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イラク戦争

12/18「イラク戦争終結:8年9カ月」
イラク駐留米軍の最後の部隊が18日、国境を越えて隣国クウェートに入り、撤退を完了した。AP通信が報じた。
ブッシュ前米政権が2003年に始めたイラク戦争は、約8年9カ月を経て完全に終結。
イラクで「事実上の占領」とも批判され、武装勢力のテロを招く要因にもなっていた米軍が姿を消した。政治、経済など各分野で再建途上のイラクは、米国との対等、緊密な協力関係を基に復興を加速させる方針だ。

2003-04-01
イラク侵攻のリスク:田中宇の国際ニュース解説 2003年3月18日から
米マスコミの反戦と「ソマリア化」の可能性
1991年の湾岸戦争のとき米軍の軍事作戦を練った元将校が「湾岸戦争のような完勝型の戦争ではなく、ソマリア戦争(1993年)のような大失敗で終わる可能性が大きい」と警告を発している。この元将校(マイク・ターナー、mike Turner)によると、1991年の湾岸戦争には、4つの好条件が整っていた。
・クウェートを「侵略した」イラク軍を叩くという明快な政治目標があった
・十分な米軍の兵力 
・アラブ諸国がアメリカを支持してくれたため、アラブ諸国内での反米活動を抑えることができた 
・アメリカを長期にわたる世界的な「聖戦」に巻き込むことで自国の立場を強化しようとしていたイスラエルに口出しを許さなかった、という4点である。
逆にソマリア戦争では、アメリカは最初ソマリア内戦を仲裁する人道目的で介入したが、その後の米軍は、反米的な態度を打ち出していたアイディード将軍の派閥を壊滅させることだけを目的にするようになり、アメリカ兵を市街地での危険な戦闘行為に駆り立てた結果、市街戦でアメリカ兵が残虐に殺された後の光景がテレビを通じてアメリカのお茶の間に流れて米国内の反戦ムードをあおり、当時のクリントン政権はソマリア撤退を余儀なくされた。マイク・ターナーがいうところの「前回の湾岸戦争の4つの好条件」と、今回開戦目前といわれている「第2湾岸戦争」とを比べると、4点のうち「十分な兵力」という1点しか満たしていないことが分かる。サダム・フセイン政権が武装解除に応じている最中に侵攻を始めてしまうのは政治目的を欠いていることになる。アラブ諸国は団結して米軍単独の戦争に反対している。ブッシュ政権中枢にいるタカ派の「ネオコン」の人々が強度のイスラエル支持勢力であるため、イスラエルの干渉という点も、湾岸戦争時とは正反対の状況だ。

大統領にとってリスクが大きすぎる戦争
「ブッシュ政権は、短期間に完勝できるシナリオを持っているはずだ。だから反戦運動が盛大になる前に戦争は終わるだろう」という予測もある。だが「戦争」というものは、事前の予測を超越する出来事である。開戦したら、どっちに転ぶか分からないのが「戦争」だろう。短期戦で完勝するということは、結果としてはありえても、事前のシナリオとして米政府がそれに頼ることはできないと思われる。ブッシュ政権は危ない賭けを始めたことになる。
歴史上、世界の人々のこれほど強い反対を押し切って行われる戦争は初めてである。このまま3月20-22日ごろに開戦すると、イギリスとスペインは国内世論がさらに強く反戦に動き、早々に「同盟軍」から脱落する可能性がある。開戦後、戦争が長引いたり、米軍が戦争犯罪まがいのことをやっていることがマスコミに暴露されたら、ソマリア型の撤退を余儀なくされ、ブッシュは史上最悪の大統領というレッテルを貼られて敗北することになる。ふつうに考えれば、大統領にとって、ここで戦争に踏み切るのはリスクが大きすぎる。私は「戦争はあるべきではない」と言いたいのではない。そうではなくて、アメリカがここで戦争に踏み切るのは、あまりに馬鹿げているとしか思えない、ということである。
(戦争は不必要で悪いことに決まっている。世の中に「戦争でしか解決できない問題」などありえない。「戦争で解決したいと思っている人がいる問題」があるだけである。「正義の戦争」という言い方は、全くの欺瞞である)

20日正午過ぎ開戦!-米軍前線ルポより(毎日新聞サイバー編集部 太田阿利佐)
ここからは一人のブンヤさんの現地ルポをそのまま載せてみた。何しろ現地で一人の人間が見たこと聞いたことのそのままの記事である。真実の一面である。
静けさは吹っ飛んだ。最初は、ちょっと変だなという感じ。それから、何がなんだか分からないという感じになり、何がなんだか分からないが、とにかく絶対におかしいという感じになり、最後に「大変だ」となる。米英軍によるイラク攻撃は、この手続きを正しく踏んで行われた。つまり、最初は何がなんだか、これが攻撃なのかどうか、まったく分からなかったのである。
原稿を書き上げて間もない、午前5時35分ごろだった。メディア・センターには6台のテレビが設置してあり、CNN、NBC、BBCなどの映像が常時映し出されている。最初はNBCだった。バクダッド市内で空襲警報が鳴り、イラク側が対空砲火で対抗しているという。報道陣は一斉にテレビの前に集まった。確かに空に光るものが見えるが、それは方向からいって対空砲火で、空襲という感じではない。爆弾が落とされたように見える閃光も、火災の様子もない。みんな困っている。あわてて電話に飛びつき、前線司令部の窓口にかける。出ない。テレビを確かめる。ABCがバグダッド市内を映し始めるが、やはり同じような感じだ。だが、テレビが「攻撃開始」と伝えると、記者たちが騒ぎ出した。やっと前線司令部が出る。落ち着いた女性の声だ。「攻撃は始まったのか」とたずねると、「何も情報は入っていません」と言う。「だってテレビに映っているでしょう。閃光が見えてます」「何も情報は入っていません。私たちもテレビを見ているところです。」
押し問答より、テレビが気になる。一昨日、パリ支局からカタールについたばかりの同僚記者で前線キャップは、映像を見ながら「米国側は、一斉攻撃でイラクを心理的に圧倒する計画と言われていたけど、どうも違うようだ」という。イラク側が何かを誤認して、一方的に対空砲火を始めたのではないか、という思いがふとよぎった。「攻撃開始」と断定できるか。 メディア・センターの前線司令部の事務室ドアの前に張り付いて、出てくる人を次から次へとつかまえる。3、4人目に当たった男性が「僕も何も分からないんだ。10時15分からの大統領の演説があるってことだけで」という。 つまり「攻撃開始」ということだ。それからは、あまりよく覚えていない。 湾岸戦争時の3倍の爆弾を打ち込んで、イラクを圧倒する――という事前の見方は、裏を書かれたようだ。イラク首脳部の5人を付け回し、居場所を確認して、ピンポイントで攻撃。ワシントンは、「できる限り市民の犠牲を少なくするため」と説明しているが、ワシントンで利用されているらしい「decapitation(首切り、斬首)攻撃」という表現には、驚かされた。もちろん、これから米軍は大量の爆撃を行う。だから取材も続く。とにかく眠い。ホテルのタオルが、ほんとにありがたい。

21日午前5時 CNNで攻撃情報を知る
CNNなどによると、バグダッド市内で開始された米軍による攻撃で、現地時間20日午後11時過ぎ(日本時間21日午前5時過ぎ)、市内の3カ所で激しい煙があがっている。爆発地点のひとつは大統領府付近の模様だ。このほか、多くの火の手があがっているとの情報もある。
爆発の一部は、米軍のトマホーク巡航ミサイルによる攻撃を受けたものとみられる。バグダッド からの情報によると、市内には焦げ臭い香りがたちこめているものの、街灯などは点灯している。また、ワシントンからの情報として、今回の攻撃はフセイン大統領の側近やバース党幹部を標的にしたものと伝えている。 

21日午後10時 夕食買い出し中に大規模攻撃 
ただ今、午後10時3分、カタール・ドーハ郊外にあるアッサイリヤ基地のゲートにいる。わずか100メートルほどの距離にあるメディア・センターに行くシャトルバスをもう20分以上待っている。 バグダットでは、「衝撃と畏怖(いふ)」と呼ばれる大規模攻撃が始まっている。早くセンターに戻らねばと気ばかりあせるが、どうしようもない。 午後8時すぎ、シャトルバスで基地を出て、ケンタッキーフライドチキンで夕食を買い、午後9時ちょうどにホテルについた。すぐさまテレビの映像を見て、腰を抜かした。ケンタッキーの店内でテレビを見たときは、まだバグダットは静かだったのに……。 バスが近づいてくる。これから忙しくなる。メモ用紙に書いているこの原稿をネットに送るのは、ずっと後になるだろう。

22日未明 和食弁当に「ほっ」 10行の米軍広報資料に「むっ」 
21日は、やっと取材現場に慣れてきたところだった。お昼ご飯担当の私は、市内の日本・韓国料理店でお弁当をつくってもらい、メディア・センターに持ち込んだ。ご飯にお味噌汁、それにキムチもついており、なんだかほっとした。取材現場は、ご飯だけが楽しみだ。士気に大きくかかわるので、昼食調達は最重要任務である。前線キャップのF記者にも、T記者にも好評で、他社の記者にもうらやましがられた。私は心密かに、自分で自分をほめてやった。お昼をしっかり食べておけば、夜がファーストフードでもなんとかなるものだ。「腹が減っては戦はできぬ」というのは、まさに真実である。昔の人は偉い。
そろそろ3人で効率よく取材をするリズムを整えなければならない。いつまでも24時間体制で仕事をしていては体がもたないからだ。午後8時にはF記者を残し、メディア・センターを出た。22日は私とT記者が早番担当だ。しかし、ホテルに着いたとたんバグダットに大規模攻撃が加えられていることがわかった。あわてて運転手を呼び戻し、メディア・センターに引き返す。車が来る前のわずかな時間を利用して下着を着替える。私の経験では、ハードな長期出張には大量の下着を持っていくのがいい。ズボンやシャツがどろどろでも下着さえ着替えれば、なんとか耐えられる。でも、またメディア・センター泊まりになるのだろうか。ため息をつきながら、歯ブラシをリュックに突っ込む。この日は米軍が珍しく、広報資料を出してきた。A4の紙の中心にわずか10行。巡航ミサイルの爆撃で、バクダットの街の空が何度も何度も真昼のように浮かびあがるのをテレビで見ながら「ふざけるな」と思った。
この戦争で、ブッシュ政権はイラクを民主化することをひとつの目標にしているという。だが、戦争と民主化は決して相容れない。国民が政治に参加し決定権を握るためには、十分な情報が必要だが、戦争は「敵に有利になる」という理由で、それを徹底的に隠そうとするからだ。メディア・センターにいる米軍の若い報道官たちを責める気持ちにはなれない。彼らとて、攻撃の全体像は伝えられていない。軍幹部や政府は、命をかけて戦う前線の兵士たちも全体像など知る必要はないと無論考えている。彼らに求められているのは命令の遂行だけだからだ。 フセイン政権の圧制と危険性を考えると、この戦争が間違っているとは直言できないと思う。しかし、知る権利が確保されていないところに真の民主主義はなく、よって徹底的な情報統制を必要とする戦争は、本質的に民主主義とは相容れない。そう痛感する。
午後11時(日本時間午前5時)過ぎ、大量爆撃を伝える私の記事がウェブサイトにアップされた。だが、達成感はない。午前2時前、ホテルに到着。ともかくベッドに寝られてうれしい。下着を洗って干して寝る。えらそうなことを言っても、下着をたくさん持ってくるのを忘れたからだ。

22日午後 会見を仕切る英米テレビ記者
午後3時25分、私は、アッサイリヤ基地内にあるメディア・センターの会見室にいる。フランクス・米中東司令官の会見が始まるまでにまだ1時間半もあるが、会見の席取りのため、ここを動けないのだ。私の背後にはざっと数えただけで30ものテレビカメラが並んでいる。さらに両側には、テレビカメラとスチールカメラを手にした報道陣がうじゃうじゃいる。 会見室がオープンになったのは、午後3時。10分ほど前からドアの前には報道陣が詰めかけ、米軍報道官から「走らないで。それから押し合わないで」と注意があった。私がドアの前にいったのは5分前でやや出遅れたが、しっかりステージ正面の通路側、ステージに向かって左の前から4番目の席を確保した。私の周囲には、ものすごく大きいオーストラリアやドイツの男性記者数人がいたが、しょせん、満員通勤電車での席取りに慣れている日本の記者の敵ではない。しかも私は「おばさん」である。もっとも、座席は260ほどあり、後ろの方には空席もある。 攻撃開始から約60時間ぶり、会見は午後5時に始まった。都合でFキャップと席を交換したため、向かって右側の前から2列目というさらにいい席に移った。最前列には、米国の三大ネットワークを始め、BBCなどのテレビ局記者たちがずらりと陣取っている。何か“特権”があるらしく、彼らは席取りには参加していなかった。
フランクス司令官は、イラク戦争に参加している英軍、オランダ軍、デンマーク軍、オーストラリア軍の准将らを引き連れて登壇。早口で無駄のない説明はいかにも軍人らしい軍人という感じだ。だが、説明内容に大きな驚きや新事実はあまりなく、ちょっとがっかり。 おかしかったのは、質問コーナーに入った途端、米英のキャスターたちが計ったようにいっせいに手を上げたことだ。まるで、意欲満々の小学校1年生、それも優等生のように、手の先までピシッと伸ばして、身を乗り出すようにしている。質問への答えが終わるたびそれが繰り返され、ほとんどマスゲーム状態。 つまり会見は完全にテレビ局記者に仕切られていた。最前列の記者はほとんど指名され、質問を許される。例外的に通信社や外国メディアがぽつぽつ指名され、バランスに配慮したように見えるところまで計算されている。 日本では首相会見でも、記者がいっせいに手を上げ激しくやりとりする光景はほとんど見られない。駆け出し記者のころ、記者会見で結構重要な質問をして「そんな大事なことは、会見が終わってからこっそり聞け。答えがあればそれだけでスクープなんだから。テレビがきてたらすぐ流されるぞ」と叱られたものだ。会見を仕切っているのも、テレビではなく新聞記者だ。
もっとも、数時間後に行われた米国防総省ペンタゴンでの会見の様子をテレビでみると、仕切っているのは新聞や雑誌などオールドメディアの記者たちだ。ストレートなやり取りこそアッサイリヤと変わらないが、なんとなくムードが違う。記者会見ひとつでも、その国や場所のムードが現れる。
久々に会見の原稿を送って、ほっと一息。 

23日午前 宗教と戦争 「戦う意味は…誰にもわからない」
午前9時すぎ、いつものようにシャトルバスに揺られてアッサイリヤ基地内にあるメディア・センターに到着。最初に飛び込んできたのは、暗いニュースだった。 英空軍機が1機、行方不明になっているという。それも米軍の地対空ミサイル「パトリオット」に迎撃された可能性が強い。英軍報道官は、いつにも増して表情が固い。「何人乗っていたのか」と尋ねると、私と別女性記者に向かって「分からないんだ」と怒りを込めて語る。「ここにはニュースは入ってこない」と思っていたが、やはり前線。こういう悲しいニュースは、今後も飛び込んでくるに相違ない。 11時からは、メディア・センター内の会見室を利用して、キリスト教のミサが行われた。イラク戦争が始まってから初めてのミサだ。12時ちょっと前、遅れて会見室に入ると、黒人のアンドリュー・ハレウッド牧師が、大声で「God will take care of you(神様はあなたを見守っている)」と繰り返していた。不思議な迫力があり、引き込まれる。最後には参加した兵士たちから「イエーイ」という歓声や口笛、拍手が沸く。 礼拝の後、話を聞いてみた。攻撃開始前と後では、やはり兵士の緊張は違うという。「どんなに状況が違っても、宗教的な原則があれば救われる。だから今日は、神はあなたを見守っていると、呼びかけたんだ」という。基地内ではイスラム教の礼拝もある。米軍報道官の女性は「兵士の精神的なニーズを満たすことは、とても重要なのだ」と語る。 イラク軍はイスラム教徒が多い。イスラム教徒の兵士には、同じ宗教を信じる者同士で戦うことに、プレッシャーを感じるのではないか。イスラム教徒の兵士に、何か特別なサポートはしているのかーーそうこの女性に尋ねると「どんな宗教を信じていようと、私たちはみんな米軍兵士です。そして、この戦いがサダム・フセインとの戦いであり、イスラム教徒に対する戦いではないことはみんなが分かっている」と言い切る。 ハレウッド牧師にはこう尋ねてみた。「あなたは、神がこの戦争を支持していると信じていますか」。牧師は困ったような顔をして苦笑いをしてみせた。それからこういった。「聖書にも戦争は出てきます。どこで、いつ、どんな風に行われるかで、その意味は大きく違ってきます。では、この戦争についてはどうなのか……誰が分かるのでしょうか」。
ところで、今日の原稿には写真がない。なぜかというと……それは、また今度。

23日午後 情報機関とけんかする
午後2時ごろだった。アッサイリヤ基地にあるメディアセンターの会見室で、英軍報道官に話を聞こうとしていると「ど~ん」と、大きなものが落ちたような音がした。「おかしいな」と思いながら、パソコンを置いてある共用スペースに戻ってくると、なんと誰もいない。まずい。 人がたくさんいた記者クラブに、突然誰もいなくなったら、それは何かあった印だ。あわててセンターの外にでると、みんな基地のゲートの方向にカメラを向けている。近くの記者が「ゲートで爆発があったみたいだ」と教えてくれる。これは大事だ。センターに取って返してカメラを引っつかみ、そのまま外へ――後で考えると、これがまずかった。
テレビカメラの間に並んでゲートを見ても何も見えないが、周囲の記者たちは「さっきまで煙が見えた」という。ゲートからシャトルバスがやってきた。降りてきた記者をいっせいに取り囲む。「ゲートの外で、どーんという音がして煙が立ち昇った。それほど大きくはないが、何かが爆発したようだ。ゲートの兵士はそちらに向かったが、救急車などは来ていない」という。とりあえず停車しているシャトルバスに乗り、基地の外に向かう。 現場はいたって静かで、煙も見えない。だが、近くにはカタールの警察官が4人もいる。「何でもないよ」と言うが、何か変……。周囲をうろうろしていると、今度は別のカタールの警官が車に乗ってやってきた。何やら怒鳴りながら、車を降りてきてカメラをひったくる。大声で「NO」と言ったが、車に乗ってしまう。近くにいた中国人記者が走ってきて、「証言する。彼女は写真なんかとってないよ」と抗議するが、ダメ。
「写真は1枚もとっていない」「デジタルカメラなので、何を撮ったかすぐ分かる」と説明しても、「写真を撮っただろう」の一点張りだ。そのうち他の警察官もやってきた。アラビア語で何を言っているのか分からないがどうやら「このねえちゃんは、写真はとってないんじゃないの」(←想像)と、言っているらしい。
やがて、連絡を受けて、白い民族衣装を着た偉そうな2人組が車でやってくる。英語はよく分からないらしい。カメラを持っていこうとするので、猛然と抗議する。「記者証は」と聞かれ、プレスカードを差し出すが「これは米軍のだからだめだ」という。カタール政府発行の記者証は、基地内のセンターの中だ。
「カメラを持っていくなら、私も車に乗っていく。それは私が勤める新聞社のカメラだ。私の会社が黙っていない。写真を撮ったなら仕方がないが、撮っていないし、撮ろうともしていない」ととりあえずガンガンまくしたて、「ところであなたは誰なの」と聞くと、なんと答えは「○ ○ ○」。 情報機関ってこと?相手がまずい。作戦変更。泣き落とそう。 「プリーズ」を繰り返していると、いつもセンターで顔をあわせるアイルランド人記者のおじさんがたまたま通りかかり、一緒に抗議してくれる。デジカメの写真を再生して、写真をとってないことを示すが、結局、それでもダメで、さんさんと日の差す中、警察のえらい人が来るのを待つはめになった。 最初に味方してくれた若手警官が「ごめんね。写真撮ってないのに」と言ってくれ、ペットボトルに入った水もくれたので、かなり慰められる。2人といっしょに駆けつけてきた警察官は、ひげがすごくてちょっと怖かったが、説明すると納得してくれたような様子だ。それでも何枚かは消せ、という。仕方がないので消す。「これはセンター内でのミサの様子なんだけど……」と粘るも、「デリート(消せ)」だ。
センターに帰ると、午後3時を回っている。結局、爆発もテロとはまったく関係ないことが判明した。もう疲れた。 今日の会見予定は午後10時。

24日午前 複雑なカタールの事情
起床は朝7時。窓の外には日がさんさんと照っている。まるで昼まで寝過ごしたようだ。なぜかバスルームのあかりがつかない。 23日の記者会見は午後11時前に終わった。いったんホテルに戻り、午前2時前(日本では午前8時前)にインターネットで原稿を送信。シャワーも浴びずにベッドに倒れ込む。だから、今朝は髪を洗いたい。 といっても、バスルームの扉を閉めると真っ暗で何も見えない。扉を開けたままにしても、シャワーカーテンを閉めると周囲がよく見えない。私は視力が悪いので、結構危なっかしい。薄暗いなかでシャワーを浴びながら、思わず「なんだか戦時中みたい」とつぶやいてから、気がついた。カタールって、戦争してないの? もちろんカタールは戦争に参加していない。イラクと戦争をしているのは、米英軍だ。だが、カタールにはその米軍の前線司令部があり、アル・デビド基地は米空軍の出撃拠点になっている。昨日のカメラ騒ぎもそうだが、セキュリティーは厳しくなるばかりだ。 地元の事情に詳しい記者の話によると、カタールの事情はなかなかに複雑である。裕福で、教育のあるカタールの上流階級は、みな英語を話し、英米文化になじんでいる。イラク戦争を支持しているからこそ、基地を提供しているのだ。 一方、そうでない、どちらかというとあまり裕福でない層は、アラブ民族としての意識が強く、アメリカ文化にあこがれる一方で、イラク戦争への反発も強い。しかしそれは、政府の手前、口に出しにくい。政府の立場も複雑だ。アメリカ支持を強く打ち出せば、国民や周辺アラブ諸国からの反発を招き、テロの標的となる危険も増す。一方、アラブ民族としての立場を強調すれば、今度はアメリカとの関係が悪くなる。つまり、どちらの層も、立場をはっきり打ち出すことが困難なのだ。まさに戦時中「みたい」な状況だ。 アッサイリヤ基地も、日に日にセキュリティーチェックが厳しくなっている。今日来てみると、基地のゲートからメディアセンターに向かう道の途中に車止めが設置され、ゲートでチェックを受けているにもかかわらず、バスに乗るときにわざわざプレスカードと名前を確認される。メディアセンターの入り口の左側には、小山のようなバンカーが築かれ、昨日まではなかった小屋に兵士が機関銃を構えている。気のせいか、腰のあたりに常にガスマスクをぶら下げている兵士が増えたようだ。 23日夜には、英国のテレビ記者の死亡も伝えられた。疲れの蓄積もあって、どの記者も口数が少なくなっているようだ。同じジャーナリストが殺害されるニュースには、改めて衝撃を感じる。メディア・センターのムードがなんとなく重い。 こんな時、「陣中見舞い」のメールを受け取ると、とても気分が晴れる。送る側も電話だったら相手の作業を中断させるが、メールならば気軽に、という気持ちがあるのかも知れない。家族や友人はもちろんだが、同僚記者や昔一緒に仕事をした先輩、後輩記者からのメールは、現場の厳しさを思いやる気持ちと歴史的な取材だからがんばれという激励が適度にミックスされていて、じ~んとくる。
ところで、こんなに苦労して仕事をしているのに、うちの部長から激励メールがとどかない。ここははるか中東、しかも酒は禁止のイスラム圏なので、陣中見舞いのビールを届けろとは言わないが、せめてメールぐらい送ってもいいのではないか。 いつか原稿に書いてやる……今日こそは……と思っていたら、なんと今朝メールが来た。信じられない。しかも「原稿より健康」と書いてある。ますます信じられない。 なんという絶妙のタイミング。これって、以心伝心としか思えない。でも、上司と以心伝心っていうのはちょっと……。 激励メールがきたのに、なぜかとても複雑な思いである。

25日午後 砂嵐で「ジャリ」 戦況も取材予定もめどたたず
カタール・ドーハのアッサイリヤ基地内にあるメディア・センターに到着すると、テレビがそろって、オレンジ色の画面を映し出している。一瞬「何?」と思ったが、すぐに分かった。砂嵐だ。
この日は湾岸一帯を低気圧が移動していたのだ。午前中のにわか雨はその影響だったのである。この時期の砂嵐はすさまじいと聞いていたが、低気圧の前線近くにいる部隊からの映像は本当にすごい。従軍記者たちのリポートによると、視界は3メートルしかないという。 ここカタールでも、ちょっとでも風が吹いてくると、細かい茶色い砂が顔にあたって、「コンタクトユーザー」の私は目を開けていられない。基地の入り口のゲートでバスを待つ間におしゃべりをしていても、よく口の中で「ジャリ」っという音がする。砂が口の中に飛び込んでくるのだ。 だから、砂嵐の中での戦闘や進攻など、想像を絶する。案の定、夕方には米軍の戦闘ヘリコプターアパッチと輸送ヘリブラックホークが、砂嵐で行方不明になっているという情報が入ってきた。
午後5時から、米中東軍のレニュアート作戦部長が会見した。米英軍が、砂嵐にもかかわらず進攻していることや、イラク軍が、他国から手にいれたGPS(全地球測位システム)の妨害システムを利用した攻撃を計画しており、米軍がこれを破壊したと発表した。また、イラクの国民に対して「戦闘に巻き込まれないよう、幹線道路や、イラク軍・政府機関施設から離れ、住んでいる町や自宅に留まるように」と呼びかけた。ブルックス准将は、この日も米軍のミサイル攻撃がいかに正確かをアピールするビデオや写真を披露した。
会見の最中、若い女性記者が指名され、「あなたがたは、攻撃の正確さを強調するが、、イラク市民に多数の被害者が出ているという報道をどう思うか」と尋ねた。その時、会見場の雰囲気が、一瞬“引いた”……ように感じた。 前日も、前々日もこの種の質問はでている。米軍の返事は大体同じだ。「大変残念だ。被害者を減らすよう最大限の努力をしている」だ。この質問が出た瞬間の会見場の雰囲気は大変冷たいものだった。記者の多くはこう考えているのではないか。「まともな答えが返ってこない無駄な質問はするな」「俺たちは、戦況を書きに、ここにきているんだぞ」。 そう、確かに私たちは、戦況を取材するために中東軍前線司令部まできているのだ。だが、それだけでいいのか。彼女の発した“愚問”は、実はとても大切なことではないのか。
私はこの日も質問できず、がっかり。慣れない英語でメモをとっているので、手を上げるのがどうしてもワンテンポ以上も遅れてしまうのだ。メモはあきらめて、手を上げることに専念するしかなさそう。しかも、当ててもらうコツは、何度かわざとフライングして、自分を印象付けることらしい。結構難しそうだ。日本人記者が指名されるところはまだ1度しか見ていない。某放送局のとてもきれいな女性だった。ますます見通しが暗い。 今日にも米英軍が首都・バグダッドに迫るかも知れないというので、徹夜覚悟できたが、進攻は「砂嵐で一回休み」の格好だ。早め(といっても午後10時ごろ)にホテルに帰って、食事、就寝。砂嵐はまだしばらく続くらしい。明日の取材予定は一体どうなるのか、想像もつかない。

26日午前・午後 流れが変わった
感動したことが二つあった。
イラクの戦線での砂嵐が伝えられているが、今日はカタール・ドーハも風が強い。まだ視界はいいが、まっすぐ前を見て歩けず、足元だけを見て歩く。これでは戦車がすぐ脇に来ていても分からないぐらいだ。幸いアッサイリヤ基地のゲートには、すぐ犬が来てくれ、あまり待たずにバスに乗れてほっとする。 珍しく午後3時から米中東軍前線司令部の会見があるというので、早めに原稿執筆。今日のニュースは南部のナサリアで、病院に作られた軍事拠点を米軍が攻撃、3000もの化学防護服や防毒マスクを見つけたこと、南部の主要都市バスラで現政権に対するイラク住民の蜂起があったこと、イラク国営テレビの施設を米軍が攻撃したことなどだ。
昼過ぎには、バグダッド市内の市場に米軍のものと見られるミサイルが飛び込み、14人の住民が死亡、30人がケガをしたと伝えられた。バグダッドから流れてくるTV映像や、通信社電などを集めて原稿を書く。14人の男女比や子供が混じっていたかなどの細かいところはまだ不明だ。明日には細部が明らかになるだろう。
最近原稿を書きながら、ふと考えてしまうことがある。 それは、私は本当に真実を伝えているのだろうか、ということだ。 たとえば、空爆と言う言葉がある。米軍はバグダッドを空爆した――という風に使う。しかし、もし私がイラク国民なら、バグダッドに米軍の空襲があった、と書くだろう。ミサイルである建物が壊れる。それは、「攻撃による成果は」と呼ぶべきなのか、「攻撃による被害は」と書くべきなのか。侵攻と進攻は? 被害者と書くか、犠牲者と書くか、それだけでも読み手の印象は違う。 戦争について中立的な立場から記述することは、実に難しいのだ。無意識に自分が選んでいる言葉のなかに、自分がどちら側にいるかが潜んでいる。 午後の会見では、誤爆によるバグダッド市民への被害に関する質問が相次いだ。「まだ米軍の誤爆とは確認できてない」というブルックス作戦副部長に、「では、あれは何だと思うのか」という質問をぶつけた記者もいた。いつものように、攻撃の正確さをアピールするビデオやスライドに、「では、これまでに何発のミサイルが外れたのか」との質問も出た。そこには、25日の記者会見で一瞬流れた“引いた”ような雰囲気はなかった。流れが変わったのだ。 ブルックス作戦副部長は、精悍で、優秀な軍人そのものといった印象だ。人形のようにまっすぐ立ち、無駄のない、形容詞の少ない説明に、記者の間には「あいつはGI人形みたいだ」という人もいる。イラク国営テレビへの攻撃について「施設には民間人もいたのではないか」との質問には、「われわれは、フセイン体制を維持し、軍事的に利用されている施設を破壊する」と答えた。
私も記者たちも苛立ちはじめている。会見の後には、米海軍の報道官を記者たちが取り囲み、米英軍の犠牲者の数や、外れたミサイルの数や、米軍が把握しているイラク側の犠牲者の数について、なぜ公表されないかを問い詰める場面もあった。米国のメディアは米国寄りの報道が目立ちすぎるなぁ、と思っていた私にとって、報道官を追及する彼らの姿は印象的だった。同じ人間なんだ、私と同じように疑問を感じているんだなぁ……とちょっと感動した。 砂嵐の影響などで、今日も戦況に大きな変化はなかった。夜、基地を出て、ドーハ市中心部のモールに買い物にいく。国際電話用のプリペイドカードや新しいノートが必要なのだ。午後9時だというのに、モールは老若男女であふれている。湾岸諸国は夜が遅いと聞いていたが、実際に目にするとちょっと驚く。 ついでに日用品も買い込んだ。アラブ諸国は総じて衣類が安いと聞いていたので、「カルフール」の女性用衣類のコーナーをのぞく。なんと女性用のパンツが8枚で、20リヤル(約660円)である。それもセールで、2パック(16枚)で20リヤル。家の近所のイトーヨーカドーより安く、柄もなかなかだ。もちろん買った。これで夜中の洗濯がかなり楽になりそう。ちょっと感動した。

27日午前・午後 会見場3列目指定席のナゾ
カタールに来てから10日が経った。そろそろ帰国の時期である。当初は今週末帰国の予定だったが、数日間、帰国時期をずらすことにした。飛行機のチケットはもちろん、日程変更可能なオープンチケットを用意してある。戦時ゆえ、万一の時にはすぐに飛行機に飛び乗れるように、という配慮からだ。 ところが、期日の変更を依頼した旅行代理店は「困ったことになった」という。イラク戦争による旅客の激減影響で、飛行機が大幅に間引き運転されており、乗り継ぎがうまくできないというのだ。 新聞社といえど一企業、予算はある。一刻も早く現場に飛べ、という「行き」はともかく、仕事を終えた帰りの便で、余計な費用をかけることは許されない。そもそも東京で仕事をしていた私がここにいることからも分かるように、戦争は新聞社や放送局に、取材費の増大というかたちで大変な負担をかけるのだ。そのうえ、海外旅行などの広告も減ってしまう。テレビ局ではやはりコマーシャルが減る。大昔のように、人々が駅などで争って新聞を買う時代ならともかく、戦争は新聞社の経営にとって、マイナス面が大きい。 午前中は、ドーハ市内にある旅行代理店におもむき、なんとかチケットの日付変更をしてもらう。それでも担当者からは「便が飛ばなくなる可能性があるから、当日の朝、かならず電話するように」と念を押された。「来週の後半になると、ダイヤはもう予想もできない」のだそうだ。ちゃんと帰れるか、ちょっと不安。 今日の記者会見は午後3時から。ちなみに、もう記者会見場の席取りはしていない。実は、フランクス米中東軍司令官の最初の会見の翌日から、前から3列目までの席が指定席になっているのだ。この指定席の席順というのが、なかなか興味深い。 発表者の正面、会見場の中央には通路がある。いすはその通路の左右にそれぞれに20ほど並んでいる。発表者に最も近い“特等席”は、最前列、左右それぞれの中央通路側の席だ。発表者から見て左の特等席には、AP通信。右の特等席はロイター通信だ。多数の地方紙がある米国では通信社の地位が高い。また、この2社を通して世界中に記事が配信されているのだから、当然かも知れない。 AP通信のすぐ後ろは首都を中心とし、米国政治に影響力を持つ、ワシントン・ポスト紙。かたや、ロイター通信の後ろは代表的な大衆紙、USAツデーである。最前列、AP通信の左側には米3大テレビネットのFOX、同NBC、イギリスのBBC放送が続く。ロイター通信の右側には、やはり米3大ネットのCBS、豪テレビのABC、CNN、アルジャジーラと続く。こうして、前列から3列目までが米軍によって指定されたのである。4列目以降は自由席だ。米軍がどんなメディアが重要だと考えているかが実によく分かる。さて、日本のマスコミで1社だけ、この“指定席”を獲得した社がある。なにを隠そうわが毎日新聞である。NHKも、ライバルの大新聞2社も指定席はないのに、うちだけある。それはなぜか。お調子者の私は「当社が日本を代表するメディアだからですっ」とわめいているが、同僚のFキャップもT記者も「特別に頼んだわけでもないのに、なんでかなぁ」と首をひねる。湾岸戦争取材も経験したFキャップによると、「うちだけ、というのはめったにない」のだそうだ。私は心ひそかに、いち早くカタールに着いたT記者がまれに見る熱心さで報道担当者を質問攻めにしたことか、あるいは初日に私がみせたあまりにも見事な席取りが米軍関係者の目に留まり「あいつを野放しにしたら危険だ」という判断が働いたのが原因ではないかと思っている。真相は無論定かでない。

28日午前 何が真実なのか
昨夜は遅くまで大変だった。Fキャップのパソコンがどうやらウイルスにやられてしまったらしい。動くことには動くが、パソコンを立ち上げ、ネットに接続し、ブラウザを開くのだけで15分もかかる。いまや記者はパソコンがなければ原稿を送れず、仕事にならない。ましてやキャップのパソコンがつぶれたら、取材班にとって大打撃だ。なんとかしなければ。 振り返れば、私が入社した十ン年前は、原稿は手書きで、ファクスで本社や支局に送った。ファクスのないところでは、電話で原稿を読み上げて送ったものである。だから早い話、現場や出張にはノートとペンとカメラだけを持っていけばよかった。ところが今はそうはいかない。パソコン、電源コード、電話線やLANケーブル……電源プラグや電話のジャックの形、電圧は国ごとに違うから、海外出張には接続用機器や、変圧器も必要だ。デジタルカメラと充電用機器、デジタルテープレコーダーと対応した電池などなど……。携帯電話と充電器もいる。万が一の事故などに備えて代替用パソコンまで持参するとなると、本当に大変だ。 祈るような気持ちで、ウイルス対策ソフト会社のサイトに接続し、「クレズ」と言う名のウイルスの駆除ツールをダウンロードし、適用する。とても時間がかかったが、パソコンの動作が相当速くなったところを見ると、とりあえず何とかなったらしい。続いて無料ウイルス診断サービスでスキャンして、“一見”落着。あとは取材が終わるまで、パソコンにがんばってもらうしかない。

28日朝も風が強い。ホテルの前の庭の木がしなっている。アッサイリヤ基地は砂漠の中にあるので、車が来るまで間、しばし「緑」を楽しむ。メディア・センターに着くとすぐ、イラク第2の都市・バスラで、市外に逃れようとした住民にイラクの準軍事部隊が攻撃を加えたとの情報が入ってきた。英軍はというと、住民援護のための反撃をしたのかどうかなど、どうも細部がはっきりしない。 戦争の情報は、非常にあいまいな部分が多いことを改めて思い知らされる。戦闘という混乱のなかで何が起きているのかは、当事者にしか分からない、あるいは当事者でさえ分からないのだ。例えばマスコミはそろって、「英軍はバスラを包囲している」と書いているが、バスラは人口約150万人を超える大都市。かたやイラク戦争に参加している英軍は約4万5000人。ぐるりと取り囲めるわけがない。実際には東側と西側を( )のように囲んでいるだけなのだ。バスラでの住民攻撃情報について、アッサイリヤ基地の英軍報道官もよく分からないらしく、首をひねりながら説明している。現地から、従軍記者によるテレビ映像もすでに届いているが、それとて断片的な情報でしかない。
記者といえば、特ダネを取ってくる記者こそが優秀なのだといわれることが多い。しかし、戦争取材に関していえば、錯綜する情報のなかで、何が重要で何が瑣末なことなのか、何が真実に近く何がそうでないのか、を見抜くことこそが求められている。自省を込めて書く。ただ単に前線司令部にいるから正確な記事が書けるのではまったくない。

28日午後 ほんの数行の張り紙
ばたばたしているうちに、あっという間に午後3時の記者会見時間に。入室禁止になるぎりぎり、会見開始10分前に会見場に駆け込んだので、最後列になってしまった。一生懸命手を上げるが、やはり当たらなかった。手の代わりに、日の丸か花でも上げてないとダメかもしれない。みんなに受けて、しかも当てられるかも知れないが、全米で放映しているらしいので、上司に叱られそうだ。止めることにする。
米中東軍からの広報資料は、メディア・センターの壁に張り出される。別にボードがあるわけではなく、水の入った冷蔵庫の横と、受付の横の壁に気がつくと張り出されているのだ。夕方見ると、今日は3枚ほどあった。1枚は記者会見時間のお知らせだった。あとの2枚にさっと目を通し、その場を離れようとした。その時、何かが私の足を止めた。「待てよ」と何かが言った。 私は資料にもう一度目を通した。1枚は南部の都市ナシリアでの作戦中に米海兵隊の第1遠征隊の4人が行方不明になっているというものだった。もう1枚は、やはり第1遠征隊で、自軍の装甲車にひかれて1人が死亡、1人がけがをしたというものだった。どちらの資料も、A4の紙に、ほんの数行。私の後ろに立った男性記者も「ふ~ん」という感じでその数行を眺め、そのまま去っていった。なぜなら、こんなニュースはもう珍しくない。新聞でいえば「ベタ」。もっとも扱いが小さいニュースなのだ。戦争が始まって、もう9日になる。「これぐらいのことは、あって当然だよね」と、自分の中で声がする。いったんその場から離れ、自分が座っていた席に戻った。そこから壁に張られている広報資料を見ていたら、ふいに、なんだかふいに、悲しさがこみあげてきた。多くの人が生きて、話して、仕事をしているこの場所に、まるで「資料棚のカギは必ず返してください」みたいな、つまらないお知らせのように、人の生死にかかわる文章が掲示されている。その資料に気を止める人はほとんどいない。戦争取材に慣れるというのは、こういうことなのか。戦争のかたわらで生きるとは、こういうことなのか。記事はほんの数行。すでに送った記事のうしろに付け加えられた。メディア・センターの外に出ると、あたりはもう真っ暗。少し雲がかかった空に、星がいくつか見えた。いつもと、おんなじように。

29日午後 この子はなぜ死ななければならなかったのか
聞いた途端、嫌なニュースだと思った。イラク中部のナジャフ近郊、米軍のチェックポイント(検問所)の近くで、自爆テロがあったという。車に乗って市民を装ったイラク軍の下士官が、手を振って助けを求め、米兵4人が駆け寄ったところ、爆発が起き、5人全員が死んだ。 イラク軍と米軍がにらみ合い、殺しあう……それが戦争であり、それが現実だ。戦争に手段はない。もちろんそうだ。だが、「戦闘員ではない」と判断し近づいた“愚かな米軍”を、フセイン大統領と一緒に笑う気持ちにはとてもなれない。絶対に。
自爆テロは、米軍が例えポーズだけにしろ守ろうとしている、サダム・フセイン体制への攻撃と、市民への対応を峻別するという方針を打ち砕くものだ。米軍兵士は、今まで以上にイラク市民を疑うようになるだろう。今後、タバコを出そうとしてポケットをまさぐったり、何気なく手を後ろに回しただけで、撃たれるようなケースが続出するに相違ない。そうして、結局は、罪も悪意もないイラク市民が死んでいくことになるのだ。捕虜を装って投降し、攻撃に転じるイラク側の戦略もそうだ。アメリカ側に、捕虜の人道的な取り扱いを定めたジュネーブ条約に従わないいい口実を与えてしまう。捕虜全員に不利になる戦術なのだ。
バグダットでの取材を経験した記者は一様に「イラクは、イラク国民が何人死のうと全然構わない。イラク政権だけが生き残ればいいのだ。主要施設は住宅地や病院や学校の近くにあり、国民を盾にしている」と話す。彼らは、反政権に対する拷問も明らかに行われている、と証言する。だからといって、フセイン政権打倒を倒すことを目的としたこのイラク戦争が正しいとは言わない。だが、この戦争が終わったところで、イラク国民の苦しみが終わるのかは、はなはだ疑問だ。 日本では、反戦運動が高まっているという。それはとても大事なことだ。だが、例えばアムネスティのような世界的なそして地道な人権保護運動に、これまでどれだけ多くの日本人が関心を抱き、取り組んできたのだろうか。 地元英字紙には今日、収容される小さな子供の遺体が写真に掲載された。4歳ぐらいだろうか。抱き上げ、ほおずりずりすれば、子供特有のやわらかさと温かさが感じられたに違いない。生きていれば、である。この子はなぜ死なねばならなかったのか。音楽を聴きながら眠る。そうでもなければ、寝付けない。

30日午後 エンベッド記者に満開の桜を
米中東軍前線司令部のメディアセンターで、いつも私の向かいに座る英国の記者が「火曜日に帰るんだ」という。「あら、急なのね」と応じると、「エンベッド(従軍記者)でイラクにいくんだよ」と言う。一瞬言葉を失った。「すごいねぇ。おめでとう」と、内心の動揺を隠しながら明るく言う。
英国から、新しい隊がいくつかイラク南部に行くことになり、エンベッドの枠ができたという。「昨日の夜、決まったと知らされたばかりなんだ。イギリスで2日ほど訓練を受けて、週末ぐらいにはイラクに入りだ。家族にもまだ話してないんだよ」。 当社のネットに掲載されている朝鮮日報の姜特派員の記事を読んでもそうだが、エンベッドの苦労は想像を絶する。体力・気力の限界で、エンベッドを中止する記者もかなり出ているらしい。 イラク戦争は「あっという間に終戦」という当初の米英側の予想を裏切りつつあり、バグダッド攻撃まで数カ月かかるのではないかとの観測も出ている。29日の自爆テロに象徴されるように、どこに危険があるのかも分からない状態だ。 百戦練磨のある軍事問題の専門家と先日食事をした際には「今度の戦争だけは従軍しないほうがいい。イラク人同士が殺しあう市街戦になる。とても危険だ」と言われた。まさに命がけなのだ。 姜特派員の原稿を読むたび、その迫力に感動し、“この原稿にはかなわない”という思いにかられる。しかし、もし自分が従軍の機会に恵まれたとして、心から喜べるかどうかはかなり疑問だ。さまざまな精神的、肉体的なストレスに長期にわたって耐えられるのか、はなはだ心もとないからだ。
「でも本当に気をつけて。いい原稿を書いて、うちの新聞にも送ってよ」と付け加えると、「ありがとう。特ダネをとったら君だけにメールしてやるよ」と笑顔が返ってきた。
日本に帰ったら、満開の桜を写真に撮って、電子メールで彼に送ろう。心ひそかにそう決めた。

30日午前 ここまでくるなんて、勇気があるなぁ
メディア・センターには時々、面白いニュースが飛び込んでくる。といっても、無論発表ではない、これはイタリア紙の記者から聞いた話。 まずは、以下の記事を読んでいただきたい。
【イタリア人記者、バグダッドへ移送 バスラで拘束】イタリアのジャーナリスト連盟は29日、イラク南部のバスラで28日に行方不明になったイタリア人ジャーナリスト7人が、イラク当局に拘束され、首都バグダッドへ移送された模様だと語った。 7人はイタリア主要各紙の記者で、英軍が包囲しているバスラの取材のため市内へ入ろうとして、イラク側に拘束された。バスラ市内のホテルでイラク当局者に事情を聴かれた後、バグダッドへ移送されたという。(ローマ支局) いかにもものものしく、緊張が伝わってくる。でも、アッサイリヤ基地の入り口で、シャトルバスを待ちながら私が聞いた話はこうだ。
イタリア人記者たちは、バスラに向かうため、英国軍の検問所を過ぎ、イラク軍の検問所を通過した。さらに二つ目のイラク軍の検問所を通り過ぎた。このとき、最後の1車両が、怖くなって逃げ出したという。「イタリア人記者拘束」という話は、この車両に乗っていたメンバーによって伝えられ、世界中に配信された。 ところがバスラに入ったジャーナリスト7人はというと、イラク軍兵士に「ここまでくるなんて、勇気があるなぁ」としきり感心された。バスラのホテルでお腹いっぱいごちそうになった後、バグダッドに向けて笑顔で送り出されたという。 アッサイリヤ基地で取材しているイラク紙の記者は、7人のうちの1人と友人だった。記者たちはビザも、取材許可の書類も持っていなかったという。聞いてあきれる。「よかったねぇ」と大笑いして、なんだかとてもほっとした。

31日午前&午後 ユーモアで抑えたテロの恐怖
米中東軍は現地時間の30日夜から31日未明にかけて、バグダッド市内に大規模な空爆を行った。フセイン大統領の宮殿も、情報省も爆撃を受けた。情報省の爆撃の影響で、イラク国営テレビは朝から放送ができなくなった。米軍はこれまでも「イラク国営テレビは、フセイン政権のプロパガンダに使われているだけでなく、軍事作戦司令のネットワークにつながっている」として、テレビ局の施設などを攻撃してきたが、放送そのものは続いてきたのだ。 今回こそイラク国営テレビの放送ストップか、と思っていたが、お昼過ぎに再開した、という。イラク側は意外と防備を固めていたのだ……という原稿を書いているうちに、午後の会見が始まった。
今日の夜、私はカタールを発ち、帰国する。「テレビが再開されたようだが、攻撃の効果に問題は」という質問を用意して、必死に手を挙げるが、やはり当たらない。 そのうちに別の記者が「イラク国営テレビが放送できなくなっているそうだが」と質問。ブルックス作戦副部長は「レポートによればイラク国営テレビは放送されている……」と回答している。 えっ、そうなの? 放送しているの? してないの?
戦争の取材はこんなことの繰り返しだ。バグダッドにいる誰かにすぐに連絡がとれればいいが、そこは戦時。通信手段は限られている、というか、かなり難しい。バグダッドにいるどこかの記者たちが、通信手段を確保して原稿やニュースを送ってくれるのを待つしかない。 カタール入りしてからの原稿は、新聞には決して載らないような、取材の現場の細々としたことも伝えてきた。「こんなものを書いていないで、新事実や特ダネを書け」というご批判は甘んじて受ける。 だが、“大本営”のお膝元でどのようなに情報がやり取りされ、操作され、取材活動が行われているかの一端が、もし読者に伝わるのなら、そしてそれが読者が記事を疑うことや記事の価値を判断することの一助になるのなら……そんな気持ちで私は書いてきた。
エンベッド(従軍)の記者たちや、バグダッドの記者たちが送ってくる情報は大変貴重だ。彼らは、命がけで歴史の証人となっている。しかし、彼らが見るのは戦争のワンシーンでしかない。情報は集まってこそ力を発揮する。ジグソーパズルのように情報を組み合わせていくことで、全体が見えてくる。 その作業を優れたジャーナリストが行うのはもちろんだが、最終的には、誰を信じるのかを含めて私たち一人一人が自分で判断するしかない。そしてそれは、21世紀という極めて不安定な世紀に投げ込まれた私たちの大きな課題だ。
イラク戦争から何を学び、どう考え、どう行動するかが、日本の将来にも大きくかかわってくる、と私は思っている。私、個人としても、取材現場はひとまず離れるが、今後ともイラクの人々の平和について考え続けたい。 取材に出る時、恥ずかしながら内心テロが怖かった。もし、何かあっても心残りがないように……と、この連載は私のモットーを貫いて書いた。それは「つらいテーマを追う時ほど、ユーモアを忘れない」ということだ。 笑いに満ちている世界って、すばらしいと思う。 


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