山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

時雨とはちくさの花ぞ散りまがふ‥‥

2007-08-17 23:42:24 | 文化・芸術
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-世間虚仮- 北朝鮮無残

我が国では8月に入ってから記録破りの猛暑つづきだが、その太平洋高気圧の煽りを受けてかお隣りの朝鮮半島ではこれまた記録的な集中豪雨が続いた。
とりわけ金正日独裁の北朝鮮では疲弊しきった国土に追い打ちをかける大災害となったようで大変な被害をもたらしている。
報道による被害数値を列挙すれば、8万8400世帯の住宅が全・半壊、被害者は30万人以上、さらには全耕地面積の11%が流失または浸水、400箇所の工場や企業が浸水、という。
自然の猛威であってみれば不可抗力と天を仰いでひたすら歎くしかないのだろうが、全耕地面積11%に及ぶ流失・浸水とは、積年にわたる土壌の疲弊や治水灌漑全般、国土の荒廃なくしては、これほどの被害には至るまいにと推量されるところだ。
そんな一方で、10万人以上の選良(?)の民が一糸乱れず繰りひろげる平壌での「アリラン」が、世界最大のマスゲーム・芸術公演としてギネスに認定された、という報道が並んで伝えられている。
目出度いといえばお目出度いニュースにはちがいなく、最貧国北朝鮮に君臨する独裁者金正日はさぞご満悦だろうが、われわれ対岸からみればこれほど噴飯モノの話はなく、貧困と災害と、さらには人災に喘ぎ、塗炭の苦しみのなかにいる人々を思えばただただ暗澹としてくるばかりだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-42>
 聞くたびにあはれとばかり言ひすてて幾夜の人の夢を見つらむ  順徳院

続後撰集、雑下、題知らず。
邦雄曰く、父帝後鳥羽院の作風をさらに微妙に屈折させて、一読真意を測りかねる歌も少なくないが、味わいはそれゆえに一入。「あはれとばかり言ひすてて」の冷ややかな響きなど、稀なる余情を残す。家集に同じく「題知らず」で「ながめわびぬ見果てぬ夢のさむしろに面影ながら残る月影」あり。前歌に似た恋の影を揺曳しながら、侘しい抒情は忘れがたい、と。

 時雨とはちくさの花ぞ散りまがふなにふるさとに袖濡らすらむ  藤原義孝

後拾遺集、哀傷。
邦雄曰く、天延2(974)年9月、義孝が20歳で他界して後、賀緑法師の夢に現れて告げた歌と註記がある。極楽浄土は曼陀羅華に分陀利華、さまざまのめでたい花々が咲き乱れて、この身は至福、現世の人々は何を泣かれることがあろうとの言伝であった。死者の詠として勅撰に入るほどの天才、この歌も見事である。なお賀緑法師は比叡山の阿闍梨と伝える、と。


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いにしへを昨日の夢とおどろけば‥‥

2007-08-14 23:53:23 | 文化・芸術
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―世間虚仮- お盆のプール通い

お盆だというのに猛暑がつづく。北海道も連日の記録的な暑さだそうだ。札幌では4日連続で沖縄の那覇を上回る気温だという。
幼な児の通う保育園は13.4.5と三日間お盆の休みだが、連れ合いは変則勤務で14日のみで、その代わり来週に三日間の休暇を取ることになっているから、さしずめわが家の盆休みは世間から外れて来週と相成る。
そんな次第で昨日と明日は子守専従。
この夏、幼な児はプール通いにご執心だ。
住之江公園の中にある府営のプールはさほど大きくもないが、大人は300円だが子どもは中学生まで100円と、廉価で楽しめるのがありがたく、子どもたちや家族連れでかなりにぎわっている。
この程度ならたいした負担にもならないから、今夏はわが家でも休みのたびに親子連れで通っている。
昨日も、朝から待ちかねたように幼な児の催促を受けてプールへ行った。いつもは連れ合いがご相伴役で、私には今夏二度目の登板だった。
前日の日曜は、保育園の仲間たちも何人か来ていて、一緒に仲良くしてご機嫌だったと聞いていたから、この日もてっきり顔馴染みが来ているだろうと思っていたら、当てが外れてゼロ回答。
これには参った。友だちが一人でも居ればその子とさんざん遊べるのだから、此方は高みの見物で少しは自由もきくというものだが、これでは眼も離せないしおまけに適当に相手もしてやらねばならない。
まだ泳ぎにもなっていないのだが、誰に教えられたかほんの数秒、顔を水面につけて足をバタバタさせている。少し気になったので「眼を開けているの?」と聞いてみると、「少しだけ」と返ってきた。
ほとんど進みもしないのになんどなんども飽きずにやっていたから、あとでゴーグルを買ってやった。
今日も朝早くから連れ合いとお出かけで、昨日と同じくお友だちゼロ回答だったにもかかわらず、新兵器のゴーグルを着けてご機嫌に泳いで(?)いたらしい。
プール日参のお盆で日焼けがどんどんすすむ親子だ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-41>
 いにしへを昨日の夢とおどろけばうつつの外に今日も暮れつつ  宗尊親王

竹風和歌抄、文永三(1266)年十月、五百首歌。
邦雄曰く、鎌倉第六代将軍、32歳の夭折、その迸る詩魂もおのずから三代将軍実朝を想起させる。宗尊親王の歌はまた別種の寂寥と不安を帯び、技巧はさらに巧緻だ。「うつつの外」を見つつ、しかも夢を見ることもできない一人の青年の「今日も暮れつつ」と呟く姿は傷ましい。親王一代の秀作と言ってよかろう。別の家集では「夢」題で収められる、と。


 歎きつつ雨も涙もふるさとのむぐらの門の出でがたきかな  斎宮女御徽子

玉葉集、雑四。
邦雄曰く、詞書には「式部卿重明親王かくれて後、内より参るべき由のたまはせければ」とある。父重明の他界した天暦8(954)年、徽子は25歳、村上帝女御となって規子を生んだ5年の後である。「葎-むぐら-の門」は文飾であろうが、高貴の身ゆえなお露わにはできぬ悲しみの、とめどもない様が覗われよう。女御歌合を催したのは天暦10(956)年であった、と。


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花もみぢ見し春秋の夢ならで‥‥

2007-08-12 11:45:54 | 文化・芸術
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-表象の森- ふたたび「海の幸」

「雲ポッツリ、又ポッツリ、ポッツリ!
 波ピッチャリ、又ピッチャリ、ピッチャリ!
 砂ヂリヂリとやけて
 風ムシムシとあつく
 なぎたる空!
 はやりたる潮!」


明治37(1904)年7月、東京美術学校を卒業した青木繁は、同郷の詩人高島泉郷の布良礼賛の言葉に誘われ、房州布良海岸へと写生旅行に出かけた。
同行3人、故郷久留米時代からの同僚坂本繁二郎と、画塾不同舎以来の友人森田恒友、それに不同舎の後輩で当時青木を慕っていたらしい福田たね。滞在はほぼ2ヶ月。
冒頭に引いたのは、布良滞在中、「僕は海水浴で黒んぼーだよ」との書き出しで同郷の友に宛てた手紙の中の一節だ。松永伍一の謂いを借りれば「生命の発条の凄まじさ」ともいうべき若者特有の本然たる躍動があるが、その背景にはこの滞在において進行したと見られる福田たねとの恋の焔も関わっているのだろう。
前年の「黄泉比良坂」などの出展で第1回白馬会賞を射止め、その俊才を高く評価された青木にとってこの写生旅行は、さらなる大きな飛躍を期したものでもあった。
同じ手紙の中で「今は少々製作中だ、大きい、モデルを沢山つかって居る、いづれ東京に帰ってから御覧に入れる迄は黙して居よう。」と記した作品が、その年の白馬会展に出品され、当時の画壇を圧倒した「海の幸」だが、同行の坂本繁二郎によれば、この絵は眼前嘱目の光景を写したものではなく、青木自身は海辺で老若男女入り乱れて活況を呈する大漁風景を見てはいないのだという。
大漁の、夥しいほどの魚が浜に揚げられ、人々が鉈をふるい処分し振り分けられていく光景は、あたり一面血の海と化しまるで修羅場のごときさまを呈す。さらには血の滴るそれらの獲物を猟師たちやその家族が、三々五々背にかついで帰っていく。興奮さめやらぬ坂本らからこの様子を聞かされた青木の心中に、彼自身拘りつづけてきた神話的モティーフと、現し身の海人たちが繰りひろげたこの光景が交錯して想像の翼をひろげたようである。
翌朝よりほぼ1週間、彼はあたり構わず製作に没頭し「海の幸」は成った。
縦70㎝×横180㎝という横長の画面に、老若10人の海の男たちが獲物を担いで左から右へと隊列となって横向きに歩いているその中に一人、絵を見ている此方側すなわち観者に対して控え目にしつつも遠く挑むように此方を見ている者を配するという、この意表を衝いた着想が画面全体を引き締め統括しかつ格別の惹起力をもたせているのだが、そのモデルとなった顔が男性であるはずにもかかわらずどう見ても福田たねその人としか見えないのが、これまた後代の論議の種ともなったようである。実際その顔は同じ頃に描いた福田たねの肖像画とそっくりなのだから、彼はこの渾身の野心作に満々たる情熱と自負を抱きながら、いま現に身近にある恋人の顔をそこへ描き込んだのだろう。


その年の秋、白馬会展に出展されたこの作品は、他を圧して一大センセーションを巻き起こした。
当時すでに親交のあった蒲原有明は、
「わたくしは実際に青木君の『海の幸』を眼で見たのではなく、隅から隅まで嗅ぎ回ったのである。わたくしの憐れむべき眼は余りに近くこの驚くべき現象に出会って、既に最初の一瞥から度を失っていた。そして嗅ぎ回ると同時に耳に響く底力のある音楽を聴いた。強烈な匂いが襲いかかる画であると共に、金の光の匂いと紺青の潮の匂いとが高い調子で悠久な争闘と諧和を保って、自然の荘厳を具現しているその奥から、意地の悪い秘密の香煙を漂はし、それにまつはる赤褐色な逞しい人間の素膚が、自然に対する苦闘と凱旋の悦楽とを暗示しているのである。一度眩んだわたくしの眼が、漁夫の銛で重く荷れている大鮫の油ぎった鰭から胴にかけて反射する青白い凄惨な光を、おづおづ倫(ぬす)み見ているひまに、わたくしの体はいつかその自然の眷属の行列の中に吸ひ込まれていたのである。」と評した。
時あたかも、明治37(1904)年の秋といえば、この年の春に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟の身を案じた与謝野晶子が絶唱した「君死に給ふこと勿れ」が「明星」に発表され、これまた大きな話題となった頃と偶々まったく重なっているのだが、ふたたび松永伍一の言を借りれば、青木繁の「海の幸」は、この晶子の話題作と「肩を並べていい芸術上の収穫として騒がれていった」というように、日本の近代絵画史上に燦然と君臨し、いわば伝説と化していくのだ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-40>
 むばたまのわが黒髪やかはるらむ鏡の影にふれる白雪  紀貫之

古今集、物名、かみやがは。
邦雄曰く、鏡に映る雪と見たのは、自らの白髪であったという老いの歎き、類歌は無数にあるが、これは京の北野の「紙屋川」を第二・三句にひそかに嵌め込んだ言語遊戯。遊びにも見えぬ優れた述懐歌と化したのは貫之たる所以。「今幾日春しなければうぐひすもものはながめて思ふべらなり」は「すもものはな」を象嵌した。勅撰集には不可欠の部立、と。


 花もみぢ見し春秋の夢ならで憂きこと忍ぶ思ひ出ぞなき  後崇光院

沙玉和歌集、堀河院百首題にて、雑、懐旧。
邦雄曰く、新続古今集の歌人中でも、後崇光院貞成親王は際だった存在であり、その生涯は波乱に富んでいる。春・秋の思い出のみが、鬱屈に耐える唯一の慰めであったという述懐が、さこそと察せられる。称光天皇の逆鱗に触れて薙髪したことは勿論、75歳で余映のように院号を得たのも、憂悶に鎖された人生の、殊に「憂きこと」であったろうか、と。


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昔見し蛍の影はなにならで‥‥

2007-08-11 01:44:53 | 文化・芸術
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-世間虚仮- 倒産大幅増

戦後最長の好景気というのに、近畿2府4県の6月の倒産件数が281件、前年同月比58%増と、件数において大幅増だが、一方負債総額は7ヶ月連続で1000億円を下回っているという。大手を中心に景気は相変わらず堅調に推移しているとされつつも、中小零細における小規模倒産が頻発しているわけだ。
同じくこの日発表された内閣府による7月の消費者動向調査では、2年7ヶ月ぶりの低水準だという。ガソリンの高騰もある。食品や生活用品に一部値上げの動きが続いている。
中小零細の事業者においても一般消費者においても、いざなぎ景気を越えたという好況感からはほど遠く、失われた十年以来のツケに困窮の度を深めているのが実態に近いのだろう。
参院選での安倍自民の大敗に、年金問題や事務所費問題ばかりが敗因とクローズアップされるが、なにやらじわりじわりと貶められていっているという感覚しかもてぬ、無辜の民の出口なし的状況への憤懣が、その背景にあるのだとは思えないか。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-39>
 夢の世に月日はかなく明け暮れてまたは得がたき身をいかにせむ  藤原良経

秋篠月清集、百首愚草、十題百首、釈教十首、人。
邦雄曰く、「十首」は他に、地獄・餓鬼・畜生・修羅、天・声聞・縁覚・菩薩・仏を数える。建久2(1191)年、良経22歳の作であるが、その老成した技法は翌々年の六百番歌合に匹敵する。「夢の世」も、釈教臭を持たぬ流麗な調べのなかに、限りない寂寥感・無常観が漂う。「朝な朝な雪のみ山に鳴く鳥の声に驚く人のなきかな」は「鳥部十首」の中の歌、と。


 昔見し蛍の影はなにならでわが世の月ぞ窓にかたぶく  滋野井実冬

新続古今集、雑上、寄月往事を。
邦雄曰く、掉尾の勅撰集に見える、応永16(1409)年9月十三夜の探題百首歌中の作、実冬は後三条入道前太政大臣。第四句の「わが世の月ぞ」に万感をこめ、緩徐調の滋味溢れる述懐歌を創った。第二十一代集きっての秀作として印象に残る。「契りしもあらぬこの世に澄む月や昔の袖の涙とふらむ」も同じく新続古今・恋五に見えるが、なかなかの佳品、と。


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暁のゆふつけ鳥ぞあはれなる‥‥

2007-08-09 15:00:42 | 文化・芸術
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-表象の森- 青木繁「海の幸」

ここ3週間ばかりか、一枚の絵に、といってもナマのではなく画集の中の一枚にすぎないのだが、新しきOriginの底深い根の部分をめぐって、ともかくも心囚われて逍遙することしきりであった。
維新から文明開化を経て日清・日露の国威発揚とともに欧米近代化も一応成りつつあったかとみえる明治も終りを告げる44(1911)年の早春、3年間の九州放浪の末、28歳の若さで夭折した青木繁が遺した「海の幸」である。
悲劇の天才画家青木繁の名も、彼22歳の明治37(1904)年にものした畢生の作「海の幸」も、昭和23(1948)年の河北綸明の労作「青木繁-生涯と芸術」による再発見以来、日本の近代西洋画草創期にひときわ異彩を放った画業はつとに再評価され、美術全集などに定着してきたのだから、これまでもなにかの機会に眼にしたことはない筈はないのだが‥‥。


彼の遺した画業でいえば、「黄泉比良坂」の幻想性や、世紀末を漂わせる画風の「狂女」も好いが、「海の幸」は構図といい筆致といい群を抜いて好い。当時の画壇を先導した黒田清輝などの画を脇に置いてみれば、その斬新からくる衝撃は計り知れないものがあるだろう。白馬会第9回展において、裸体画ゆえに特別室に展示されたというこの作品に、画壇の人々は感嘆の声を挙げつつ賛否両論沸騰したという。
この絵を見て衝き動かされた若き詩人蒲原有明は「海の幸」と題するオマージュを捧げているが、有明はこの詩を生涯にわたり三度も改作するという執心ぶりを示しているのも愉しい。
「海の幸」青木繁画  ――蒲原有明
 ただ見る、青とはた金の深き調和。-
 きほへる力はここに潮と湧き、
 不壊なるものの跫音(あのと)は天に伝へ、
 互(かたみ)に調べあやなし、響き交はす。  -後略-


早熟の文学少年でもあったされる青木繁の全遺稿集とされる「仮象の創造」を併せて読んだが、感じること思うことろさまざまに浮かんでは、茫々漠々、いまのところ纏まりそうもないので、遺された短歌群からいくつか列挙しておくにとどめる。
 宵春を沼の女神のいでたたし ひめごと宣るか蘆の葉の風
 黒髪をおどろに揺りて悶ゆる子 世の初恋を呪はしと泣く
 ねくたれやもろ手を挙げて掻いつづける 肩にうねりの蛇に似る髪
 晶(あか)き日を緑の波に子を抱きて 人魚(ドゲル)の母の沖に泣く声
 庭下駄に飛石忍ぶ手燭(てもとし)の 手を執りあへば散る桜かな
 故なくて唯さめざめと泣きし夜半 知りぬ我まだ我に背かぬ
 幾たびか噫いくたびかめぐりこし 如何に呪ひの恐ろしき渦
 蒲公英の野や手をつらね裳をあげて 謳ふや舞ふや世しらぬ乙女
 父となり三年われからさすらひぬ 家まだ成さぬ秋二十八
 わが国は筑紫の国や白日別 母います国櫨(はぜ)多き国


※現在「海の幸」は久留米市の石橋財団・石橋美術館に所蔵されている。
http://www.ishibashi-museum.gr.jp/collections/a.html


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑-38>
 見るままに天霧る星ぞ浮き沈むあかつきやみの群雲の空  西園寺実兼

風雅集、雑中、文保三(1319)年、百首の歌の中に。
建長元(1249)年-元亨2(1322)年、太政大臣西園寺公相の三男、永福門院らの父。京極派の歌人として活躍し、また琵琶の名手でもあり、後深草院二条の「とはずがたり」では「雪の曙」の名で登場する主人公の恋人。続拾遺集初出、勅撰入集は209首。
邦雄曰く、後西園寺入道前太政大臣名で見える作者は、承久の乱後栄えた、定家夫人の弟西園寺公経の曾孫にあたる。玉葉60首入選のなかなかの技巧派で、「星ぞ浮き沈む」あたりの抑揚と明暗は人を魅するものあり。冬の部に見える「行きなやむ谷の氷の下むせび末にみなぎる水ぞ少なき」も、ややねんごろに過ぎるほど重い調べが心に残る。没73歳、と。


 暁のゆふつけ鳥ぞあはれなる長き眠りをおもふ枕に  式子内親王

新古今集、雑下、百首歌に。
邦雄曰く、院初度百首の「鳥」五首。夜明けの鶏鳴を聞きながら無明長夜の眠り、すなわち現世の生を歎いている。「あはれなる」はむしろわが身の上であり、釈教的な深みは作者の独壇場。式子は翌年正月永眠した。「はかなしや風に漂ふ波の上に鳰の浮巣のさても世に経る」も同じ「鳥」の中の秀歌で、新千載・雑上に入選、初句と結句との照応が微妙、と。


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