新・眠らない医者の人生探求劇場・・・夢果たすまで

血液専門医・総合内科専門医の17年目医師が、日常生活や医療制度、趣味などに関して記載します。現在、コメント承認制です。

医療従事者の心理的負担と・・・・おまけでゆで蛙

2008-02-29 19:35:10 | Weblog
こんばんは

学会1日目が終わりました。やはり学会は面白いですね。特に今日は急性放射線障害・・・被爆事故などの対応の話は端から端まで聞いておりました

また、今日は先ほどせっかくなので梅田を歩いてきました。迷っておりましたが・・・。人ごみが・・・すさまじかったです・・・

さて、今日の学会発表の中に実は抄録でしか確認していないのですが、「血液疾患に関わる医師・看護師の職業性ストレス・抑うつ尺度の現況」という発表がありました。

血液疾患は「診断」から「治療」まで行える魅力的な職場です。
しかしながら、書かれている通り血液疾患の多くは「悪性」であり・・・時間単位で状況が変化し緊張感を伴い(というか持続し)、治療不応例や緩和医療など業務内容が多岐にわたる。それに関するストレス調査をした報告ですが、一言で言えば経験の浅い人間を中心に健康リスクが高い

血液診療に関わるスタッフには強いストレスがかかっており、原因として仕事の量・質が上げられている

・・・・・

しかし、これは血液診療に特有なわけではない(まぁ、血液はさらに特殊かもしれませんが)。

多くの医療従事者が「仕事の量・質」が増えてきており、強いストレスがかかっているのだ。

何といっても人の命に関わりますから・・・・

だから、今こそ状況を変える為に動き出す必要があると思います


蛇足ですが・・・「ゆで蛙」という実験があります
蛙を熱湯の中に放り込むと反射的に釜の中から飛び出てきます。

しかし、蛙を水の状態から釜の中に入れておき・・・徐々にゆでていくと熱さの変化に気がつかずに「ゆで蛙」になってしまうのだ

今の日本は「徐々に変化」しています。いや、かなり急に変化しつつありますが・・・それでも連続変化ではあります

それに気がつかずにいると・・・我々日本国民も「ゆで蛙」になってしまうかもしれません。

医療と教育・・・社会福祉関係については、今こそ改善しなくてはならないと思います

では、また。

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今の日本の教育は?

2008-02-28 19:32:28 | 教育
こんばんは。

今、実は大阪に来ています。明日から始まる「造血幹細胞移植学会」に参加するためです。別に演題があるわけではないのですが、病棟を担当しているわけではないので「勉強のため」に来ています。

ま、他の用事もあるにはありますが・・・

しかし、このビジネスホテル。グッド。一応、温泉がついているし(サウナもありました、いろいろありました)朝も温泉に入れるし・・・。学会会場には歩いていける距離だし(歩いてきました)

今日はいくつか書きたい・・・と思っていることがあるのですけど、今日は医学関係ではなくて・・・僕がもう一個関わりたかった職業・・・教育のほうに関して書きたいと思います。

あくまで小学校~高校まで違和感を感じていたことのまとめのようなものです。あくまで個人の意見ですが、ちょっと書いてみたいと思います。

教育の目的って何でしょうか?
状況によって違いますが・・・とりあえず「個人の能力を伸ばすこと」だとは思います。それが個人のためか、それとも全体のためか・・・

過去の社会において・・・いや日本においては今現在も、教育というのは「上に都合が良い」人間を作る、つまり「全体のための教育」だと思います。

何が言いたいかというと「教育」によって、上のいうことを聞いて何かを行うことはできるけど、自分自身で考えて何かを行うことができない人間ばかり作っている。

わかりやすくたとえてみると、今の教育は子供たちを「紙飛行機」にはしているが「ラジコン飛行機」にはしていない。「紙飛行機」は大人になると「グライダー」になり、ラジコン飛行機は大人になると「飛行機」になる。

端的に言うと「自分で飛べるか」「飛べないか」の違い。自分で飛べない人間を増やしてどうするのか?

つまり、親も教師も・・・今の教育制度のあり方の中では「自主性」を育てていない。つまり、誰かに言われればできるが、自分で考えてやりなさい・・・というとできない人間が多い。特に塾にばかりいっていた人間の中に多いように感じる。

もちろん、塾に行っていたからそうなるわけではない。塾に行っていた人の中にも大勢の人が「自主性」というものを学んでいるとは思う。

ただ、こういった危機感がある。

今の教育のシステムでは「知識を多く学び、学校の先生がこのように解きなさいといったことを実際にできる子が優秀知識を多く学び、学校の先生がこのように解きなさいといったことを実際にできる子が優秀」と考える節があるようにみえる。学校でよい成績をとるために「塾」へ行って「解答」の仕方を学んでくる。

周りの人間よりより多く「解答の仕方」を覚えた人間が優秀。

自分のやり方を学ぶようになっているでしょうか?

僕は因みに覚える能力・処理速度では「パソコン」には絶対(w)勝てませんし、医者としては携帯端末(実際は持ち歩いてないですけど・・・覚えているほうで・・・)でも持ち歩いていれば良いと思う。

何を覚えておくか・・・が重要だと思う。重要でないことは忘れたほうが良いし、むしろ「ここにその情報はある」ことだけ覚えていれば良いのだから、楽なものだ。

そう、このままでは「自主性」というものが失われてしまうと思っています。

しかし、学校は知識を覚えるところ・・・というのも間違いではないと思っています。

だって、知識がないと「応用」できませんから。「応用するための知識」を学校で早期に吸収してもらわないといけない。

いや、子供たちなら「知識」は吸収して行っています。あの時期であれば「飲み込み」も早いでしょうし、「興味・好奇心」もあるでしょう。珍しいものばかりなんですから。初めて触れることが多いので、勉強に時間をかければそれだけ学ぶことができます。

ただ、先日「アンフェタミン的多重知能理論http://blog.goo.ne.jp/amphetamin/e/e1c612b049a99155eefbc9518f9e8680」でも書きましたが、あくまで子供たちにも「知能の傾き」に個人個人で差があるので・・また、興味の対象も違う(僕は生物学・文学・歴史でしたね)ので吸収する速度が違う。逆にそれを伸ばしてあげることが重要なのに・・・と思っています。

子供は天才ですよ。ただ、その天才が・・・大人たちの「IQ」の神話のために、知的能力がそれほど高くない(そのほかの能力がずば抜けているのに)と評価されなかったりするのだ。

因みに小学校のとき(何年生だろう?)知能テストをサボりました。しかも、「こんな紙切れで自分のことを決められてたまるか!」といって、保健室へ行ったそうで、その日父親にぶん殴られましたw

余談ですけど・・・・orz

その天才を伸ばしていけばよいのですけどね・・・・。間違いなく、それができるようになれば「新しい社会」も出来上がると思います。まぁ、それがなかなかできないわけですが・・・。

ゆとり教育」にしても・・・あれの趣旨は「教育は自分探しの旅」を助けるものであり、社会の中で生きていくための基本となる知識を身につけ・・・一連の課程で試行錯誤を経ながら「自己実現」を目指す。

ゆとりを失ったために「自己実現」や「心の豊かさ」を実感するにいたっておらず・・・・今後の日本は「個性が尊重」され、「自立した個人」が「自己責任」の下に選択を行っていく成熟した社会・・・を目指すものである。

別に「ゆとり」というのは「勉強をするな」、勉強の時間を減らせではない。

ガンダムの台詞を少し変えて使わせてもらうと
あえて言おう、馬鹿であると

誰も、そんなことを目指すのではなくて「評価法」を変えればよいだけなのに・

だから、ますます「塾」での勉強が盛んになって「ゆとり」も失われていく
「塾」で勉強の仕方を教わっても、将来何にもできない子供も出てくるのよ?

高校時代、僕よりもはるかに成績の良かった同級生は大学に入ってから、まったく勉強ができませんでした。僕は医師国家試験の前の2ヶ月ほど、毎日2時間勉強を教えておりました。

これは「自分で勉強する」方法を見出せなかったからではないか・・・と思うのです。彼は「教わったことをこなす」という意味では「優秀」だったかもしれません。じっさい、「教わるの嫌いw」な僕よりはずっと大学入試やセンター試験などは点数とってましたしね。

しかし、大学やそこから先の社会は「自分で学んでいくところ」です。

塾を否定するわけではありませんが、塾だけがすべてではない。

僕は公立の小学校、中学校、市立高校→某国立医科大学と進んでいますが、別に塾に特別に行ったというのは・・・浪人中にいったかw・・・・・くらいですね。

ついでに僕の見た感じだと・・・これからの社会は「個人主義」・・・に加えて情報の社会(みんな思うでしょうけど)ですよね。何が言いたいかというと「産業革命」以来の流れが終わり、IT関係や株の売り買いなどをはじめ「情報」とその処理による利益を得る時代に変わりつつあるように思います。

もっと言うと産業革命のときに必要だった「ある程度のことをみんなができる、理解する能力」は求められていない。そんなもの、今の時代はコンピューターなどがもっとうまくやってしまう。このまま行くと「人間」はコンピューターに負けます

それも含めて、そしてこれからの日本を作っていく子供たちのために、そしてその子供たちにお世話になるかもしれない我々のために、そして彼らが作り上げていく将来の世界に住む子々孫々のために、教育というのを変えていかなくてはならないと思います。

これが僕のいいたいことの一つ目です。ちょっと過激になっていますけどw

これから、ちょっと近くで一杯引っ掛けながら夕食とって来ます。気が向いたらもう一個簡単な記事を書きます~。
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医療にどうお金をかけるか:札幌産婦人科二次救急撤退!?

2008-02-27 21:13:18 | 医療
こんばんは。

今日は突然、母校の教授からメールが来ていてびっくりしました。
う~ん、どこかで引き気味になっていることをご存知なのだろうか?それとも、本当に偶然お世話になっている研究室の教授とあったときにほめていましたよ~というそれだけのメールなのだろうか?

本日は北海道新聞から、この記事です。

重症救急撤退を通告 札幌市産婦人科医会 市に「夜間の負担増」
(02/27 07:19)
 札幌市の産婦人科の救急医療で、重症患者を診る二次救急を引き受けている札幌市産婦人科医会(遠藤一行会長)が「各病院の負担が重く、これ以上は担いきれない」として、二次救急からの撤退を市に申し入れていたことが、二十六日分かった。市は医師や住民による協議会を三月中に設置し、負担軽減策を話し合う考えだが、同医会は具体案が出ない場合は、九月で撤退すると通告している。市内では現状でも妊婦のたらい回しが起きており、撤退となれば、市の産婦人科救急に大きな影響が出そうだ。

 札幌市の各診療科の夜間、土日・祝日などの救急体制は《1》軽症者を診る初期救急《2》初期救急の医療機関から重症者を受け入れる二次救急《3》より重症な患者を二十四時間受け入れる三次救急-に分かれている。このうち、産婦人科は同医会所属の医療機関のうちNTT東日本札幌病院など九医療機関が、二次救急に加え、夜間(午後五時-翌日午前九時)の初期救急も担ってきた。

 担当医師の負担が増えたのは、産婦人科医の減少で二次救急を毎日交代で引き受ける医療機関が、四年前の十四から五カ所も減少したため。各医療機関の担当回数が二週間で一回から一週間で一・三回程度に増え、担当医から「産婦人科は慢性的な人手不足で、受け持ち患者の診療と出産で手いっぱい。これ以上、救急を分担できない」と、声が上がった。

 このため、同医会は二○○八年度に向け、市の夜間急病センターに夜間の初期救急を診る産婦人科医を置き、初期と二次を分離するよう市に要請した。遠藤会長は「センターで患者を振り分け、子宮外妊娠や早産などの重症患者だけを二次救急に送れば、医師の負担が大幅に軽減される」と説明する。しかし、市は新年度予算案に、二次救急医療機関への報酬の一千万円増額を盛り込んだものの、センターへの産婦人科医配置は見送ったため、医会として撤退を申し入れた。

 市医療調整課の飯田晃課長は「夜間急病センターに産婦人科医を配置すると、約七千万円の予算が必要になる。財源が限られる中、住民合意を得られるだろうか」と説明。三月中に協議会を設置し、負担軽減に向けた代案を話し合う。

 医療機関に二次救急を担う法的な義務はない。撤退が決まった場合、市が個別の医療機関に担当を依頼しなければならず、三次を担う市立病院や、市の依頼に応じる一部医療機関の負担が増大するのは確実。最悪の場合は救急体制が崩壊する恐れもある。

 遠藤会長は「医療にどうお金をかけるか、市と住民で考えてほしい」と話している。


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まさに医療にどうお金をかけるか・・・・

札幌圏内180万の人々が良質な産科医療をうけることが、国の政策のために不可能になるかもしれません。180万の人々のために産婦人科医が犠牲になればよいのだ・・・という方もいらっしゃるかもしれませんが、医者も人間です。家族もいます。その人たちにすべてを投げ出して、家族や自分の命すら削って、すべての人のために尽くせというのは・・・・酷なことではないでしょうか。

僕も「すべての人のために尽くす」をモットーにはしております。
ただ、優先順位をつけているだけ。

昨日飲んでいるときにも、後輩から突っ込まれていましたが
「自分の家族を犠牲にしてまで全ての人のために尽くすような偉人もいるかもしれないが、僕は少なくとも優先順位をつけている。家族や友人、仲間・・・そういった人たちの生活とかが確保されているからこそ、人のために尽くせる。」

そう思っています。家族や友人を犠牲にしてまで、大事な人を犠牲にしてまで全体に貢献できるほどのそういうタイプではないのです。僕は自分自身だけならいくらでも犠牲にできますけどw と~の昔に死んでいてもおかしくなかった人間なのでw

また、先日ではありますが、このような記事もありました

道内都市部も救急体制に危機 医師不足で輪番制、窮地に(02/20 07:50)


 道内の都市部で医師不足を背景に救急医療体制が危機にひんしている。函館や帯広では、夜間休日に重症患者を交代で受け入れる二次救急病院が「輪番制」を維持できず、診療科によっては救急当番がない「空白日」が生じかねない状況になっている。道は二次救急病院の負担軽減に向け、地域の開業医が夜間休日診療を拡大するよう新年度予算で支援する方針だ。

 「このままでは四月からの夜間救急に穴があく」。十八日夜、函館市内で開かれた地域の救急体制を協議する会合。終了後、函館市医師会幹部は危機感をにじませた。

 函館市を含む二市七町は、夜間休日に入院や手術が必要な重症患者を、市内九病院が月一-十回の当番日を決め受け入れてきた。しかし、今年に入って二病院が医師の退職などを理由に、救急当番の日数削減を決定。会合では残り七病院が月四日程度となる削減分を穴埋めする案について協議したが、負担が増える病院から慎重論が出され結論は持ち越した。「当番を肩代わりすればパンクしかねない」。ある病院関係者は打ち明けた。

 帯広でも輪番制を担ってきた市内三病院のうち、二病院で整形外科医が確保できない事態になっている。四月以降、骨折などの重症患者に対応できない可能性があり、他の病院に輪番に加わってもらうよう協議中だ。

 「医師不足の上、都市部の病院に患者が集まる傾向が強く、札幌でさえ救急は綱渡り。救急医療機関の減少も響いている」と北海道医師会の目黒順一常任理事は訴える。

 入院患者などを受け入れる「救急告示医療機関」として知事から認定を受けているのは一日現在、道内で二百七十七施設。医師不足などでこの一年間に十五施設も減った。

 年間約百二十件の救急搬送を受け入れていた渡島管内森町の新都市砂原病院は、昨年夏に告示を返上。関係者は「夜間の急患に対応するには、放射線技師や看護師の確保も必要。赤字も負担となりやっていけなかった」と話す。上川管内上川町立病院も医師不足で、昨年秋に告示を返上した。

 救急体制の危機的状況の背景には軽症患者が、二次や三次の病院に流れていることもある。軽症患者は本来、道内各自治体が設置する休日夜間急病センターや開業医が交代で担う当番医が受け入れることになっている。このため道は、新年度予算で当番医への補助を増額し、一次救急の受け入れ先を増やすことで救急患者の集中を緩和したい考え。道医療政策課は「症状が軽い時は日中の受診や一次救急の利用など、住民も協力してほしい」と呼びかけている。

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今、壊れつつある日本の医療を食い止めれる最後のライン(zero point)に近づいていっていると思います。

日本の政治家は医療という「実際に金にならない」と思っている分野(特に天下りもありませんし)に金をかけたくないのかもしれませんが、医療崩壊が起これば、経済活動の安定性も失われ、経済不安を招く可能性があるとは思わないのでしょうか?

今は良くても、将来子供たちの数が少なく、やっていけなくなる可能性は?
2020年代には月に入植が可能になるかもしれません。生活範囲の拡大に伴う、人材の確保はどうするのでしょうか?

日本は最も重要な要素に金をかけていないように思えます。

一番重要なのは将来への投資である「教育」であり、子供たちの未来がなければどのようにもならないと思います。

一方で、経済というものは重要ではありますが・・・・恐らく、産業の時代から新たな時代に移り変わって行っている時期でもあり、目線を変えればまだまだ日本は活躍できると思います。

むしろ、今医療崩壊が起きれば・・・生活不安・将来への不安から「購買力低下」へつながり、経済を脅かすでしょう。また、親の介護や入院費の増加、高齢者医療制度もそうですが・・・様々な改悪により起こる現象のため、働き手が少なくなるかもしれません

他にもいくつか思うところがあります。病院というものもひとつの労働場所であり、患者さんの搬送など様々な人的労働力がまだまだ必要で、ニートの人の働き場所にもなります。
大勢の患者さんやお見舞いの方などが来る病院は、もしかすると新しい出店場所のひとつになるかもしれません(ぼくはジムがあったら通いますw)

いずれにせよ、今医療は危機に瀕しています。そしてそれを食い止めるぎりぎりのラインが迫ってきていると思っています。一度壊れたものを再生するのは難しい(新しく作り直したほうが良いか?)

医師数の増加もそうですが、それらの政策を行うための医療費。医療政策関係費の確保を政治家の方々にお願いできれば良いなぁと思っています。

明後日の「造血幹細胞移植学会」のため・・・明日、大阪に移動します。
学会でいろいろな知識を吸収するのは好きです。楽しみです

問題は、明日飛行機が飛ぶかどうかだな・・・・
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夢を追うには

2008-02-27 00:35:15 | Weblog
こんばんは

今日は後輩と少し飲みにいっておりました。この後輩も含め、いい後輩が多い職場です。

それで、少し酔っていますので・・・簡単な記事だけ書きたいと思います。

いろいろと個人個人で目標というのがあると思うのですが、その目標というものに関してです。

多くの目標は個人のものであり、自分自身がそれに邁進していけばよいのだと思いますが・・・中には複数で夢を見たい目標というものもあるかと思います。

個人の目標としては・・・いろいろありますが、医者としてどうなりたいだとか、家族・友人・・などいろいろあると思います。

一方で・・僕は青臭いのかもしれませんが、もしくは偽善なのかもしれませんが・・・優先順位をつけた上ですべての人が幸せになるような社会に慣れればよいと思っています。

こういった夢は大勢で見れたらよいなぁ・・・と思ったりしています。

明日も早いですので、これだけの記事で失礼させていただきます。

では、また。
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慢性期医療と急性期医療

2008-02-25 21:28:57 | 医療
こんばんは

相変わらず、自己内省を続けています。自分をもう一度見つめなおし、本当の道を(自分の思いをもう一度理解し、自分の道を再び決定する)決めたいと思っています。そのためには時間がもう少し必要だし、本当はいろいろな人と話をしたいところではあります。

ただ、少しずつ何かが見えてきているように思います。もう少し、もう少し・・・そう思っています

さて、今日の記事はYahooのTopicとCBからです

まずはYahoo

「医療難民が出ないか」 療養病床削減で議論 2月25日17時3分配信 紀伊民報



【療養病床削減について話し合う介護保険地域連絡会(和歌山県田辺市新屋敷町で)】

 田辺市や西牟婁郡の医師や看護師、介護支援専門員らによる「介護保険地域連絡会」が23日、田辺市新屋敷町の市医師会館であり、地元医療・介護関係者が、国が進めている療養病床削減について議論した。出席者からは「高齢化が進む中、削減できるのか」「医療難民介護難民を生み出さないか」などと心配する声が相次いだ。
 田辺市医師会と西牟婁郡医師会、県介護支援専門員協会西牟婁・田辺支部主催。県長寿社会推進課介護保険班の森本修司班長が療養病床再編についての国や県の計画や進め方などを説明し、白浜はまゆう病院(白浜町)の西浦敏和事務長が「地域からの報告」として講演した。
 「療養病床」とは高齢者ら長期療養を必要とする人を受け入れる病床で、医療保険の医療療養病床と介護保険の介護療養病床がある。医療の必要性が低くても、行き場がないために入院してしまう「社会的入院」が多く、一般病床の不足や、医療費の無駄につながっていると指摘されている。
 森本班長によると、全国に医療療養病床が約25万床、介護療養病床は11万~12万床ある。国は医療費抑制医療資源の効率化などを目的に、2011年度末までに、比較的医療の必要性が高い医療療養病床を約15万床残し、残りを削減。介護療養病床は廃止する。県もそれを受け、療養病床を約半数の1551床にする目標を掲げている。
 医療の必要性が低い人は、療養病床から、老人保健施設やケアハウス、特別養護老人ホーム、在宅療養などに移ってもらうという。そのため、受け皿を増やすとともに、利用者が同じ施設で入所を続けられるよう、国は療養病床を新しい「医療機能強化型老人保健施設」へ移行する方針を立てている。
 西浦事務長は白浜はまゆう病院の療養病床の転換を決めかねていると報告。ほかの医療機関でも、経営面が不透明で不安があり、4月に改定される療養病床の診療報酬と、新しく設定される老人保健施設の報酬を見て、方向を決めるところが多いという。
 西浦事務長は「医療は急性期医療だけではない。良質な慢性期医療がないと地域医療は成り立たない」と療養病床の必要性を訴え、「高齢化率が高まる上、急性期病院で平均在院日数が短縮される中、本当に療養病床を削減していいのか」と疑問を投げ掛けた。
 最後にシンポジウムがあり、出席者から「高齢化に伴い、逆に今後療養病床を増やせという話にもなりかねないので、療養病床からの転換は進まないのでは」「介護支援専門員は生活を支援できても、医療が必要になった場合、どう対応できるかが課題」「介護支援専門員と医師、看護師と高度に連携を深める必要が出てくる」などの意見が出た。

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この記事で「驚くべき」国の姿勢があらわれています。

それは「社会的入院」は「医療費の無駄」というもの。
行き場のない高齢者に関して、国が医療費でフォローするのか他の費用でフォローするのか、いずれにせよ国がフォローしていくのが望ましいでしょう。

しかし、社会的入院は「医療費の無駄」だという。

確かに、ある程度自分で生活できる人は「入院」の必要はないと思います。しかし、医療の必要性が低い・・・・と書いてある、すなわち完全に健康ではない身寄りのないお年寄りを入院させるのは無駄だろうか?

僕はそう思わない。むしろ、別な理由で入院している人のほうが・・・・無駄かもしれない。例えば「社会的地位が高い人だから」とかね。

社会的入院を無駄と思わない理由は二つ。

ひとつは経済的問題。社会的入院が減ることで(介護施設が増えたりしない限りは)おそらく、介護のために仕事をやめたりする人も出てくるのではないかと思うのです。いや、実際にいます。

それを考えると「少子高齢化」が進む中、何故社会的入院を減らす必要があるのか?

そう思います。

2つ目は「社会的入院」という形でも、ある程度身寄りもなく、行動範囲が狭い(広い人は入院する必要はないでしょうし、入院しないでしょう)人の場合、その人の安否を誰かが確認する必要があります。

また、医療の必要があれば往診なども必要になるでしょう。そういったシステムができてもいないのに「金」がすべてだと思っている、政府(支持率20%台ってすごいですねw)が不思議です。

過去の日本であれば・・・この「個人主義」の流れが合ったとしても、おそらく「助け合い」の精神で「社会的入院」が必ずしも悪ではない・・と判断したのでしょう。

高齢者の社会的入院に関してはそう思います・・・・。

さて、急性期に関してはCBからです。


2次救急の受け入れ実態など分析へ

 厚生労働省は2月25日、入院や手術による治療が必要な患者の受け皿となる2次救急医療機関による都道府県ごとの受け入れ状況や、勤務医の実働実態などに関する分析を実施することを決めた。分析結果は、早ければ年度内にも各都道府県に情報提供する方針。


 同省によると、都道府県ごとの2次救急による患者の受け入れ状況などついては現在でも毎年調査しているが、これまでは踏み込んだ分析や調査結果の公表などはせず、相談に応じて情報提供する程度だった。
 しかし、医療機関から受け入れを断られて救急患者が死亡する「たらい回し」が国内で相次いでいるため、救急体制の整備を進める上で国として都道府県を支援する必要があると判断した。

 具体的には、2次救急医療機関による受け入れ状況や勤務医の労働実態などを都道府県ごとに分析し、各都道府県が実態を客観的に把握できるよう、年度内にも情報提供する。場合によっては2次医療圏ごとの実態にまで踏み込んで分析するという。

 厚労省は、25日に開いた都道府県担当者向けの会議で救急医療体制の整備について、「都道府県や市町村で対応していただくのが基本。私どもは(より重症な3次救急を受け入れる)救命救急センターの量と質という点では相当力を入れてやってきた」などと強調した。

 一方で、2次救急医療機関における過重労働や、1次救急の機能低下に伴うしわ寄せが3次救急などに及んでいる可能性を指摘し、「階段をひとつ降りて、(救命救急センターだけでなく)2次救急医療機関の量や質の確保についても実態把握し、結果に応じて必要な措置を講じなければいけないと考えている」と説明した。

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すいません。本当にこの記事を読んだ時、

「日本の官僚は・・・相当力を入れてやってきてこの程度なのか?」

と思ってしまいました。3次救急。確かに日本の救急医療は3次救急を中心に展開してきたかもしれません。

3次救急の患者は一般には10%未満。10%未満の患者を診ることに力の大半を注ぎ込んで、残りの90%以上を診療している「1,2次救急」の病院に力を入れていませんでした。

こう書いてしまったら・・・「厚労省のお役人は何をお考えなのだろう?」と思われると思います。僕もそう思いました。

ついでに言うと、3次救急の場合と2次救急(1次救急はまったく違うでしょうね)はやっていることに差があると思います。
患者さんが・・・というのではなくて、基本的に3次救急は「後送」施設なのである意味「診断」よりは「治療」。2次救急は「軽症~中等症」と思われる人を中心に「診断」をして必要があれば後送する。

当然、やる内容が違う以上、両方を行わないといけないのではないかと思います。

これからの厚労省の活動に期待ですね♪

さて、僕はもう少し自分のことを見つめなおしたいと思います。自分のことがもっとわからなかったら、うまく時間を使えそうにないからです。

Please, give me some advice

なんちゃって・・・・。ふぅ、もう少しで立ち直る切欠を作れそうなんですけどね。
さて、頑張ってみるかな

P.S:先ほどから強く思うのは、医者としては「血液、腫瘍」の分野で直接的に患者さんを・・・、また間接的に「研究」を通して多くの人の役に立ちたいと思っています。

ただ、さらにその奥に・・・・可能であれば「第3世界」といわれる国々の人たちに「教育施設」を「医療施設」を建てていきたい。第3世界のまだ表に出てきていない「才能」が開花されていけば、きっと世界中がもっとよくなるのではないかと思います。

う~ん、その前に自分自身だな・・・。
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今の日本を見て思うこと

2008-02-24 23:00:31 | 教育
さて、今日は少し頑張ります

今の日本を見ていて思うこと。それは「個人主義」の社会情勢に入りつつあるのに、それに対応する動きをしていない人々。

今までであれば「誰かが困っているから助けよう」という社会システムがあった。また、総中流社会といわれるほど、どちらかというとある程度の生活力がある人が多かった。

だからだろうか。「ニート:NEET(Not in Employment, Education or Training)」と呼ばれる人々が増えていることも心配である。

ニートが増えている原因として「目標設定」などができていないために、何をしたいかがわからないということなのだろうけど・・・「何をしたいか探す」という行動はとらなくてはまずいのだろうか?

あと、心配なのは・・・これから彼らを支えていく人がいるのだろうか?
今後は「自助努力」を中心とした社会になっていくと思う。すなわち、社会保障がある程度までしか保障されていない。
まぁ、アメリカを模範にしているから・・・当然そうなるでしょうね。

そう考えると・・・・・この人たちは将来生きていけるのだろうか・・・と心配になる。

何故、ニートなのか?やはり教育の問題だと思う。政治の問題だと思う。

子供のころの教育・・・それは子供たちの才能を伸ばしてあげるようなものが望ましい。しかし、親にしてもわからないことが多いだろうし、難しいと思う。

ただ、自分の子供の才能が何か・・・、もしくは興味がどういう分野にあるのか、将来の夢は何か・・・・そういうことを話をしていけば伸ばしていけるかもしれない。

「ゆとり」教育に関して・・・実は「小中学校」に関してはある程度詰め込みでも良いと思うようになりました。応用力を発揮する知識を先に身につけないといけないから。

しかし、小中学もある程度(塾などではなくて、授業のあとに・・・個人の才能を伸ばせるようにしないと)・・・そして高校からは個人の才能や将来に向けての準備を始め、大学ではその目標に沿って学ばないといけないのではないかと思う

今は変革の時期に来ている。それはまさに平成維新・・・・。

医療も教育も・・・たぶん、世界の流れも・・・そう感じています。
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「アンフェタミン的多重知能理論:個人の考えですけどね」

2008-02-24 21:49:02 | 教育

こんばんは。

今日は朝から雪かきで始まりました。大雪・風雪で航空・道路網共に大変だったようです。我が家の前は一晩で30cmもつもり、車庫や屋根の上の雪の量が大変なことになっていたので、雪下ろしをしていました。

弟も帰ってきていたので、総出で行い1時間半ほどで蹴りがつきましたが・・・。

さて、多重知能理論に関してです。
これはあくまでハワード・ガードナー氏が提唱された理論ではあるのですが、あくまで内容は

「知能というものはIQだけではなく、様々なものがある。だから、人間はそれぞれ得意としている(もしくは才能がある)知能分野(運動知能・・というか運動能力なども含む)を生かしていく。才能を引き出す」というような内容で、オーストラリアとかでは教育などに積極的に含まれています。

僕はこの理論に自分なりの解釈を加えているだけですが、個人的には気に入っています

「あくまで人間の才能の総量は一定(高いレベルで)であり、個性・特性とは様々な才能の偏りでしかない」

そう考えています。例えば天才的な画家がいたとして、その人の才能は「絵画」関係に20%、他の分野に2~3%・・・ある分野には0%とか・・・

歴史を紐解いていくと、本当の天才的な偉人というのは「何か違う」ところがあります。才能の偏りが大きい人が天才なのではないだろうか・・・?

僕は才能・・・の総量はすべての人で同じだと思うので、すべての人を尊敬したいと思っています。いや、すべての人から何かを学べると思っています。必ず、人と自分が違う以上何か学ぶことができる。

そう思うと「人」を見る目が変わってきますし、謙虚になれると思います。

ただ、才能というのは「グラフの傾き」だとも思っています。

エジソンが言う「1%の努力と99%の才能」というのは努力の重要性をいったともされていますが、実際は「才能がまったくなければ努力してもだめだ」といったそうです。

この才能が0%であったら・・・傾き0ですから・・・努力しても「プラス」にならない。ある分野に関して・・・好き、嫌いというのは重要な才能だと思うので、少なくとも傾き0ではないと思いますが、もしかすると指数関数のようになっているかもしれないし(大器晩成型?)、嫌いだと傾き「マイナス」かもしれません。

横軸が努力、縦軸が能力(獲得能力)だとして、傾きが才能

「才能は万能ではなく、努力(根気)こそが万能である」といった、カルヴァン大統領・・・。僕はその話が好きなのですが、それもこう考えれば才能だけで努力しなくては・・・人のためになる能力としては低いラインで終わってしまうよ・・・ということだと納得できるのではないかと思います。

才能の総数が一定で・・・僕と違うところが多ければ多いほど・・・違った才能があるに違いない・・・。
そう思ってみていると、いろいろな人の良いところが見えてきます。

だから、僕は「多重知能理論」に「才能の総量は一定」というキーワードを加えて、自分の考えにしています。

個人意見ですが、まず今日の記事として書き上げたいと思います。

もし、時間があったら・・・今考えをまとめているほうの話も書きたいと思います。

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皆様はいかがお考えでしょうか?

2008-02-23 19:19:41 | Weblog
こんばんは。

今日の札幌はべた雪です。Heavy snowです。
しかし、べた雪になってきたというのは暖かくなってきているということでもあり、春が近づいてきているのだろうと思わせます。

さて、今日は実験と英会話をして帰宅し、その後はずっと考え事をしていました。まぁ、考えることの好きな僕ですから気がついたら夕食の時間になっておりましたが・・・・。

皆様はいかがお考えでしょうか?

一つ目は自分自身について見つめなおしていました。
僕は医者という仕事が好きです。もともと生物学を趣味としていた小学生のときからの延長に近いのですが、医者という仕事は「人のために生きたい」「人のために死にたい」という自分のスタンスにも、興味の方向にもあっており・・まさに「天職」だと感じています。

また、僕のもうひとつのスタンスとして「人のために何かをする」ことが「自分のためにもなればよい」と思っていること。

医学に関しての勉強は「僕の知的欲求を満たし」てくれます。
診療もそれを使って人のために奉仕できるし、診療という現場で学べることも多々あります。僕はどんな条件下でも診療行為というのは、「緊張(自分の全能力を尽くして患者さんのためにならなくてはならない。また、何か隠れていないか自分の中を必死で探さなくてはならない)」と不謹慎ながら「楽しさ(新しい何かを見つけられるかもしれない)」という気持ちが常にあります。

研究も人のためになるのであれば、僕の知的欲求を満たすうえに目標にも向かっており、楽しいことこの上ない。もっとも、今の実験室の指導医に「僕は君の実験なんか興味もないし、その仕事がどれだけの人のためになるかと思っているけどね」などといわれ、ちょっと喧嘩状態ですがw

他にもともかく関係各所を改善したいという気持ちもあり、そういう行為をしていると僕は生き生きしていて、どんなにつらい状況でも頑張れるようです。

そう、いろいろな目標があって(医療に関しては果てしない目標ですけど:「腫瘍の撲滅」ですからw)、それを達成しようとするときはやっぱり生き生きしますよね。誰でもそうだと思います。

そう、僕は目標に向かって邁進している限り、どんな状況でも生き生きしていると自分で思っています。

現在の職場に関しては「改善案」を出して、良くすることが目標であったが、それが潰えてしまい・・・現在目標を失っている状況。つまり、面白くない状況である。ま、この目標が個人ではなく全体を巻き込む目標だったのが良くなかったのかもしれない。改善ではあるのだが・・・・

目標を持って、それに向かって進んでいれば・・・。そしてそれが自分の本当の生き方に合っていれば・・・自分自身が生き生きしてくると思う。

その目標をどう定めるか。また、目標を見失った場合はどうするべきなのか?

また、今の医療に関して改善したいという目標もある。
いや、日本を新しい時代の波に・・・・というところでしょうか。

今の流れは、過去の日本の流れである「村社会」のような「共存・共生・助け合い・みんなで足をそろえて・・・」という考え方から、「個人主義」ともいうべき状況に変わってきていると思う。

それは今の社会保険制度・医療制度を見ても一目瞭然である。現代の日本人、特に僕らの世代の人間以降は「個人主義」の流れ、「まず自分があって」という流れになっていくだろう。

だって、助け合いの制度ではなくなってきているのだから。そう考えました。

個人主義の流れ・・・というものは「自己責任」の流れでもあり、これそのものには反対するどころか賛成です。しかし、村社会のよさを確実に残しておく必要もあると思っています。

もうひとつ・・・考えていたことがあります。未来は一秒後のことすら明らかなものはないわけで・・・・、我々に100%の安全はない。我々は選択をしながら生きているわけですが、その選択に100%の選択はないでしょう。しかし、それが正しいとか、間違っているとか言うこともないはずだ・・・と思っています。

何を考えているかというと、僕は自分の職場での目標を失い、生きがいを感じていない。これはひとつの事実です。それに対して僕はどのような選択を取るべきか・・を考えています。どれも100%の選択肢などというものはない。
ならば、生きがいを感じていない場所にい続けるのは人生の浪費ではないだろうか・・・と思うわけです。

その選択肢を・・・いろいろ考えています。

また、今の医療事情に関しても・・・混乱のさなかではありますが、これはむしろチャンスだと思います。そう、チャンスです。

これに関しては別タイトルで書いてみたいと思います。

そんなことを考えながら・・・今まで3~4時間ほど瞑想していました。
皆様は自分自身や、そのほかのことに関していかがお考えでしょうか?

また、僕の考えていることにもいろいろアドバイスをいただけますとうれしい限りです。

では、また~。
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死因究明の前に・・・。医療をこれ以上悪化させないことが必要では?

2008-02-22 20:59:06 | 医療
こんばんは。

昨日の風邪で今日も多少しんどかったのですが、医者って患者さんがいたら休めないですよ。数日前・・ある先生も40℃くらいの熱でふらふらしながら病棟にいました。さすがに患者さんに不利益があったら困ると思われたのか、19時ころには帰っていらっしゃったみたいですけど。

僕は今日はかなり良くなってきてましたので。はい。頑張れましたw

さて、今日もCBからとってきました
これです。

医療事故の届出と遺族感情


 「この数行ではやはり判断できない。十分でないところがあり反省している」――。医療事故の原因を調べる第三者機関の創設で争点になっている「届け出の範囲」について、厚生労働省が示した事例に委員から批判が集中した。厚労省の担当者は「個々の患者の状態によっても条件が違う。本来は何十ページも必要で、それをサッと切ることはできない」と弁解した。届け出が必要なケースを具体的な事例で明らかにしていこうという厚労省の試みは評価すべきであるが、遺族の感情を考えると事例を単純に振り分けられない。(新井裕充)


 厚労省の提案では、医療事故と考えられるような死亡が院内で発生した場合、第三者委員会に届け出るべきかどうかの第一次的な判断を医療機関が独自に行う。

 これまでの議論では「届出の範囲をしっかり決めないと現場は混乱する」という意見が再三にわたり出ていた。

 厚労省は2月20日、「診療行為に関連した死亡に係る死因究明等の在り方に関する検討会」(座長=前田雅英・首都大学東京法科大学院教授)で、届け出の範囲を判断するためのフローチャートを示すとともに、これに具体的な事例を当てはめて提示した。
 実際に起きた医療事故の事案を数行にまとめる作業には大変な苦労が伴ったことが想像されるが、逆に批判を浴びる結果になってしまった。

 議論の発端になったのは、「届け出不要」に分類された事例16で、次のとおり。
 「虚血性腸炎を疑い、緊急に大腸内視鏡検査を実施したところ大腸粘膜の色調が悪く、壊死の可能性も疑われ、慎重な経過観察が必要と考えられた。治療としては、心疾患や糖尿病等の合併症の程度等を考慮し、保存的治療(絶食、輸液など)を行うこととした。検査中は特に全身状態の変化なく終了し病棟に戻ったが、その後、急に腹痛を訴えるなど容態が悪化したので腸管穿孔を疑いX線写真を撮影したところ、遊離ガスが認められ腸管穿孔(せんこう)と判断された。その後、適切な措置を施したが死亡」

 資料では、下線が「大腸内視鏡検査を実施」「急に腹痛を訴えるなど容態が悪化」「腸管穿孔」に引かれている。
 厚労省のフローチャートによると、「誤った医療を行ったことが明らかではない」が、「行った医療に起因して患者が死亡」して、「医療を行った後に死亡することを予期していた」というケースで、「届出不要b」に分類されている。



■ 届け出の範囲と遺族の感情
 議論の口火を切ったのは加藤良夫委員(南山大大学院法務研究科教授・弁護士)。「内視鏡検査で消化管が穿孔した。だから普通は死亡にいかない。しかし、その後の対応など、さまざまな段階を経て死に至るというプロセスになっている。つまり、『内視鏡検査中の消化管穿孔であり、これは合併症だから届出は要らない』という判断にはならない」として、厚労省が「届け出不要」に分類したことを「非常に限定的」と批判した。
 加藤委員は「証拠を引き出して医療の質を向上させること、尊い犠牲や過ちから学ぶという視点から見ると、大事なものが落ちてしまう危険性がある」と述べた。

 前田座長は「まさにそこが問題。広く委員会に届け出して、そこから教訓を拾い上げていくという考え方もある。しかし、届け出を明確なものに絞り込んでおかないと医療行為がやりにくいという意見もある。今回、初めてここに突っ込んだ議論をするが、医療現場の人が分かるような、ある程度の合意形成を得たい」と述べ、さらに意見を求めた。

 山口徹委員(虎の門病院院長)は「死亡に至るまでに不適切な処置があった可能性を否定できない事例だ。『適切な措置を施したが死亡』と簡単に書いてあり肝心なところが分からないが、『適切な措置を施したか』という部分を含めれば、検討すべき範囲はもっと広い」とした。
 ただ、「穿孔後に標準的な医療が行われたか」という部分は院内の調査委員会で検討すべきとして、「届出不要」の分類に賛成した。
 木下勝之委員(日本医師会常任理事)も「これは院内で検討すべき事例で、第三者委員会に届け出るべき事案ではない」とした。

 これに対し、医療事故で子どもを亡くした豊田郁子委員(新葛飾病院セーフティーマネジャー)は「届け出不要と考えられている事例の中には、院内できちんと調査しなければならない事例が多くある。しかし、院内の事故調査委員会を立ち上げられない医療機関も多い」として、調査委員会が遺族の相談に対応できるような制度を求めた。

 豊田委員はまた、「医療関係者が届け出を不要と考える事例でも、『家族の立場だったら届出が必要だろう』という声が現場から出ている」と指摘。たとえ届け出が不要な事例でも、遺族が希望する場合には届け出なかった理由を説明する義務があるとした。

 前田座長は「医療の側は患者や遺族の側に立って『出すか出さないか』を判断していただくことが重要だ」と理解を示したが、このように「患者の視点」を届け出の判断に組み込めば、厚労省が示した届け出判断のフローチャートだけでは割り切れないことになる。

 辻本好子委員(NPOささえあい医療人権センターCOML理事長)は「遺族が『届け出なくて結構です』という場合には届け出なくてもいいのではないか。このように事例だけでうんぬんしていいのか」と事例だけで割り切ることに不満を表した。
 また、鮎澤純子委員(九州大大学院医学研究院医療経営・管理学講座准教授)は「この資料を見た時、ここまで書かれたかという思いがした。事案を3行、4行でまとめる難しさは分かっている。(届け出の要否は)どんなに枚数を重ねても書ききれるものではない」と述べた。

 厚労省の担当者は「この数行ではやはり判断できない。十分でないところがあり反省している。個々の患者の状態によっても条件が違う。本来は何十ページも必要で、それをサッと切ることはできない」と説明した。

 届け出の範囲を具体的な事例で明らかにしていこうという厚労省の試みは評価すべきだが、遺族の感情を考えた時、フローチャートでは単純に振り分けることができない難しさがある。

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この会議の中で批判が集中した・・・と書かれているので非常に期待をして記事を読みました。さすがに第3者機関設立の難しさがわかったのかしら・・・・と。

Blogを書かなくなって・・・そして他の様々なことに時間をとるようになって追いきれていなかったのですが、ここに批判が集中するとは思いもよりませんでした。

記事の中に「家族の思い」「遺族感情」が書かれていますが、それを重要にしなくては成らないとは僕も思います。遺族が届出をしない理由を説明するよう求められたら、説明する義務はあると思います。それは近親者を失った人たちが納得がいくように、する必要はあると思います。

しかし、それは届出をする必要があるか、必要ではないかの話ではないと思います。
また、届出が必要かどうかという「医学」的な話の中に「遺族の感情」をひとつの考慮事項に挙げたことが、申し訳ありませんが驚きです。

遺族の感情、家族の立場を思いやる、家族の立場で考えることは非常に重要なこと。そうしなくてはならないと思いますが、家族の立場を優先して(家族の立場だったら届け出るのが適当・・・というのは優先しているということ)届け出なくてはならない場所が死因究明という機関とは・・・・・と思ってしまいます。

医療事故調査委員会・・・という機関はシステムの問題を解決していくための機関だと思います。すなわち、第3者機関であって利害は絡まない。また、システムエラーと考えられる死因究明というものを正しく行うためにはあくまで「届出をした本人の処罰は行わない」として情報を集め、何故このようなことが起きたのかを考えるべきだと思う。

しかも、今の日本の医療体制、医療崩壊の現状では「医師不足」「医療費不足」から医療事故はおきやすい状況であり、一番のシステムエラーは「日本の政治家(全員じゃないでしょうけど、ごめんなさい)」「厚生労働省」である。

その一番のシステムエラーが「医療事故究明」をしようというのだから・・・「システムエラー」をみとめないだろうというのは想像に難くない。

医療事故究明は「より良い医療」を形成するために必要である。

しかし、現在・・・この日本の医療は「よりよい」を追求する状況ではなく、実は「悪化させない」ことをまず追求し、死因究明を行う以前にわかっているシステムエラーを改善しなくてはならないのだと思う。

そんなことを考えながら、自分自身を見つめる作業も行っています。
今の僕の立場って非常に微妙なんですよねw

大変だな~と思う今日この頃です
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恩義

2008-02-21 21:14:34 | 医療
最後に少しだけ

先ほど母校の大学の先生から「大丈夫か~?」と連絡をいただきました。
職場に対する恩義はもうすでになく、義理ももうすでに果たしたと思っているのですが・・・大学の先生方にだけは恩義を返していない・・・とも思います。

悩ましいところです。

大学において「技」を積極的に伝授してくださる人たちもいるのですが、我が母校の血液の先生方は「丁寧に教える」よりは「ヒントはやる・自分で考えろ」という感じのスタンスのように感じます。

それは教えすぎる教育よりはよっぽどすばらしく、人を育てる上で大事なことだと思います(もっとも、このやり方は人のタイプにもよると思いますが)。

ふぅ~む。さて、大学にだけは恩義がある。さて、どうしたものか・・・と悩む今日この頃でした

では、また。
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