![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/ad/d324bda72c0050d040a3def19dd0c264.jpg)
シルクロードは海を渡った正倉院(奈良)が東の終着点ともいわれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/7f/1d829d3c0dec0c2a6110f54f516a22e6.png)
はるか昔、ローマからユーラシア大陸を横断し、さらに海を渡って日本に運ばれた仏像や美術品を見る時、それらが旅してきた道のり想いいをはせずにはいられません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/ad/d324bda72c0050d040a3def19dd0c264.jpg)
正倉院 螺鈿紫檀五弦びわ(らでんしたんごげんびわ)
古代の東西交流においても、中国で生産されるシルクが、ヨーロッパから見て最高に魅力のある貿易商品であったようです。
これに着目して、ドイツの学者が、ヨーロッパから中央アジアを経て中国に至る東西交流のルートを、シルクロード(絹の道)と名づけました。
もとより東西交流は、人、モノ、工芸、宗教など幅広い分野にわたって行われてきました。
古代の日本は、アジア大陸との交渉を通じてシルクロード交流の成果を十分に取り入れつつ、独自の文化を育ててきたと言えましょう。
その意味で、「奈良はシルクロードの東の終着駅」と称しています。
正倉院は、756年、(天平勝宝8)6月21日、光明皇太后が亡き夫、聖武天皇太上天皇(上皇)の遺愛の品々600点あまりを東大寺大仏に献納したことに始まります。
時は太平の盛り、奈良の都はシルクロードを経由してユーラシア大陸各地から人や文物が集まる国際都市だったのです。
正倉院の宝物は奈良に伝えられたアジアの宝物です。
8世紀、唐の都長安は、空前の国際都市として栄えていました。
当時の唐は、現在のアヒガニスタンにまで勢力をのばし、シルクロードを利用して東西交易を営むソグド人商人との交渉が始まり、長安には、西方の文物がさかんに運び込まれるようになりました。
こうした長安の国際化の端緒は、7世紀の半ば、イスラエル帝国によるササン朝王家の人々は長安に亡命し、それに多くの民族が従いました。
そこには、工芸家や職人、樂人も含まれており、長安にペルシャの技術や風俗がもたらせることとなった。
8世紀前半の長安では、ペルシャ風の衣装や化粧、音楽が大流行し、彼らの宗教であるゾロアスター教が信者を集めたようです。
しかし、長安に流れ込む文物は、西方のものだけではありませんでした。
唐の勢力拡大に伴い、新羅や渤海、ベトナムなどユーラシア大陸諸国が遣唐使を派遣し、献上品を持込んだからです。
諸国は、唐の朝貢する見返りに、宝物を受け、先端の経済機構・法整備・文化の摂取に努めたのです。
701年(大宝1)、日本も遣唐使の派遣を32年ぶりに再開します。
長安との間に敷いたこのパイプラインは、その約10年後に始まる平城京にユーラシア各地の物や人を送り込みました。
長安のさらに東、ユラーシア最東端に位置する平城京は、まさに、シルクロードの終着駅だったのです。
ギリシヤの壷を見たとき、どこか懐かしい気がしたのは気のせいではなかったのですね・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/b0/236b69d18194762fe272db62fc2a477d.jpg)
ボストン博物館蔵 古代ギリシヤの壷
(*正倉院展には関係ありません)
今月24日~(11月12日)開催される恒例の正倉院展をご覧になりながら、シルクロードに想いを馳せつつ、脳内トリップをお楽しみください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/64/c41f703e7cf21e3e2fb98b14e352046d.jpg)
コチラは奈良シルクロード交流館展示品の壷です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/7f/1d829d3c0dec0c2a6110f54f516a22e6.png)
はるか昔、ローマからユーラシア大陸を横断し、さらに海を渡って日本に運ばれた仏像や美術品を見る時、それらが旅してきた道のり想いいをはせずにはいられません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/ad/d324bda72c0050d040a3def19dd0c264.jpg)
正倉院 螺鈿紫檀五弦びわ(らでんしたんごげんびわ)
古代の東西交流においても、中国で生産されるシルクが、ヨーロッパから見て最高に魅力のある貿易商品であったようです。
これに着目して、ドイツの学者が、ヨーロッパから中央アジアを経て中国に至る東西交流のルートを、シルクロード(絹の道)と名づけました。
もとより東西交流は、人、モノ、工芸、宗教など幅広い分野にわたって行われてきました。
古代の日本は、アジア大陸との交渉を通じてシルクロード交流の成果を十分に取り入れつつ、独自の文化を育ててきたと言えましょう。
その意味で、「奈良はシルクロードの東の終着駅」と称しています。
正倉院は、756年、(天平勝宝8)6月21日、光明皇太后が亡き夫、聖武天皇太上天皇(上皇)の遺愛の品々600点あまりを東大寺大仏に献納したことに始まります。
時は太平の盛り、奈良の都はシルクロードを経由してユーラシア大陸各地から人や文物が集まる国際都市だったのです。
正倉院の宝物は奈良に伝えられたアジアの宝物です。
8世紀、唐の都長安は、空前の国際都市として栄えていました。
当時の唐は、現在のアヒガニスタンにまで勢力をのばし、シルクロードを利用して東西交易を営むソグド人商人との交渉が始まり、長安には、西方の文物がさかんに運び込まれるようになりました。
こうした長安の国際化の端緒は、7世紀の半ば、イスラエル帝国によるササン朝王家の人々は長安に亡命し、それに多くの民族が従いました。
そこには、工芸家や職人、樂人も含まれており、長安にペルシャの技術や風俗がもたらせることとなった。
8世紀前半の長安では、ペルシャ風の衣装や化粧、音楽が大流行し、彼らの宗教であるゾロアスター教が信者を集めたようです。
しかし、長安に流れ込む文物は、西方のものだけではありませんでした。
唐の勢力拡大に伴い、新羅や渤海、ベトナムなどユーラシア大陸諸国が遣唐使を派遣し、献上品を持込んだからです。
諸国は、唐の朝貢する見返りに、宝物を受け、先端の経済機構・法整備・文化の摂取に努めたのです。
701年(大宝1)、日本も遣唐使の派遣を32年ぶりに再開します。
長安との間に敷いたこのパイプラインは、その約10年後に始まる平城京にユーラシア各地の物や人を送り込みました。
長安のさらに東、ユラーシア最東端に位置する平城京は、まさに、シルクロードの終着駅だったのです。
ギリシヤの壷を見たとき、どこか懐かしい気がしたのは気のせいではなかったのですね・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/b0/236b69d18194762fe272db62fc2a477d.jpg)
ボストン博物館蔵 古代ギリシヤの壷
(*正倉院展には関係ありません)
今月24日~(11月12日)開催される恒例の正倉院展をご覧になりながら、シルクロードに想いを馳せつつ、脳内トリップをお楽しみください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/64/c41f703e7cf21e3e2fb98b14e352046d.jpg)
コチラは奈良シルクロード交流館展示品の壷です。
正倉院展は私の年中行事の1つです。今年ももちろん行きますよぉ(しかも平日に休みを取って)。
ここ数年行っている正倉院展。私はいつも1人でトコトコ行きます。と言うのもこういった展覧会に誰かと行くと、どうしても気を使ってしまうからです。でも1人だと自分のペースでゆっくりと見学できる。だいたい2時間から3時間くらいかけるかなぁ。
で、終わった後は馴染みのうどん屋で天ぷらうどんを頂きます。これが私の正倉院展です。今から楽しみやねぇ。
しかし、お1人でお忍びとは。
うどんは奈良のびっくりうどんですか?^^