こんばんは。
今、実は大阪に来ています。明日から始まる「造血幹細胞移植学会」に参加するためです。別に演題があるわけではないのですが、病棟を担当しているわけではないので「勉強のため」に来ています。
ま、他の用事もあるにはありますが・・・
しかし、このビジネスホテル。グッド。一応、温泉がついているし(サウナもありました、いろいろありました)朝も温泉に入れるし・・・。学会会場には歩いていける距離だし(歩いてきました)
今日はいくつか書きたい・・・と思っていることがあるのですけど、今日は医学関係ではなくて・・・僕がもう一個関わりたかった職業・・・教育のほうに関して書きたいと思います。
あくまで小学校~高校まで違和感を感じていたことのまとめのようなものです。あくまで個人の意見ですが、ちょっと書いてみたいと思います。
教育の目的って何でしょうか?
状況によって違いますが・・・とりあえず「個人の能力を伸ばすこと」だとは思います。それが個人のためか、それとも全体のためか・・・
過去の社会において・・・いや日本においては今現在も、教育というのは「上に都合が良い」人間を作る、つまり「全体のための教育」だと思います。
何が言いたいかというと「教育」によって、上のいうことを聞いて何かを行うことはできるけど、自分自身で考えて何かを行うことができない人間ばかり作っている。
わかりやすくたとえてみると、今の教育は子供たちを「紙飛行機」にはしているが「ラジコン飛行機」にはしていない。「紙飛行機」は大人になると「グライダー」になり、ラジコン飛行機は大人になると「飛行機」になる。
端的に言うと「自分で飛べるか」「飛べないか」の違い。自分で飛べない人間を増やしてどうするのか?
つまり、親も教師も・・・今の教育制度のあり方の中では「自主性」を育てていない。つまり、誰かに言われればできるが、自分で考えてやりなさい・・・というとできない人間が多い。特に塾にばかりいっていた人間の中に多いように感じる。
もちろん、塾に行っていたからそうなるわけではない。塾に行っていた人の中にも大勢の人が「自主性」というものを学んでいるとは思う。
ただ、こういった危機感がある。
今の教育のシステムでは「知識を多く学び、学校の先生がこのように解きなさいといったことを実際にできる子が優秀知識を多く学び、学校の先生がこのように解きなさいといったことを実際にできる子が優秀」と考える節があるようにみえる。学校でよい成績をとるために「塾」へ行って「解答」の仕方を学んでくる。
周りの人間よりより多く「解答の仕方」を覚えた人間が優秀。
自分のやり方を学ぶようになっているでしょうか?
僕は因みに覚える能力・処理速度では「パソコン」には絶対(w)勝てませんし、医者としては携帯端末(実際は持ち歩いてないですけど・・・覚えているほうで・・・)でも持ち歩いていれば良いと思う。
何を覚えておくか・・・が重要だと思う。重要でないことは忘れたほうが良いし、むしろ「ここにその情報はある」ことだけ覚えていれば良いのだから、楽なものだ。
そう、このままでは「自主性」というものが失われてしまうと思っています。
しかし、学校は知識を覚えるところ・・・というのも間違いではないと思っています。
だって、知識がないと「応用」できませんから。「応用するための知識」を学校で早期に吸収してもらわないといけない。
いや、子供たちなら「知識」は吸収して行っています。あの時期であれば「飲み込み」も早いでしょうし、「興味・好奇心」もあるでしょう。珍しいものばかりなんですから。初めて触れることが多いので、勉強に時間をかければそれだけ学ぶことができます。
ただ、先日「アンフェタミン的多重知能理論http://blog.goo.ne.jp/amphetamin/e/e1c612b049a99155eefbc9518f9e8680」でも書きましたが、あくまで子供たちにも「知能の傾き」に個人個人で差があるので・・また、興味の対象も違う(僕は生物学・文学・歴史でしたね)ので吸収する速度が違う。逆にそれを伸ばしてあげることが重要なのに・・・と思っています。
子供は天才ですよ。ただ、その天才が・・・大人たちの「IQ」の神話のために、知的能力がそれほど高くない(そのほかの能力がずば抜けているのに)と評価されなかったりするのだ。
因みに小学校のとき(何年生だろう?)知能テストをサボりました。しかも、「こんな紙切れで自分のことを決められてたまるか!」といって、保健室へ行ったそうで、その日父親にぶん殴られましたw
余談ですけど・・・・orz
その天才を伸ばしていけばよいのですけどね・・・・。間違いなく、それができるようになれば「新しい社会」も出来上がると思います。まぁ、それがなかなかできないわけですが・・・。
「ゆとり教育」にしても・・・あれの趣旨は「教育は自分探しの旅」を助けるものであり、社会の中で生きていくための基本となる知識を身につけ・・・一連の課程で試行錯誤を経ながら「自己実現」を目指す。
ゆとりを失ったために「自己実現」や「心の豊かさ」を実感するにいたっておらず・・・・今後の日本は「個性が尊重」され、「自立した個人」が「自己責任」の下に選択を行っていく成熟した社会・・・を目指すものである。
別に「ゆとり」というのは「勉強をするな」、勉強の時間を減らせではない。
ガンダムの台詞を少し変えて使わせてもらうと
「あえて言おう、馬鹿であると」
誰も、そんなことを目指すのではなくて「評価法」を変えればよいだけなのに・
だから、ますます「塾」での勉強が盛んになって「ゆとり」も失われていく。
「塾」で勉強の仕方を教わっても、将来何にもできない子供も出てくるのよ?
高校時代、僕よりもはるかに成績の良かった同級生は大学に入ってから、まったく勉強ができませんでした。僕は医師国家試験の前の2ヶ月ほど、毎日2時間勉強を教えておりました。
これは「自分で勉強する」方法を見出せなかったからではないか・・・と思うのです。彼は「教わったことをこなす」という意味では「優秀」だったかもしれません。じっさい、「教わるの嫌いw」な僕よりはずっと大学入試やセンター試験などは点数とってましたしね。
しかし、大学やそこから先の社会は「自分で学んでいくところ」です。
塾を否定するわけではありませんが、塾だけがすべてではない。
僕は公立の小学校、中学校、市立高校→某国立医科大学と進んでいますが、別に塾に特別に行ったというのは・・・浪人中にいったかw・・・・・くらいですね。
ついでに僕の見た感じだと・・・これからの社会は「個人主義」・・・に加えて情報の社会(みんな思うでしょうけど)ですよね。何が言いたいかというと「産業革命」以来の流れが終わり、IT関係や株の売り買いなどをはじめ「情報」とその処理による利益を得る時代に変わりつつあるように思います。
もっと言うと産業革命のときに必要だった「ある程度のことをみんなができる、理解する能力」は求められていない。そんなもの、今の時代はコンピューターなどがもっとうまくやってしまう。このまま行くと「人間」はコンピューターに負けます。
それも含めて、そしてこれからの日本を作っていく子供たちのために、そしてその子供たちにお世話になるかもしれない我々のために、そして彼らが作り上げていく将来の世界に住む子々孫々のために、教育というのを変えていかなくてはならないと思います。
これが僕のいいたいことの一つ目です。ちょっと過激になっていますけどw
これから、ちょっと近くで一杯引っ掛けながら夕食とって来ます。気が向いたらもう一個簡単な記事を書きます~。
今、実は大阪に来ています。明日から始まる「造血幹細胞移植学会」に参加するためです。別に演題があるわけではないのですが、病棟を担当しているわけではないので「勉強のため」に来ています。
ま、他の用事もあるにはありますが・・・
しかし、このビジネスホテル。グッド。一応、温泉がついているし(サウナもありました、いろいろありました)朝も温泉に入れるし・・・。学会会場には歩いていける距離だし(歩いてきました)
今日はいくつか書きたい・・・と思っていることがあるのですけど、今日は医学関係ではなくて・・・僕がもう一個関わりたかった職業・・・教育のほうに関して書きたいと思います。
あくまで小学校~高校まで違和感を感じていたことのまとめのようなものです。あくまで個人の意見ですが、ちょっと書いてみたいと思います。
教育の目的って何でしょうか?
状況によって違いますが・・・とりあえず「個人の能力を伸ばすこと」だとは思います。それが個人のためか、それとも全体のためか・・・
過去の社会において・・・いや日本においては今現在も、教育というのは「上に都合が良い」人間を作る、つまり「全体のための教育」だと思います。
何が言いたいかというと「教育」によって、上のいうことを聞いて何かを行うことはできるけど、自分自身で考えて何かを行うことができない人間ばかり作っている。
わかりやすくたとえてみると、今の教育は子供たちを「紙飛行機」にはしているが「ラジコン飛行機」にはしていない。「紙飛行機」は大人になると「グライダー」になり、ラジコン飛行機は大人になると「飛行機」になる。
端的に言うと「自分で飛べるか」「飛べないか」の違い。自分で飛べない人間を増やしてどうするのか?
つまり、親も教師も・・・今の教育制度のあり方の中では「自主性」を育てていない。つまり、誰かに言われればできるが、自分で考えてやりなさい・・・というとできない人間が多い。特に塾にばかりいっていた人間の中に多いように感じる。
もちろん、塾に行っていたからそうなるわけではない。塾に行っていた人の中にも大勢の人が「自主性」というものを学んでいるとは思う。
ただ、こういった危機感がある。
今の教育のシステムでは「知識を多く学び、学校の先生がこのように解きなさいといったことを実際にできる子が優秀知識を多く学び、学校の先生がこのように解きなさいといったことを実際にできる子が優秀」と考える節があるようにみえる。学校でよい成績をとるために「塾」へ行って「解答」の仕方を学んでくる。
周りの人間よりより多く「解答の仕方」を覚えた人間が優秀。
自分のやり方を学ぶようになっているでしょうか?
僕は因みに覚える能力・処理速度では「パソコン」には絶対(w)勝てませんし、医者としては携帯端末(実際は持ち歩いてないですけど・・・覚えているほうで・・・)でも持ち歩いていれば良いと思う。
何を覚えておくか・・・が重要だと思う。重要でないことは忘れたほうが良いし、むしろ「ここにその情報はある」ことだけ覚えていれば良いのだから、楽なものだ。
そう、このままでは「自主性」というものが失われてしまうと思っています。
しかし、学校は知識を覚えるところ・・・というのも間違いではないと思っています。
だって、知識がないと「応用」できませんから。「応用するための知識」を学校で早期に吸収してもらわないといけない。
いや、子供たちなら「知識」は吸収して行っています。あの時期であれば「飲み込み」も早いでしょうし、「興味・好奇心」もあるでしょう。珍しいものばかりなんですから。初めて触れることが多いので、勉強に時間をかければそれだけ学ぶことができます。
ただ、先日「アンフェタミン的多重知能理論http://blog.goo.ne.jp/amphetamin/e/e1c612b049a99155eefbc9518f9e8680」でも書きましたが、あくまで子供たちにも「知能の傾き」に個人個人で差があるので・・また、興味の対象も違う(僕は生物学・文学・歴史でしたね)ので吸収する速度が違う。逆にそれを伸ばしてあげることが重要なのに・・・と思っています。
子供は天才ですよ。ただ、その天才が・・・大人たちの「IQ」の神話のために、知的能力がそれほど高くない(そのほかの能力がずば抜けているのに)と評価されなかったりするのだ。
因みに小学校のとき(何年生だろう?)知能テストをサボりました。しかも、「こんな紙切れで自分のことを決められてたまるか!」といって、保健室へ行ったそうで、その日父親にぶん殴られましたw
余談ですけど・・・・orz
その天才を伸ばしていけばよいのですけどね・・・・。間違いなく、それができるようになれば「新しい社会」も出来上がると思います。まぁ、それがなかなかできないわけですが・・・。
「ゆとり教育」にしても・・・あれの趣旨は「教育は自分探しの旅」を助けるものであり、社会の中で生きていくための基本となる知識を身につけ・・・一連の課程で試行錯誤を経ながら「自己実現」を目指す。
ゆとりを失ったために「自己実現」や「心の豊かさ」を実感するにいたっておらず・・・・今後の日本は「個性が尊重」され、「自立した個人」が「自己責任」の下に選択を行っていく成熟した社会・・・を目指すものである。
別に「ゆとり」というのは「勉強をするな」、勉強の時間を減らせではない。
ガンダムの台詞を少し変えて使わせてもらうと
「あえて言おう、馬鹿であると」
誰も、そんなことを目指すのではなくて「評価法」を変えればよいだけなのに・
だから、ますます「塾」での勉強が盛んになって「ゆとり」も失われていく。
「塾」で勉強の仕方を教わっても、将来何にもできない子供も出てくるのよ?
高校時代、僕よりもはるかに成績の良かった同級生は大学に入ってから、まったく勉強ができませんでした。僕は医師国家試験の前の2ヶ月ほど、毎日2時間勉強を教えておりました。
これは「自分で勉強する」方法を見出せなかったからではないか・・・と思うのです。彼は「教わったことをこなす」という意味では「優秀」だったかもしれません。じっさい、「教わるの嫌いw」な僕よりはずっと大学入試やセンター試験などは点数とってましたしね。
しかし、大学やそこから先の社会は「自分で学んでいくところ」です。
塾を否定するわけではありませんが、塾だけがすべてではない。
僕は公立の小学校、中学校、市立高校→某国立医科大学と進んでいますが、別に塾に特別に行ったというのは・・・浪人中にいったかw・・・・・くらいですね。
ついでに僕の見た感じだと・・・これからの社会は「個人主義」・・・に加えて情報の社会(みんな思うでしょうけど)ですよね。何が言いたいかというと「産業革命」以来の流れが終わり、IT関係や株の売り買いなどをはじめ「情報」とその処理による利益を得る時代に変わりつつあるように思います。
もっと言うと産業革命のときに必要だった「ある程度のことをみんなができる、理解する能力」は求められていない。そんなもの、今の時代はコンピューターなどがもっとうまくやってしまう。このまま行くと「人間」はコンピューターに負けます。
それも含めて、そしてこれからの日本を作っていく子供たちのために、そしてその子供たちにお世話になるかもしれない我々のために、そして彼らが作り上げていく将来の世界に住む子々孫々のために、教育というのを変えていかなくてはならないと思います。
これが僕のいいたいことの一つ目です。ちょっと過激になっていますけどw
これから、ちょっと近くで一杯引っ掛けながら夕食とって来ます。気が向いたらもう一個簡単な記事を書きます~。