城山
南北朝時代、清和源氏の佐竹義春が足利尊氏に追われ、ここに砦を築いたと伝えられています。また、戦国時代には、浜六兵衛や、杉山内蔵助がいたとも伝えられています。ここに砦を築いたのは、北国街道と中山道に挟まれた重要な場所であり、自然の要害であったからでしょう。関ヶ原町、、、現地説明板より
また近年、
石田三成が秀吉の世継ぎである豊臣秀頼を玉城に迎え入れ西軍の士気を鼓舞し、逆に東軍は秀頼の威光の前に戦意を喪失し、
「松尾山城に毛利、玉城に秀頼が入り、東軍を迎え撃つ」という計画のもと玉城が築城されたのではないか、という説が出てきました。
玉城は広大な平坦部を持ち、1万の城兵が着陣することが可能な広さがあります。三成らはここに御座所を設けて秀頼様に鎮座いただく構想を持っていたとするもので、歴史ファンの妄想を掻き立てるものです。
しかし、実際には松尾山城には毛利輝元ではなく小早川秀秋が入り、豊臣秀頼は大阪城を動かなかったため、玉城は使われませんでした。
結果は小早川秀秋の裏切りにより西軍は総崩れとなり、開戦早々東軍の勝利となったのです。
場所は岐阜県不破郡関ケ原町玉
名神高速関ヶ原IC下車、国道365号線へ左折。国道21号線と交差する伊吹山口交差点の、次の交差点「玉交差点」で県道229号線へ左折、
「玉の火薬庫門跡」を過ぎ、
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藤古川を渡るとすぐ左に「エコミュージアム関ヶ原」や「胡麻の里」が見えますので左折し、農道を進むと三差路があります。
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この林道を山の方に登ると玉城登山口が右手に見えてきます。
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車はその先の待避所に停めました。
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登山道を歩く事15分
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主郭に到着
主郭北東側に休憩所が建設されています。
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ここで縄張り図にて当日の行程を示します。(御城印付き縄張り図、、、岐阜関ヶ原古戦場記念館にて販売中)ブログ管理者加筆
縄張り図
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「主郭」
主郭削平地
200mを超える長大な平坦地。
ある人は城山山頂を「テーブルマウンテン」と呼びました。
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主郭からの眺望
冠雪の伊吹山
麓には、北の北國街道、東は関ヶ原、遠方に大垣・岐阜を望む
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主郭内に立ち並ぶ「コンクリート柱列」
玉地区からの登山道に沿って曲輪内に立つ「旧陸軍火薬庫境コンクリート抗」
風化が激しいが、当時は有刺鉄線が埋め込まれ「陸軍境立ち入り禁止」を示すもので、大正期に設置された火薬庫敷地でした。
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主郭東側斜面の竪堀群
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主郭西側斜面下の帯曲輪
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西側の大堀切
広大な山頂を巨大な堀切で切断し、その北側を城域としている。
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大堀切に架かる土橋
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露出する岩盤と大堀切
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南側竪堀
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西側竪堀
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西尾根登山道
今須・山中地区と繋ぐ登山道で土橋と繋がっています。
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主郭西側の帯曲輪と主郭切岸
大規模な削平で急こう配を作り出しています。
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未削平で上段の帯曲輪とは異なる。戦国時代後半に改修された跡と推定されています。
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帯曲輪の西斜面に築かれた連続竪堀群
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土塁を伴った竪堀を規則的に配置しています。
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帯曲輪北端の土塁
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帯曲輪北端の曲輪
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主郭直下の帯曲輪
削平は甘く、古式を呈すると考えられています。
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解説によると
広大な主郭の西側に未削平の帯曲輪を伴っているが削平は甘く、それを補うかのように土塁を伴う竪堀を規則的に配していることから、古い時代の山城を周縁部に竪堀群を配することによって防衛機能を強硬にしたものと考えられ、江濃国境の境目の城として竹中氏が改修したものと推測されています。
主郭切岸の熊笹の中を藪漕ぎしてよじ登ると、元来た休憩所に出ました。
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その休憩所では山城女子たちがお出迎えヽ(^o^)丿
しばしお城談義、山歩き談義で楽しい時間を過ごさせていただきました。
久しぶりに女子に囲まれ、皆さんのパワーを頂き若返ったようです(^^♪
また、帰りにはチョコまで頂きありがとうございました<m(__)m>
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※ブログ掲載の許可をいただいております♪
道案内で取り上げた「玉の火薬庫門跡」
大正3年(1914)に建設された旧帝国陸軍火薬庫の石組門柱と営門の一部が展示されています。
気候や自然条件、人家からの距離、本州の中央に位置した交通網の利便上の理由で選出され、東洋一の規模を誇っていたそうです。
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立哨台とその内部
この中に歩哨が立ち、営門を警備していたのでしょうね。
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【玉城】
《美濃・近江境目の城》
名称(別名);たまじょう
所在地;岐阜県不破郡関ケ原町玉
城地種類;山城
標高/比高;307m/175m
築城年代;南北朝時代?
廃城年代;
築城者;竹中氏?
主な改修者;
主な城主;
文化財区分;
主な遺構;土塁・郭・堀・畝状竪堀
近年の主な復元等;
地図;
【御城印】
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縄張り図とセット販売
「岐阜関ヶ原古戦場記念館」にて取り扱い中→こちら