こんにちは
今日は休みで、医局の飲み会に参加する前に大掃除中です。まぁ、大掃除というほどではなくて、そこそこきれいに片づけているというところでしょうか。
明日、そのまま羽田空港に行けるように出発の準備もしています。3時くらいにはここを出ようと思っているのですが、その前に記事を更新したいと思います。
昨日、偉そうにもコメントに「満足、状況を受け入れる」ことによってしか、幸せは感じられないと書きました。書いた後で、コメントの意義を考えてみました
幸せを国語辞典で引いてみると「運が良いこと」「幸運な状態」と書かれていました。本来は「仕合わせ」であり、「めぐりあわせが良いこと」であると書かれていました。めぐりあわせが良いというのは「偶然の要素」が強いですよね。
この意味で行くと幸せな人=ただただラッキーな人ということになります。しかし、ただただラッキーな人というのがそれほど多くいるとは思いません。
ただラッキーな・・・というと高額宝くじに当たった人…とかは努力していないからラッキーかもしれません。しかし、パチプロと言われている人でも(なんか、大勢朝9時から並んでいましたが)努力をしたり、傾向をよんだりしているでしょうし、株をやっている人なども楽をしているようで、努力(情報収集など)をされていると思います。
棚から牡丹餅のようなことのみを仕合わせというのであれば、幸せはナポレオンが言うように「一生に数回」しか来ないだろう。
しかし、いつも幸福を感じている人たちがいる。僕もおおむね幸福に生きていると思いますが、こういった人たちは「現状に満足」している人たちだと思います。
僕は「医師」という職業に、やりがいに、楽しさに満足しています。確かに同じくらいの年代の人の5~7割くらいの収入(内科医が一人いれば病院は年に1億円収入が増えるといわれる)ですが、生活していく上では問題ないですし、給与的にはあまり問題はないです。
あえて言うなら「臨床現場」が好きな人間を臨床現場から外してくださっているので、そこに文句は言いたいところですが
「まぁ、いい休養になるかも。あのままやっていくと10年も持たないし」
「こんな風に臨床現場から離れないと、英語の勉強もできないし、いい時間になりそうだ」
「病院勤務の間は結婚とか考える余裕はなかったけど、このチャンスにいろいろ調整を進めていこう」
とか、前向きに考えようと思えばいくらでも満足できる。
何かを失えば、なにかを得ることができる。逆もまたしかり。
そう考えたら、現状を受け入れ、その中でできることを探していけばよいという風に思います。そうすると満足できるわけですね。
もっとも、この生活(臨床から離れた)をずっとしていくつもりはないですし…僕の天職は間違いなく医者ですから。だって、楽しいし、新しいことがいろいろ増えて飽きないし、なにか勉強していても勉強しているような気がしない。
しかし、その一方ですべてを満足してしまってはいけない。そう思います。
全てに満足してしまったら、変化が起きない。発展させることができない。
全てに満足すれば、人はそのままで良いという風になってしまう。今をより改善しようとするから、進化していくのであって、全てに満足してはいけない。それもまた、正しいのだと思います。
まぁ、常に改善を求めると「完全主義者」になってしまい、人生面白くないかもしれません。
そう考えるとほどほどに満足して、程々に改善を求める必要がある。
よく考えると当たり前の話です。仮に食事で「最良の栄養バランス、最良のカロリーの食事」を3食出される。しかし、それは基本的に同じようなものであったら、人間は飽きてきます。変化を求めるのは当たり前です。これは改善とは言わないかもしれませんが。
では、何に満足して、何を追及していくと「幸福感」に包まれるのだろうか。
西洋の格言か何かで「変えられるものは変える勇気を、変えられぬものは受け入れる謙虚さを、そしてそれを見分ける知恵を授けたまえ」というものがありますが、一つはこれなのかな…と思っています。
あとは個人個人で違うだろうと。
僕はおいしい食事より新たな知識、特にどちらかというと「文系、哲学、歴史」に興味があったりします。あとは「医学」ですね。
変えられないもの(僕の場合、人事で臨床現場以外に吹き飛ばされたこと)に対して、イライラしたりもしましたが、今は「まぁ、これはこれでやることがいろいろできるし・・・」と受け入れてみたり、その状況下でできることを探していくと意外と満足できる(かも)
そして変化を起こせるものであれば、できるだけ変化を起こす努力をする。何よりも自分自身の能力の向上ですかね。
一番世の中で変えられるものは「自分自身」に他ならないと思っています。自分自身といっても、この顔、この体格、この身体能力…与えられた「技能」は個人個人で違うと思います。一番変えようがあるのは「考え方」であったり、モノの見方であろうと。というか、自分以外を変えようとするのは大変ですね。そんな努力をするくらいなら、他に時間を使った方が良いかもしれません。
偉そうなことをまた書いていますが、僕もいつも「刺激と反応の間にはスペースがある」という言葉を頭に描いています。時折、わざといろいろ表現したりすることもありますが、そう思っています。
刺激と反応の間のスペースというのは、物事に対しての受けとめ方は人それぞれであり、精神的な反応も自分自身の選択である…ということです。
他にも「人生を何色の絵の具で塗るかはその人の選択次第である」など、同様の言葉がありますが…人生は自分自身の選択の連続である。
自分自身で選べるものであれば、その選択した結果を受け止める。自分で選べなかったものであっても、その結果をどのように感じるか、考えるかという反応を自分自身で選択し、その中で満足できる結果を導き出す。
そういったことなのではないかと思っています。
うまくかけていないかもしれませんが、幸福を考えたときに「常に幸福でいる」ことは「満足でいる状態」を維持すること・・と同義であり、満足するかしないかは「個人の感性」によるということです。文章にすると難しいですが、当たり前のこと。すなわち心の持ちようである・・・ということですね。満足するという選択をするかしないかは、個人個人。何に満足して、何に満足しないのか。
僕は多くの患者さんのためにも「医学的なこと」だけは満足しないですけど、自分自身のことは「おおむね満足なり~」で終わっています。はい
それでは、そろそろ忘年会参加のために移動を開始します。