-表象の森- 定家の「よそ」
今日は定家忌だそうな。
仁治2(1241)年8月20日に崩じたとされる藤原定家は享年80歳。但し旧暦であるから現在の歴に直せば9月26日ということになる。
塚本邦雄によれば、定家の詠んだ歌には歌語としての「よそ」が多用されているという。3652首を集めた一代の家集「拾遺愚草」に、その数どれほどを占めるのか知る由もないが、そのすべての歌から秀歌を選りすぐったという邦雄の「定家百首」では5首採られている。
年も経ぬいのるちぎりははつせ山尾上のかねのよその夕ぐれ (1)
袖のうへも恋ぞつもりてふちとなる人をば峯のよその滝つ瀬 (2)
ふかき夜の花と月とにあかしつつよそにぞ消ゆる春のともしび (3)
契りおきし末の原野のもとがしはそれもしらじよよその霜枯れ (4)
やどり来し袂はゆめかとばかりにあらばあふ夜のよその月影 (5)
「よそ」とは此処ならぬ場所、すなわち「余所・他所」にはちがいないが、その曖昧模糊とした限定し得ぬ不確かさから、時空を限りなくひろげ表象の深みへと誘う詩語となりうる。
たとえば、邦雄は「定家百首」のなかで(1)の歌について
「年も経ぬ」の恨みを含んだ初句切れが、「よその夕ぐれ」の重く沈んだ体言止め結句にうねりつつ達し、ふたたび初句に還る呪文的構成が出色であり、さらに初瀬山の一語は、恋愛成就を参籠祈願する意を込めつつ、内には「果つ」の心を響かせているのだが、歌は「祈恋」から発して「呪恋」となり、ついに祈りを呪うまでに凄まじい執念と成り果せてある。その上、夕ぐれを恋人の相逢う時刻と捉えるなら、恨みはさらに内攻しよう。
定家の得意とする「よそ」の用法、一種虚無の色合いさえ感じさせるこの言葉は、憎しみと諦めにくらむ心と、その心をあたかも第三者として見すえるかの冷ややかな眼の、両者交叉すると「よそ」とでもいうべきもの、つまりは、鐘は無縁の虚空に響き、作者は黄昏の中に取り残されて沈んでゆくばかり、救いのない「よそ」に他ならない、と。
また(3)の歌について、
燈火は「よそ」に消える。終夜の宴に華やいだ心はまだ醒めきらぬ。燈火はかの非在の境に揺らぐものか、あるいは宴の座に連なりながら、月光に紛れて見えなかったのか、いずれにしても陶酔を断つ滅びの予兆として今消えようと瞬く。暁の暗示は「あかしつつ」の間接的な時間の経過によるものであり、春夜の逸楽に耽溺した作者の肉と魂は、離れ離れにうつつと夢を漂うのだ。
もちろん「よそ」は「ここ」ならぬ場と時を示す。つまりは他界であり非在の境であろう。さらに作品に即するならば、現世にありながら不可視、不可燭の空間、経験を拒む時間の謂となる。そのような茫漠としたひろがりと靉靆としたふくらみをもつ詩語は、西欧における「彼處(ラバ)」よりもさらに虚無の翳りを帯びた言葉である。
この歌、「よそ」という言葉のもっとも定着した定家の歌の典型であり、(1)の「よその夕ぐれ」の凄まじい呪文と双璧をなす、と。
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<秋-99>
三日月の秋ほのめかす夕暮は心に萩の風ぞこたふる 藤原良経
秋篠月清集、百首愚草、花月百首、月五十首。
邦雄曰く、秋篠月清集巻頭、良経の天才振りを証する花月百首の中でも、技巧的な冴えを示す一首。上・下句の軽妙な照応を試みながら連歌的なくどさは微塵もなく。仄かな今様調が快い。良経の若書きに見るこの破格の調べこそ、新古今集には現れぬ今一つの新風だろう。萩と三日月を近景・遠景とする見事な心象風景に、のどかな鼓の音色が響いてくる、と。
くつわ虫ゆらゆら思へ秋の野の薮のすみかは長き宿かは 曾祢好忠
好忠集、毎月集、秋、八月初め。
邦雄曰く、くつわ虫も王朝歌には珍しい。きりぎりすや鈴虫とは些か趣を変えて、諧謔を感じさせるため、用例は極めて少ない。あの喧しい秋虫に「ゆらゆら思へ」と悠長な第二句を続けるのも、意外性があり、先の短い歎きを第三句以下に盡しながら、「薮のすみか」と、また聞き慣れぬ歌詞で耳を楽します。ほろ苦い面白みが一首の底に漂い、忘れがたい、と。
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