山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

いつも一人で赤とんぼ

2011-08-26 23:55:53 | 文化・芸術
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―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-229

8月26日、川棚温泉、木下旅館
秋高し、山桔梗二株活けた、女郎花一本と共に。
いよいよ決心した、私は文字通りに足元から鳥が飛び立つやうに、川棚をひきあげるのだ、さうするより外ないから。‥‥
形勢急転、疳癪破裂、即時出立、-といつたやうな語句しか使へない。
其中庵遂に流産、しかしそれは川棚に於ける其中庵の流産だ、庵居の地は川棚に限らない、人間至るところ山あり水あり、どこにでもあるのだ、私の其中庵は!
ヒトモジ一把一銭、うまかつた、憂鬱を和げてくれた、それは流転の香味のやうでもあつたが。
精霊とんぼがとんでゐる、彼等はまことに秋のお使いである。
今夜もう一夜だけ滞在することにする、湯にも酒にも、また人にも-彼氏に彼女に-名残を惜しまうとするのであるか。‥‥

※表題句のみ記す

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Photo/北の旅-2000㎞から―旭山動物園-’11.07.29


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一人となればつくつくぼうし

2011-08-25 23:49:10 | 文化・芸術
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―表象の森― 感覚と脳と心と

人間の知覚システムの研究が進むに従って、知覚と実在の関係そのものが変わってきた。色や味や音や匂いは、人間の脳が処理して初めて「存在」するからだ。物質の塊があってそこから揮発する分子があったからといって、「匂いが存在する」とはいえないし、空気や地面が震動するからといって「音が存在する」とももういえない。匂いも音も、色も味も、知覚する人間の存在と無関係に存在するという考え方は、たとえ自然に思えても実は正しくない。たとえばバラの花を見る人間は、素朴には、バラによい香りがついていて、美しい色がついていると思うが、実はバラの香りも色も、人間の知覚器官と脳の働きを離れて外界に「実在」するものではない。それは、たとえ人がバラの棘に指を指されれば「痛い」と感じるとしても、「痛み」がバラの棘の中に内在しているわけではないのと同じことである。また、匂いや音や痛みを認識したとしても、それをどのように受け止めるかという主観的内容までは説明できない。

見神者による神の存在の知覚と認識についても同じだ。人によって「何かが存在する」ことは、物理的刺激を人間の感覚受容細胞が生体の電気信号に変換したものを通じてキャッチされるわけであるが、たとえそのように「神」をキャッチしても、そのクオリア-実感-の量的質的な計測は不可能である。実際、脳科学が発達したといっても、たとえば「心」がどのようなものかは、科学の言葉によって表現できていない。脳の活動は心の生成の「必要条件」ではあるが、「十分条件」であるかどうかについては、証拠もなければ理論もない。

世界を分節して法則を発見し単純化しようとした科学は、発展するに従って、世界が決して単純なハーモニーやシンプルな秩序で構成されているわけではないことを明らかにした。科学の対象は、全体から分けられて切り出されるものではなく、常にさまざまな要素が複合的に作用しあう「複雑系」の世界にあるのだ。それでも、この世界を解明していくには、科学研究の鉄則として、正しいタイミングで正しい問題に取り組み、その問題を正しいレベルに設定して問うということが要求される。

  -竹下節子「無神論」-P255-「素朴実在主義と神の存在の問い」より


―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-228

8月25日、朝の散歩、そして朝の対酌、いいですね!
彼は帰る、私に小遣までくれて帰る、逢へば別れるのだ、逢うてうれしや別れのつらさだ、早く、一刻も早く、奥さんのふところに、子供の手にかへれ。-略-
残暑といふものを知つた、いや味つた。
「アキアツクケツアンノカネヲマツ」
 -秋暑く結庵の金を待つ- 緑平老へ電報
夕方、S氏を訪ねる、これで三回も足を運んだのである、そして土地の借入の保証を懇願したのである、そしてまた拒絶を戴いたのである、彼は世間慣れがしてゐるだけに、言葉も態度も堂に入つてゐる、かういふ人と対座対談してゐると、いかに私といふ人間が、世間人として練れてゐないかがよく解る、無理矢理に押しつけるわけに行かないから、失望と反抗とを持つて戻つた。
夜、Kさんに前後左右の事情を話して、此場合何か便法はあるまいかと相談したけれど乗つてくれない-彼も亦、一種の変屈人である-。
茶碗酒を二三杯ひつかけて寝た。

※表題句の外、1句を記す

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Photo/北の旅-2000㎞から―層雲峡・銀河の滝-’11.07.28


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家をめぐる青田風よう出来てゐる

2011-08-24 23:21:39 | 文化・芸術
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―表象の森― <日暦詩句>-42

  「崖」  石垣りん

戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。

美徳やら義理やら体裁やら
何やら。
火だの男だのに追いつめられて。

とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)

それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。

  -茨木のり子「言の葉Ⅱ」より-石垣りん詩集「表札など」-S43年刊-

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-226
8月23日、何となく穏やかでない天候だつたが、それが此頃としては当然だが、私は落ちついて読書した。
旅がなつかしくもある、秋風が吹きはじめると、風狂の心、片雲の思が起つてくる、‥しかし、私は落ちついてゐる、もう落ちついてもよい年である。
此句は悪くないと思ふが、どうか知ら。

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-227
8月24日、晴れてきた、うれしい電話がかかつてきた、-いよいよ敬坊が今日やつてくるといふのである、駅まで出迎に行く、一時間がとても長かつた、やあ、やあ、やあ、やあ、そして。――
友はなつかしい、旧友はとてもなつかしい、飲んだ、話した、酒もかういふ酒がほんとうにうまいのである。

※表題句のみ記す

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Photo/北の旅-2000㎞から―網走の監獄博物館-’11.07.28


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逢うて別れる月が出た

2011-08-22 23:46:00 | 文化・芸術
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―表象の森― 金子光晴Memo

「おれは六十で
 君は、十六だが、
 それでも、君は
 おれのお母さん。
 ‥‥‥‥‥‥‥ 」 -光晴「愛情2」

金子光晴を語ろうとすることが、われにもあらず、なぜ日本男性攻撃へと傾くのだろうか? このたびの、これは一つの発見だ。-茨木のり子

「男とつきあわない女は色褪せる
 女とつきあわない男は馬鹿になる」-チェホフ

「大統領と娼婦とは本来同じ値打だ」-ホイットマン

「金子さんほど歩き廻る日本人は見たことがない」-魯迅

「堕っこちることは向上なんだ」-光晴「人伝」

「僕が死んだら、よく考えてみて下さい」-光晴

  -茨木のり子「言の葉2」より


―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-225

今日も家の事で胸いつぱいだ、売家が二つ三つある、その一つが都合よければ、其中庵も案外早く、そして安く出来るだらう、うれしいことである。

※表題句のみ記す

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Photo/北の旅-2000㎞から―カムイワッカの湯の滝-’11.07.27


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星あかりをあふれくる水をすくふ

2011-08-21 22:51:24 | 文化・芸術
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―四方のたより― 丸一年でPCダウン

私が日ごろ主に使ってきたPCは、DELL製品のInspiron Desktop 580S、いわゆるスリム型というやつ。
昨年8月上旬に購入したものだから、ちょうど1年経ったばかりというのに、あろうことかこ奴、一週間ばかり前に突然ダウンした。起動してもプログラム修復の画面が立ち上がるだけで、以後は空回りするだけ、ONとOFFを数秒ごとに繰り返すのみ。BIOS画面へも移れないし、リカバリDISKもまったく受けつけないという始末。

Dell580s
そんな訳で、この1週間は、予備にあるASUSのEee Boxの世話になっているのだが、此方のほうはメモリが2GBで、処理速度が少々遅いので、ちょいと焦れ気味に作業をしている。

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DELLのカスタマーサービスには、なかなか繋がりにくいのだが、19日の深夜になってやっと繋がった。保証期間が2年なので、さしあたり引取修理の運びとなったが、なお10日間くらいは、不便ながらこのままいくしかないだろう。

―表象の森― 壁は厚く高く‥

今日はいつもの稽古を早めに切り上げて、まこと久しぶりに大宮の「芸創」に足を運んだ。JUNKOもAYAも一緒だ。
「息吹の生まれるところ」と題されたダンス公演。
主催は森洋子という若手だが、彼女の師にあたる中川薫と、近大で神澤の薫陶を受けた村上和司が、この新人をサポートしている。

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出演も3人、Solo三題とDuoひとつ。実時間なら40分ほどか。
参ったのは音の選曲、どれもhardで重たい。
創作舞踊というものの骨法が、Dancerたちの主観的なやや観念過剰ともみえる呪縛のなかで、古色蒼然とした世界をしか現出しえぬものと見えてくるとしたら、それは方法論の瑕疵ではなく、表現主体の側の問題だ。
主題性やイメージに必要以上に拘泥するまえに、まずは身体や動きの過剰なまでの奔出を望みたいものだが‥、なかなかそうはいかないのです。

会場で出会した、懐かしい顔ふたつ-I女とF女。

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-224

8月21日、ほんとうに秋だ、なによりも肌ざわりの秋。
正さん-此宿の二男-と飲んだ、お嫁さんのお酌で、気持よく飲みあつた、ちと新課程を妨げなかつたでもないらしい。
売家があるといふので問合にいつた。

※表題句は8月1日付の句

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Photo/北の旅-2000㎞から―知床半島の主峰、羅臼岳-’11.07.27


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