―日々余話― iPadの一騒動
他人にお節介をするときは、端から相応の覚悟をしておくに若くはない。
先週の火曜から昨日の月曜まで、ちょうど1週間、このお節介から振り回される羽目になってしまった。
先日、車椅子の詩人こと畏友岸本康弘君宅を訪ねた際、「手の不自由な君でも、これならなんとか扱え、愉しめるのじゃないか」と、iPadを取り出しご披露に及んでみたら、とりわけ彼は「青空文庫」を快適に読めるのが気に入ったとみえて、「欲しい!」と一言、その一週間後には早々と手に入れていた。
手に入ったと聞きつけては、奨めた立場上、設定やアプリのダウンロードなど、彼には出来そうもない面倒なことは私がやってやらないと宝のもち腐れとなろうから、翌日また宝塚の彼宅へ駆けつけることに。
前日に、介護者が二人もついて、わざわざ心斎橋の直販店まで出向いて購い求めたものだが、担当した女性店員はずいぶん懇切丁寧に応接したらしく1時間半ばかりもかかったというに、付属品の電源コネクタとケーブルがない。小さなものだが、これがなければ充電も出来ないし、PCと接続してアプリなどのやりとりも出来ない、いわば命の綱。
これが騒動の発端で、問題の部品一つを無事手にするのに、メーカー側のカスタマーセンターの度重なる誤配などの所為もあって、結局は昨日、私自身が関係書類を持って直販店へ出向いて貰い受けるという始末で、1週間を要してようやく一件落着と相成った次第だが、この小さな部品、まだ私の手元にあるのだから、今日明日にも宝塚まで持参してやらなければならない。
なに、余計なお節介をするものじゃない、と悔いたりしてるわけじゃない。事に関わった以上は、それも相手が相手だけに、相当に面倒なことは百も承知のうえでのこと。ただ、ことさらハンデのある身が、文明の利器を自家薬籠中のもののごとく利用しようと望んでも、いかにも初歩的なトラブルといえど、いったんそれに巻き込まれてしまったら、複雑なマニュアルどおりのシステムが立ちはだかって、もうどうにも手の打ちようがないという現実が、いささか腹立たしくもあり哀しいのだ。そんな思いで、このドタバタ騒ぎも記憶にとどめるべしと書き留めておく。
―山頭火の一句― 行乞記再び -95
4月5日、花曇り、だんだん晴れてくる、心も重く足も重い、やうやく2里ほど歩いて2時間ばかり行乞する、そしてあんまり早いけれどここに泊る、松原の一軒家だ、屋号も松原屋、まだ電灯もついてゐない、しかし何となく野性的な親しみがある
自省一句か、自嘲一句か
もう飲むまいカタミの酒杯を撫でてゐる –改作-
自戒三章もなかなか実行できないものであるが、ちつとも実行できないといふことではない、或る時は菩薩、或る時は鬼畜、それが畢竟人間だ。
今日歩いて、日本の風景-春はやつぱり美しすぎると感じた、木の芽も花も、空も海も。‥
風呂が沸いたといふので一番湯を貰ふ、小川の傍に杭を5.6本打ち込んでその間へ長州釜を挟んである、蓋なんかありやしない、藁筵が被せてある、-まつたく野風呂である、空の下で湯の中にをる感じ、なかなかよかつた、はいらうと思つたつてめつたにはいれない一浴だつた。
同宿二人、男は鮮人の飴屋さん-彼はなかなか深切だつた、私に飴の一塊をくれたほど-、女は珍重に値する中年の醜女、しかも二人は真昼間隣室の寝床の中でふざけちらしてゐる、彼等にも春は来たのだ、恋があるのだ、彼等に祝福あれ。
今夜もたびたび厠へ行つた、しぼり腹を持ち歩いてゐるやうなものだ、2.3日断食絶酒して、水を飲んで寝てゐると快くなるのだが、それがなかなか出来ない!
層雲4月号所戴、井師が扉の言葉「落ちる」を読んで思ひついたが-落ちるがままに落ちるのにも三種ある、一はナゲヤリ-捨鉢気分-、二はアキラメ-消極的安心-、三はサトリ-自性徹見-である。
世間師には、ただ食べて寝るだけの人生しかない!
※表題句の外、改作も含め12句を記す
御厨から2里ばかりの松原とは、唐津街道の調川-つきのかわ-町近くか。
Photo/松浦市調川港の全景
Photo/松浦市中心部の公園にある松浦党水軍兜の碑
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