世界中の人・文化と出会えるANN'S WORLDへようこそ

ただいま「病は気から~1日1分から始められる免疫力アップ+
アンチエージングの100のステップ」 ご紹介中♪

元興寺地蔵盆のゆうべ

2008-08-24 20:05:38 | ○ すろ~ 奈良 ○
今年もきてます。
世界遺産でありながら、地域の人たちの地蔵盆で賑わう元興寺。






昼間はならまち界隈のお店(由庵はまだ未熟につき入ってませんが…)
の出店でおなかをはっぴぃに。
そして夕暮れから浮図田にて灯りの演出と琴、尺八の奉納演奏で
夏の締めくくりです…


その最後は読経と音楽の不思議な曼陀羅の世界に…





もちろん、その後元興寺目の前の酒屋さんで立ち飲みを
お楽しみ♪
海外からのゲストたちも、大吟醸の魅力のやられちゃった
ようです・・。



ならまちで文化と歴史に出会えるカフェ
NARACAFE 由庵
http://www.naracafe-youan.com

Tour of Japan in 奈良

2007-05-21 23:47:39 | ○ すろ~ 奈良 ○
ご存知の方もいらっしゃるかな?
今日は奈良、東大寺からTour of Japanが出発、布目ダムで
レースが開催されました。


ann自身、テレビのない生活をしているため、まったく知らずに
今朝を迎えたのですが、世界から選手が集まった東大寺南大
門前は活気にあふれてました。








選手たちのサングラスの中の真剣な目がほころんだ瞬間。



これから約20kmの道のりをレース会場となる布目ダムまで
アップをしつつ・・それが30分ほどで到着してしまうと
いうんですから、車並みです。







そういえば・・と、由庵オープン前に出会ったオランダ人の
旅行者を思い出しました。
オランダから出発して中東、中国を経て日本(で寄り道?)、
台湾から東南アジア、最終目的インドネシアはバリへ。
オランダを2005年8月に出て、ようやく今月初めにバリについた
というツワモノ(ヒマジン?!)。


スポーツってなんでもそうかもしれませんが、”意味”を
考えるとできないことかもしれません。
なぜ自分を追い込んでまで勝とう、もしくは達成しよう
とするか・・。


便利になってなんでも不自由ない世の中になったからこそ
発展したもの、よくなったものはたくさんあるかもしれま
せんが、心の満足ってもっと手に入りにくいものなのかも
しれません。






ならまちで文化と歴史に出会えるカフェ
NARACAFE 由庵
http://www.naracafe-youan.com


庚申さんの身代わり猿

2007-01-30 22:51:19 | ○ すろ~ 奈良 ○
ならまちのシンボル・・といえばコレ、ですょね。


奈良町の家の軒先には赤いころころした、人型のぬいぐるみが
ぶら下がっています。これは、「庚申(こうしん)さん」のお
使いの猿を型どったお守りで、魔除けを意味し、家の中に災難
が入ってこないように吊るされています。災いを代わりに受け
てくださる意味から、「身代り猿」とよばれているならまちの
守り神です。


また、背中に願い事を書いてつるすと、願いが叶うといわれ
「願い猿」ともいわれます。


ならまちの真ん中にある奈良町資料館には、「庚申さん」とよば
れる青面(しょうめん)金剛像がまつられています。

江戸時代に民間信仰として庶民にひろがった中国の道教の教えを
説く庚申信仰によると、人の体の中に三尸(さんし)の虫がいて、
庚申の日の夜に人が寝ているあいだに体から抜けだし、天帝にそ
の人の悪事を告げにいくといわれています。 その報告により寿命
が決まるというので、人々は六十日に一度回ってくる庚申の日は、
寝ずに「庚申さん」を供養したということです。

 徹夜の習わしはなくなったが、身代り猿をつるし、庚申さんを
まつる信仰は、今もこの町に息づいています。


「庚申信仰」に関しては諸説がありますが、中国の道教の守庚申と
いうのが、奈良末期に日本に伝来され、日本固有の信仰と交じり合
い発展したのではないかといわれています。仏教が極楽往生を説く
のに対し、道教では現世利益が叶えられるとあって江戸時代には民
間信仰として庶民に広まりました。奈良町資料館にも青面金剛像
(しょうめんこんごうぞう)をまつり、庚申信仰が受け継がれてい
ます。


「庚申さん」と親しみを込めて呼ばれている「庚申」とは「かのえ
・さる」つまり十干(甲乙丙・・)と十二支(子丑寅・・)の組合
せによるもので、昔は月日をこのようによびました。その組み合わ
せは60通りあり、60日に一度めぐってきます。


「庚申」の日の夜には人々は寝ずに一夜を明かす守庚申を行います。


言い伝えによると、人のお腹のなかには「三尸の虫」という虫がい
て、庚申の日の夜に人々が寝静まってから体からぬけだし、その人
がしてきた悪事を天帝に告げにいくといわれています。すると、天
帝が天の邪鬼に命じてその人に罰を与えるので、人々は三尸の虫が
ぬけださないように寝ずに過ごしたというわけです。

それでも心配な人は天の邪鬼が嫌いな「身代り猿」を家の中に吊
るしたり、三尸の虫の嫌いなコンニャクを食べて悪魔を退散させる
のです。

「庚申まつり」には、コンニャクを食べる習わしがあり、奈良町
資料館では3000人分ものコンニャクの田楽を参拝者にふるまわれて
きました。しかし、2005年の夏に猛威をふるった病原性大腸菌O157
の影響で、「庚申まつり」は中止せざるを得なくなりました。

「身代り猿」のルーツは敦煌にあり、シルクロードを通って奈良
にきたのではないかと注目されています。
1987年に奈良県立美術館でイギリスの「大英博物館所蔵日本・中
国美術名品展」が開かれた時のことです。展示品 の一つに、敦煌
石窟の祭壇等にかける祭具として使われた唐代の垂れ幕(縦51m、
横l83cm)に、「庚申さんの身代り猿」と同じものがついていたの
です。手足をくくり、お腹に帯をしているところまで「身代り猿」
とそっくりで、新聞やテレビで放映されました。


中国では猿は悪魔退散のお守りと考えられて、三蔵法師も旅の道
中のお守りに猿のぬいぐるみを馬の鞍につけていったといわれて
います。
それが後世には、法師をお守りする孫悟空の物語になったと伝え
られています。


飛鳥時代、奈良時代、奈良は中国からの文化交流の拠点だったん
ですね。
その時代、今よりもっとインターナショナルだったのかも・・。





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春日大社で初詣。~増尾さんのお話

2006-12-29 23:23:59 | ○ すろ~ 奈良 ○
来年2007年の初詣は春日大社にて。

少し早いですが、由庵からひとつ角を曲がってしばらくいったところの砂糖傳という飴やの奥様、増尾さんのお話から春日大社の伝説をひとつ。


『 奈良町のお正月は先ず神仏の礼拝から始まる。神棚、稲荷社(庭先にお祀りしてある)、十二
  カ月の神様(歳徳神のことだろうか。家では十二カ月を護って下さるとして、十二組のお鏡餅
  をお供えする。)床の間の鏡餅の前、(氏神様と春日様を遥拝するのだという)、それから
  仏壇にお雑煮をお供えして、家長から、後は年の順番に、前記の順序でお参りする。お雑煮を
  祝った後は氏神の御霊神社と春日大社へ初詣に行く。神棚にも、春日様や氏神様はお祀りして
  あるのだが、やはり初詣に行かないと気持ちが落ちつかない。

   これ程、人々から崇敬され、敬慕されておられる、春日の神様は、大きな白い鹿に乗って奈良
  へ来られたと伝えられる。古来中国では、白鹿は千年の寿齢を保ち、帝の徳が満ちる時にのみ姿
  を現すとされている霊獣である。

   春日四所大神のなかでも一番先に奈良へおいでになった武甕槌命は、柿の木の鞭を手に持って、
  白鹿に乗って鹿島を出発したというので、今でも旅に出ることを「鹿島立ち」という。この伝説
  から、春日の神様は旅や交通の安全を守って下さるという信仰が生まれた。

   昔むかし、常陸の国鹿島で、東国の鎮護にあたっておられた武甕槌命は、永住の地を求めて、
  お母様の甕速日命がおられる奈良の春日野まで、はるばるとやって来られた。
   ゆるやかな起伏をもつ春日野には、老杉にからむ藤の花が咲き乱れ、東の森の彼方には、
  一際緑の濃い、こんもりとすげ笠を伏せたような御蓋山。そのうしろには、春日の山なみが
  連なって、まるで絵のように、美しくおだやかな眺めであった。

   朝晩、鹿島灘の荒磯を見て暮らしておられた武甕槌命にとって、奈良の自然の優美さは、
  まるで夢の国へ来たようで、すっかり気に入って、ここを永住の地にしようと、決心された。
  ところが、ここで意外な出来事がおこった。

   武甕槌命のお供をしてきた舎人が、年が感じられない位若々しくて美しい甕速日命に恋こが
  れて、恋のとりこになってしまった。しかし甕速日命は、けがらわしいとばかり、一切うけつ
  けられなかった。しかし、あまりしつこいので、山にかくれようと、ある夜そっと御殿を抜け
  出された。それに気がついた舎人はすぐ後をつけて行った。甕速日命が飛ぶ鳥のように速く逃
  げると、舎人は大蛇に変身して走りにくい山道を追っかける。川の側まで追いつめられた甕速
  日命は、今は、これまでと、剣を抜いてこの大蛇を切り捨てて、山に身を隠されたそうだ。

   やがてその山頂に、武甕槌命、甕速日命、舎人を祀る社がたてられた。これが、現在春日山頂
  の高峰に鎮まる末社、「神野神社」にまつわる説話である。この「こうの神」を祀る社は奈良の
  東山間部には数ケ所あるという。この話に出てくる、「大蛇」「河」「剣」は、いづれも水の
  神と深い関係にあるもので、豊作を願って水霊神を崇拝したことを物語るものであろう。
   昔から、  「大和豊作米食わず」(今のように溜池が沢山造られる前の大和は、水の少ない
  所だったので、大和に水がたっぷりあって豊作になるような年は、他の土地では水浸きなどがあ
  って不作だという意味)と言われた程、水不足が心配の種であった大和の農家の人達は水を司る
  神様を何より大切にしたのであろう。三重県境に近い、つつじの名所、神野山の山頂には、武甕
  槌命の叔母様にあたるという1速日命の陵といわれる塚があり、かつてはここにも「こうの神」
  が祀られていたそうだ。神野山は、以前は八十八夜、今は五月三日に近在の人達が一家総出で山
  登りをして、咲き誇るつつじや椿の花を賞でながら持参のお弁当を開き田休みの一日を楽しむ美
  しい所だ。

   かなわぬ恋に悩んだ舎人の霊も母子の二神と共におだやかに村人達を見守っていて下さることだ
  ろう。ちなみに、私の家の初代は、この神野山の麓の村から百五十年程前に奈良へ出てきて、現在
  地に店を構えているので、この伝説に一層の親近感を覚える。
 春日山頂には、
  「神野神社」の他にも高山神社、鳴雷神社、上水谷神社などの末社があるが、いずれも水神で
 ある。

   奈良に都があった頃、天皇の寵の衰えたのを嘆いた采女が、猿沢池に身を投げて死んだ。する
  と、以前から猿沢池に潜んでいた龍王が、不浄を忌んで、春日山の香山(高山)に移られた。
  ところが、香山の近くの谷に屍体が捨てられていたので、龍王は浄域を求めて飛行し、室生の
  龍穴に安住されたという。この説話により、春日山に龍王を祀り、祈雨法要が盛んに営まれた。
  その龍王社が高山(香山)社である。

   高山神社と鳴雷神社は、滝坂を流下する能登川、神野神社は佐保川、上水谷神社は水谷川の、
  それぞれの水源地に臨み、その鎮守をされている。春日大社の中東権宮司さんは、

  「今、下流の大和川は水質ワースト・ワンなんて言われていますが、春日の末社が守られている
  水源からは、今もキラキラ輝く清らかな水がコンコンと湧きだしています。奈良がユネスコの世
  界遺産に登録されたのを記念して、一度皆さんにこの聖水の清らかさを見ていただきたいものだと
  思います。」

  とおっしゃる。私達住人も、神様のお膝元から流れてくる川を大切にして汚さないよう万全の注
  意をはらいたいものだ。

   話を少し戻して、鹿島を出発した武甕槌命が、大和の阿倍山へ向かう途中、伊賀国の夏身(名張
  市夏見)を流れる一瀬川で水浴びをして、薦生山でしばらく休息された。その時、鹿島からお供を
  してきた中臣の時風と秀行という二人の兄弟神主に、美味しそうな焼栗を一つづつ与えられた。
  そして、命は、
  「その栗を植えて、もし芽が出たら、おまえ達の子孫は末長く栄えるであろう。」
  と仰せられた。

   焼いた栗が芽を出すなんて、普通は考えられないことなのだけれど、素直な二人は何の疑義も
  抱かず直ぐその焼栗を植えて、たっぷり水を施した。すると、天がその素直さを嘉みしたもうた
  のか、焼栗が芽を出した。このおめでたい故事によって、二人は「中臣殖栗連」という称号を
  頂いて、尚一層心を込めて神様にお仕えされたという。

   都が飛鳥の藤原にあった頃、武甕槌命は、都の守り神として藤原京の東方阿倍山に鎮座してお
  られた。その頃、奈良の春日野一帯の土地を所有する大地主神である榎本の神が阿倍山に訪ねて
  こられて、武甕槌命に、
  「私の住んでいる春日野と、あなたの阿倍山を交換してくださいませんか。」
  と相談をもちかけられた。

   もともと春日野の風景が大好きだった武甕槌命は、二つ返事で承知された。ところが間もなく
  都が奈良に遷ることになって、守り神である命も奈良へ引越された。一方、阿倍山へ移られた
  榎本の神は、参詣人が少なくなって貧乏暮らしとなり、とうとう武甕槌命に助けを求めてこられた。
  武甕槌命は、やさしく
  「それなら、私の社の側に社を建てて、お住みなさい。」
  というので出来たのが、現在、春日大社の廻廊の西南の角にある「榎本神社」だということだ。

   この話には、もう一つの説もある。武甕槌命は、御蓋山の西麓に広大な神地を構えようと、
  その土地の地主の榎本の神に、
  「この土地を地下三尺(約一米)だけ譲って貰えないか。」
  と頼みに行かれた。榎本の神は耳が遠くて「地下」という言葉がよく聞えなかったので、
  「三尺位なら、お安いご用」
  と簡単に承知してしまわれた。ところが、工事が始まると、何十ヘクタールにもわたる広い
  土地の周囲に大きな囲いが建ちはじめた。榎本の神はびっくりして
  「話が違うではありませんか。」
  と申し入れたが、武甕槌命は、「私は、地下三尺と言ったのですが、あなたにはよく聞えな
  かったのでしょう。その代わり境内の樹木は地下三尺より下へは延ばさないし、あなたも
  住む所がなくては困るだろうから、私の近くで一緒に住んでください。」というので、現在
  の摂社春日神社(通称榎本神社)が出来たという。

   明治頃までは、春日大社にお参りに来た人は、必ず榎本神社に詣でて、その柱をこぶしで
  何度もトントンたたきながら、「春日さんお参りしましたぜ。」と言って、ほこらのまわり
  を回ってから本社へお参りしたそうだ。

   でも、その地下三尺を面積の三尺とカン違いされたという頃は、この広大な土地は、東の
  聖なる山をとおして、はるかに鹿島の方を遥拝するためのお祭り広場で神様も武甕槌命一柱
  だけであった。

   奈良時代もなかばを過ぎた頃の或る夜、時の帝の称徳天皇の夢枕に武甕槌命が立たれて、
  「南向きの神殿を造って、経津主命、天児屋根命、も共に祭れ。」
  とのお告げがあった。経津主命は武甕槌命と共に、天照大神の命を受けて出雲に下り大国主
  命を説いて国土を奉還させた神であり、天児屋根命は、天の岩戸隠れの折の功労神であり、
  藤原氏の祖先の神でもある。称徳天皇は聖武天皇と光明皇后の間に産れられた皇女である
  から藤原氏の血を引いておられるし、時の左大臣は、鎌足の四代目の孫に当る藤原永手であ
  った。このご託宣を喜んだ永手は早速手配して、上記の三柱の神と天児屋根命の后神である
  比売神を祭る四棟の神殿が立派に建ち上がったのだが、神護景雲二年(七六八)のことで
  ある。

   さて、四柱の神様が御殿にお鎮まりになってほっとした、時風と秀行の兄弟神主は、
  「ところで私達はどこに住めばよいのでしょうか。」
  と神様にお伺いを立てた。すると神様は、
  「この榊の枝を投げるから、その落ちた所に住むがよい。」
  と榊の枝を大空にむかって投げられた。榊の枝は飛燕のように飛んで行って、春日大社から
  西南約五粁米の、現在辰市神社のある地点に落ちた。それ以来、二人の子孫はずっとそこに
  住んでいたが、五粁の道のりを歩いて通うのは何かにつけて不便だったので、そのうち、春
  日のお社に近い高畑に引っ越してきたので、高畑は社家町となった。今も高畑に残る古い土
  塀やおもむきのある家並は、その頃の面影をとどめている。

   春日の社家の家では、今も、毎年お雑煮を祝う前に、ご先祖様を祭る神棚に向かって、
  「榊の枝はいずくに候」「さればその御ことめでとう候」という問答を交されるそうであ
  る。
   これは、神様が投げられた榊の枝が落ちた所に住みついたという、家の始まりの縁起を
  祝う、おめでたいしきたりであるという。

   また、春日の神様が鹿島から奈良へ来られる途中には、こんな話もある。奈良市大柳生
  町に元春日という神社がある。ここは神様が春日山まで来られる途中、あまり大きくもな
  いが、こんもりとした良い森があったで、一時滞在された所だという。そこを出発して、
  西へ少し行った所で一休みして、「ああ しんど。」(疲れた)と言われた。それで、
  今でもそこに「神道」(今は新道と書く)という家があって、その側には、鹿の足跡と馬の
  足跡が残った石があるそうだ。こうして神様は、遂に奈良の春日山に落ちつかれた。その縁
  で、大柳生から毎年春日大社へお供えの餅を献上する習慣になっていた。ある年、奈良の人
  達が、遠い大柳生からわざわざ持って来て頂かなくても、こちらで搗こうと言って、糯米を
  蒸し始めた。
  しかし、一日蒸しても二日蒸しても蒸し上がらない。困り抜いて大柳生の人を呼んで来ると、
  その人の足が一歩敷居に入ったとたん、ちゃんと蒸し上がったという。』





日本人は神社におまいり・・というのはあまりにあたらいまえになっていますが、春日大社にまつわるお話をお聞きしてのお参りはまたひとつ、ありがたみ、おもしろみが増しますね。


由庵にてお出ししているお茶は、大和の始まりといわれる都祁で作られている無農薬のお茶です。

また正月13日には柳生にて「柳生新陰流(江戸型)セミナー」を開催いたします。
新陰流の歴史や思想などについてのレクチャー、練習、また夕方からは、現地Rupaさんにて交流会です。

年越しパーティ、「柳生新陰流(江戸型)セミナー」参加ご希望の方はメールにて受付しております。




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NARACAFE 由庵
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紅葉?黄葉・・・? in 長谷寺

2006-11-29 23:58:38 | ○ すろ~ 奈良 ○



いくたびも 参る心は はつせでら

       山も誓いも  深き谷川

       (長谷寺の歌)


故郷の 初黄葉を手折り 持ち今日ぞ

       我が来し 見ぬ人のため

         (万葉集)


日本を代表する古典、「万葉集」「源氏物語」それにカルタでおなじみの「百人一首」などにも紅葉狩り
のことが登場するほど、日本人は古くからもみじ狩りを楽しんでいました。

万葉集には、紅葉を詠んだ和歌が80首以上あります。


ところが、そのほとんどが、実は紅葉ではなくて、黄葉、つまり、葉が
黄色く色づくさまを詠んだものだ
そうです。

そもそも『もみじ』という言葉自体、揉んで色を出す、という意味の『もみず』から来ているそうですが、
これも漢字では『黄葉ず』と書きます。今の世の中、どう考えても葉が赤くなる紅葉の方が主役に思えます。
万葉人の色彩感覚は現代人とは違っていたのでしょうか。


ずっとたどってみると、どうも、事の起こりは中国の陰陽五行説にあるようです。

陰陽五行説というのは、中国で作られた占いというか、哲学というようなものなのですが、その中で、黄色は
特別な色となっています。
たとえば、陰陽五行説では、青は東、黒は北、白は西で赤は南、そして黄色は中央となっています。

つまり、黄色はまさに中国の真ん中、皇帝がいる所、ということになります。

奈良時代以前の日本は、中国文化の影響を色濃く受けていたから、木々が黄色く色づくことに、特別な意味を
見い出していたのでしょう。

しかし、平安時代になって、日本独自の文化が芽生えてくると、黄色より赤の方がきれい、ということになって、
紅葉の方がメインになってきました。

平安時代に編纂された古今和歌集なんかでは、黄葉よりも紅葉の方が、圧倒的に数多く詠まれています。



**源氏物語**


源氏、藤壷の御前で青海波を舞う

「木高き紅葉の蔭に、四十人の垣代、言ひ知らず吹き立てたる物の音どもにあひたる松風、まことの深山おろしと
聞こえて吹きまよひ、色々に散り交ふ木の葉のなかより、青海波のかかやき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ.
かざしの紅葉いたう散り過ぎて、顔のにほひけにおされたる心地すれば、御前なる菊を折りて、左大将さし替へたまふ.」



**枕草子**


秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、からすの寝どころへ行くとて三つ四つ、二つ三つなど
飛び急ぐさへあはれなり

*山の端いと近うなりたるにとは紅葉を意味している。
 平安時代紅葉は夕方に見るのが美しいとされていた



今年はゆっくりだったようですが、紅葉が綺麗な時期というと10月あたりからになるのでしょうか、紅葉は北から
順に約50日程かけて日本を通り抜けて行きます。

現在紅葉の色を形容するには”赤””黄色”といったような形容詞しか思いつきませんが、平安時代などはもっと
多くの形容詞が存在しました。


その一部をご紹介・・


  ★ 青紅葉(あおもみじ);源氏物語より。まだ緑色の紅葉の色を指す。

  ★ 紅葉(もみじ);赤く紅葉したも地味の色

  ★ 桔梗(ききょう);秋の草花で、青紫の花を咲かせる朝顔の色目

  ★ 小栗色(こぐりいろ);熟していないまだまだ薄い栗の色を表す

  ★ 落栗色(おちぐりいろ);こちらも源氏物語より。熟した栗の色を表す。


木々、山々が色づいていく様子を表していて、優雅ですね。






    長谷寺の五重塔と紅葉




日本人はどうして紅葉が好きなのでしょうか。


その理由を探してみてもなかなか見つかりません。



”理由は分からないけれど紅葉が好き”

桜の花びらも然り、普段の憂さを忘れ目の前にチラチラと絶え間なく落ちる紅葉を見ているだけで心が落ち着きます。
季節を感じるというのは、コンクリートジャングルに囲まれた現在では非常に難しい事なのかも知れません。

都会の風景から離れ、一時の紅葉を楽しむ幸せ。


赤い色や黄色い色というのは一般的に人間は”温かい”と感じます。

寒い季節が間近に迫る中、気持ちだけでも温かくなっておきたいという心理的欲求からなのか、紅葉が
きらいという人に出会ったことがないのはたしかです。

心理学的に言うと紅葉は”温和、嫉妬、険悪、温暖、歓喜 ”の象徴とされています。

そう考えてみると日本人の国旗の色は”赤”ですよね。

もしかしたら私たち日本人は紅葉が好きになるよう運命づけられた民族なのかもしれません・・。






**紅葉を眺めながらどうぞ・・**




      花より・・・





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世代を超えて・・

2006-11-12 23:38:45 | ○ すろ~ 奈良 ○
国境、言葉の壁のないもの・・ってなんでしょう?


食べ物、絵画、ファッション、写真・・などの芸術は、全般的に受け入れられるかもしれませんね。
あとは人の表情を通しての感情なんかも、結構言葉がなくてもコミュニケーションがはかれたりします。


ほかにも挙げればいろいろあるかもしれませんが、そのすべてを総合した形で壁のないものって、音楽、踊りじゃないでしょうか。


音楽はご存知のとおり、ビートルズの全盛期があったり、今は韓国の曲も耳にする機会が多かったり、ジャンルを超えて、また日本の曲もアジアを中心に世界で聞かれています。

踊りにしても、日本ではダンスを趣味とする人口は少ないとはいえ、annが大好きなサルサをはじめ、社交ダンスは言葉がなくてもマナーと心遣いが表われる1つの国際文化です。



11日に行われた南中ソーラン・大和舞囃子コンテストは外人さんの出場者こそありませんでしたが、日本舞踊だけでない、日本の伝統的な踊り(大和舞囃子はアレンジされたりしていますが)を踊ることによって、世代を超えて熱くなれる1つの文化。


一緒に歌ったり踊ったりすることでココロが1つになる・・そんな経験、ありますよね?






       南中ソーラン コンテスト





       招待演奏 和太鼓”のら”



南中ソーランの映像はコチラ・・


大和舞囃子(現代アレンジ版)の映像はコチラ・・


最後の週末

2006-11-10 23:50:25 | ○ すろ~ 奈良 ○
この奈良の地が、1000年以上前に世界から人が集まる、文化、物質、また人的にも豊かな国際都市であったことをあらわす遺品たち。

正倉院の宝物の展示が11、12日で今年の幕を閉じようとしています。


先週末は、文化の日ということもあり2時間待ちの行列(なんと、キトラ古墳の時と同じというのがなんとも・・)が博物館の裏までグネグネと続いていました。
というのは納得がいくのですが、今週も、お昼前~夕方にかけての混みようが連休中と同じというのは、奈良の魅力が浸透してきたと喜んでいいものか、どうなのか・・。

展示内容については人それぞれ印象、解釈の違いがあると思いますが、万博の1つのパビリオン並みに展示品の周りにも人の列。
1時間並ぶくらいなら1つでもほかの場所、ほかの話題を探す方には一生経験することのできない、”並ぶことの価値”ですね。



・・と物知り顔に話すann自身、実は今回が初めての正倉院展でした。


今回は「国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)」という、宝物の目録が初出陣(展示品の横にそう書いてありました)ということでしたが、annの目が釘付けになったのは装飾されたモノサシ。


モノサシ・・現代の私たちには、お仕事で線を引いたり細かい手書きの作業をされていない限り、学生のときに使ったなぁ、くらい遠い昔(?)の文房具でしかありませんが、”一尺、二尺・・”という目盛り(正確ではないそうです)がもったいぶってつけられ、今回のパンフレットのメイン画像となっているような鳳凰の姿が描かれた真っ赤なモノサシは、それを使っていた年頃でなくとも、わざわざ宝物にしたくなる存在感がありました。




庶民的なだけかもしれませんが、

”こんな日常的なものが宝物として納められていたんだ”

という感動とともに、一瞬にして古代の生活が脳裏にフラッシュバックするような感覚はやはり、食べ物や文字、日用品など、その時代の生活を思い起こさせるところからくるのでしょうね。



少し時代がさかのぼりますが、古墳から発掘されるものを見て話題になるのが、

”現代のわれわれの遺品を1000年後の人が見てどう思うだろう。”



”こんな使い捨て、大量消費をほんの何十年かの間にし続け、その間戦争や人殺しばかり起こっている”

そんな記録しか残らないのは悲しいですょね・・。



第58回正倉院展は12日午後6時まで開催中です。

勝ち負けのない世界

2006-11-06 23:08:59 | ○ すろ~ 奈良 ○
11月3日、文化の日は大化の改新の策略がねられた場所として有名な談山神社(奈良県桜井市)の年に2回のけまり祭の秋の開催日でした。





連休の初日、山奥といえど、古代から続くけまりを見られるのは生涯幾度とない機会、きっと正倉院展に負けず劣らずの人出・・と思っていったのですが、会場を囲んで、境内には人があふれていたものの、十分観戦できる程度でした。
そのわりには駐車場が第5くらいまでありそうな規模でしたが。


談山神社は、その名のとおり、かつてけまり会で出会った中大兄皇子と中臣鎌足が世を変えようと「談(かたら)い山」と呼ばれる山中で談論した場所。
ここから天智天皇、天武天皇の飛鳥時代、また藤原氏がはじまったのですから、歴史ってほんと、1つコマが違うと何がおこるかわからないですよね。



『蹴鞠には勝敗がなく、上手な人は蹴り易い鞠を相手に与えるのが蹴鞠の道とされている。この無勝負と言う事は―見興味のうすい無刺激なものと誤解されるが、勝敗がないにも拘らず、勝敗以上の尽きる事のない津々たる興味があり、蹴鞠をした後の気分も晴ればれとして気持ちがよい。他のスポーツでは、勝ったチームは楽しいが、敗けたチーム側は悲しみにひたらねばならない。又、年令や性別に関係なく、各人各様の体力に応じた全身運動になる。親・子・孫に三代が―緒になって鞠を蹴った記録もあり、女房や女官たちの蹴鞠の図が版画や草紙の類に画かれている。
以上でおわかりの様に、蹴鞠は余り場所を必要としない、比較的短時間でも利用出来、健康によい万人向きのスポーツとしても、又勝敗のない点、誠にのどかなリクレーションとして、昔から現在に至るまで行われ続けられた我国の国技と言う事が出来る。』


一緒に行ったアメリカ人のサッカー少女は、勝ち負けがないことが不思議な様子でしたが、現代サッカーにもけまりのような練習はあります。


勝ち組、負け組だけでなく、その調和が世界を作っていることは、ずっと昔からの常識だったんじゃないかと思います。
あいまいな日本人と言われ慣れてきた時代をへて、最近”意見する”ようになったら対外関係の難しさが浮き出てきた・・


また昔から、『和をもって尊しとなす』との教えもあるのですから、日本の文化のよい部分が国際的に認められるようになってきた今がチャンスだと思うのですが。



紅葉は、今日からやってきた寒さでまたじょじょに変化していくことでしょう。






  鎌足公の没後、長男の定慧和尚建立の十三重の塔

ふるさとに染み渡る歌

2006-10-22 23:59:14 | ○ すろ~ 奈良 ○

北京から中国少年少女合唱団、大阪住吉の少年少女合唱団、千住明さんをプロデューサーに迎え、重源上人の1200年忌法要に合わせて開かれた谷村新司さんのライブ in 東大寺。


重源上人が61歳から80歳1000人の子供たちの汚れない声による読経をしたかったという想いを受け継ぎ、少年たちの歌声で幕が開き、大仏さんの深くあたたかい御心と、いろんな想いで集まった1万人の心、そして谷村新司とバンドの方々、上海からの二胡、笛の演奏者の想いに包まれ、奈良のゆったりとした空気の流れる中でのすべてのピンと張り詰めた調和の妙を体感させていただきました。


日本から離れ、日本のよさ、日本人の人情をすばらしく感じて日本人のための旅の歌を作りたいという想いを託された歌たちが静けささの中に響きわたりました。


 
       ”風のこよみ”
          by 谷村新司


    あのひ抱かれて見た海の色は
    こんなに胸にしみる青なんですね

    指きりをしたくて誰かを探してた

    遠いゆめのつづき
    すべては風の中

    いつか空と海が交じり合う
    いつかたどりつける
    心のふるさとへ




「名前のある人は有名人だけど、夢のある人は夢人だょね。」
という谷村さんの息子さんのつぶやきからイメージされた、この歌も…


      ”夢人”
       by 谷村新司


    ココロ コロコロ転がして
    キラキラ星を見上げたなら

    ササラ サラサラ風が吹く
    キラキラ星が語りかける

    行くも帰るも同じ道
    すべては縁(えにし)の道

    夢人、よろこびも 夢人、かなしみも
    夢人、ひかりの影 夢人、月のあかり
    すべて抱きしめて歩く
    いつか来たこの道




人生が旅ならば、夢を見つつ旅していく喜びをわかちあえる人生を送りたいですね。



奈良はannのふるさとです。