まれには珍しい働く女性第1号みたいな人。とても気が強くて、自分の主張を曲げることが大嫌いな性格でした。
そして父。大正15年生まれで、獣医として農林水産省で働く技官でした。本来は、経済学部で勉強して証券会社へ入り、株をやりたかったそうですが、戦争中だったので、医者か獣医を選択するしかなかったようです。この父も頑固な性格で、上司に対しても言いたいことを発言してしまう癖があり、よく地方勤務になって(いわゆる、飛ばされたというやつ)いました。単身赴任が多かった記憶があります。ただし、部下に対しては気配りが効いており、また気前がよかったので人気がありました。正月は、ひっきりなしに部下の方々が挨拶に来ていました。
そして母。昭和2年生まれで、小平の農家出身。根が優しい女性ですが、祖母に鍛えられたせいか、やはり気が強くて、自分の主張はけして曲げない人でした。また、やりくり上手で蓄財の才能がありました。普段はケチなんですが、必要な投資は思い切ってやるという人で、小平でアパート経営をしながら、公務員の安月給を補っておりました。それから、あの時代には珍しく、父とは恋愛結婚でした。小平市に農林水産試験場があって、そこで働いている時に父に出会ったようです。
そして兄。昭和30年生まれで、中学高校は某国立大学附属へ。そして、大学は東京の最高学府の法学部という絵にかいたようなエリート学生。5歳下の弟には優しい兄でしたが、頑固なところは父譲り。損害保険会社に就職してからは、上司に言いたいことを言い過ぎるので、父同様に遠地へ異動が出ることもしばしば。
最後に私。昭和35年生まれで、5人家族の1番下の存在。兄とは5歳離れているので、家族全員から可愛がられるアイドルのような存在として育てられました。という訳で、甘えん坊でお調子者という性格に。父から周囲への気配りを学んだせいか、人と飲み食いする機会が多くて、お金が貯まらない人間になりました。
このような5人家族だったので、貧しいけど、騒がしく楽しい家でありました。思い出される光景は、20型の白黒TVの前に、昔ながらのちゃぶ台があって、TVの正面側には、祖母が座椅子に座ってデンと陣取り、右側に父と母が、左側には兄と私がきちんと座っていて、紅白歌合戦を見ているところ。あの頃は、紅白歌合戦は夜9時に始まる仕組みだったので、小さい私はすでに眠くなっており、眼を開けているのがやっと。
あの頃の日本の主婦の凄さは、大晦日の夜10時になると、さっき「すき焼」食べたばかりなのに、今度は『年越し蕎麦』の準備に入るのです。蕎麦をサッと茹でて、麵つゆも手作りで、紅白見ながら、ズルズル、ズルズル、家族で蕎麦を食べる。
まだ小学生低学年だった自分は、お腹が一杯でとても食べれませんでしたが、健啖家の兄は、食べ盛りだったこともあって、2人前3人前をペロリと平らげていました。(今にして思えば、あの頃の兄に対して、あまり食い過ぎると駄目ですよ、50年後に大変なことが起きますよと、注意喚起したいところでありますが‥)
5人家族の祖母は、平成に入ってすぐに99歳で亡くなりました。父は7年前に89歳で、母は3年前に92歳で亡くなりました。そして、6月に兄が66歳で倒れる事態になり、当時、ちゃぶ台を囲んでいた5人のうち、私だけが、ポツンと1人だけ残されてしまった感覚に‥。
でも、既報のとおり、兄がちゃんと帰ってきました。少し不自由はありますが、意思は明確であり、パソコンなどを活用すれば、コミュニケーションも取れる期待が出来ました。
上記の祖母や父母が、まだ早すぎると、兄を追い返してくれたのだと思います。