弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

What an ugly world・・・

2016-10-26 20:53:27 | 思考
今日、交通量の多い大通りを野良猫が横切るのを見た。
もし、近隣に住んでいて頻繁に通過しているのなら、いずれ轢かれて死んでしまうのだろうな、と思った。
きっとその現場を見かけることにはならないのだが、今も世界中で生命が生まれては雲散霧消している。

・・・源流というものがあって、幼い頃に猫の虐殺の記事を雑誌か何かで読んだときに、嘆き悲しむと同時に無力感を感じた。
病的な快楽のために殺される命、社会の構造故に殺処分される命、される命、それに対して何もできない。
いや、生命のシステム的に、世界の構造的に、どんな命も殺し殺され、死んでいく。

人間が争いばかりする醜い生き物だと、厭世的になる人がいるが、全く賛同できない。
何故なら、同士討ちだって生命の中では普通のことだし、人間に限らず私の好きな猫だって小動物を弄んで殺すのだから。
世界が、人生が美しいと、頭の中がお花畑の人がいるが、全く共感できない。
何故なら、この無慈悲に不条理に苦しみと死だけが溢れる世界で、そんな感性を持てるのは、「観たいものだけしか観ていない」だけだから。

いや、しかし、結局人生とは、死をひたすら遠ざけていく作業の積み重ねではないのか。
メメント・モリとはいっても、結局、誰の、どんな近しい者の死でも全く参考にならず、自分の死には理解は及ばない。
そんななか、死の、消滅の、喪失の、ことを常に思い続ける私が異端で不適合なのだろう。
忘却のうちに生き忘却のうちに死ぬ。邯鄲の夢の中を生きる。
それが「正しい」のだろう。
だから、こんな感性は、感受性は捨てなければ、社会で機能する人間としては生きていけない・・・

・・それでも、その感性の呪縛が終わらないのなら、せめて、自死することなく全てを「見届け」たい。
そのために、知識を、思考力を欲したのではなかったか。
勲章でも報酬でも賛辞を求めるでもなく、ただ、そうする営みが私の私自身だけの尊厳ではなかったか。
他の何を忘却しても、そのことを忘却してはならない。