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シルクロードの終着駅~正倉院展

2006-10-12 23:26:37 | ○ すろ~ 奈良 ○
シルクロードは海を渡った正倉院(奈良)が東の終着点ともいわれています。





はるか昔、ローマからユーラシア大陸を横断し、さらに海を渡って日本に運ばれた仏像や美術品を見る時、それらが旅してきた道のり想いいをはせずにはいられません。





     正倉院 螺鈿紫檀五弦びわ(らでんしたんごげんびわ)





古代の東西交流においても、中国で生産されるシルクが、ヨーロッパから見て最高に魅力のある貿易商品であったようです。

これに着目して、ドイツの学者が、ヨーロッパから中央アジアを経て中国に至る東西交流のルートを、シルクロード(絹の道)と名づけました。
もとより東西交流は、人、モノ、工芸、宗教など幅広い分野にわたって行われてきました。


 古代の日本は、アジア大陸との交渉を通じてシルクロード交流の成果を十分に取り入れつつ、独自の文化を育ててきたと言えましょう。
その意味で、「奈良はシルクロードの東の終着駅」と称しています。


正倉院は、756年、(天平勝宝8)6月21日、光明皇太后が亡き夫、聖武天皇太上天皇(上皇)の遺愛の品々600点あまりを東大寺大仏に献納したことに始まります。

時は太平の盛り、奈良の都はシルクロードを経由してユーラシア大陸各地から人や文物が集まる国際都市だったのです。


正倉院の宝物は奈良に伝えられたアジアの宝物です。
8世紀、唐の都長安は、空前の国際都市として栄えていました。
当時の唐は、現在のアヒガニスタンにまで勢力をのばし、シルクロードを利用して東西交易を営むソグド人商人との交渉が始まり、長安には、西方の文物がさかんに運び込まれるようになりました。


こうした長安の国際化の端緒は、7世紀の半ば、イスラエル帝国によるササン朝王家の人々は長安に亡命し、それに多くの民族が従いました。

そこには、工芸家や職人、樂人も含まれており、長安にペルシャの技術や風俗がもたらせることとなった。
8世紀前半の長安では、ペルシャ風の衣装や化粧、音楽が大流行し、彼らの宗教であるゾロアスター教が信者を集めたようです。

しかし、長安に流れ込む文物は、西方のものだけではありませんでした。

唐の勢力拡大に伴い、新羅や渤海、ベトナムなどユーラシア大陸諸国が遣唐使を派遣し、献上品を持込んだからです。

諸国は、唐の朝貢する見返りに、宝物を受け、先端の経済機構・法整備・文化の摂取に努めたのです。

701年(大宝1)、日本も遣唐使の派遣を32年ぶりに再開します。
長安との間に敷いたこのパイプラインは、その約10年後に始まる平城京にユーラシア各地の物や人を送り込みました。


長安のさらに東、ユラーシア最東端に位置する平城京は、まさに、シルクロードの終着駅だったのです。


ギリシヤの壷を見たとき、どこか懐かしい気がしたのは気のせいではなかったのですね・・。





    ボストン博物館蔵 古代ギリシヤの壷
    (*正倉院展には関係ありません)


 今月24日~(11月12日)開催される恒例の正倉院展をご覧になりながら、シルクロードに想いを馳せつつ、脳内トリップをお楽しみください。






   コチラは奈良シルクロード交流館展示品の壷です。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お久しぶりの (にきゅ)
2006-10-13 22:40:40
にきゅです。ども。



正倉院展は私の年中行事の1つです。今年ももちろん行きますよぉ(しかも平日に休みを取って)。



ここ数年行っている正倉院展。私はいつも1人でトコトコ行きます。と言うのもこういった展覧会に誰かと行くと、どうしても気を使ってしまうからです。でも1人だと自分のペースでゆっくりと見学できる。だいたい2時間から3時間くらいかけるかなぁ。



で、終わった後は馴染みのうどん屋で天ぷらうどんを頂きます。これが私の正倉院展です。今から楽しみやねぇ。
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Re: (ann)
2006-10-15 14:33:33
国王さま>やはり、他国との交流、異文化体験というのは国王さまにはかかせない行事なのですね。メモメモ・・

しかし、お1人でお忍びとは。



うどんは奈良のびっくりうどんですか?^^

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