山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

雁がねもしづかに聞ばからびずや

2008-04-21 10:23:24 | 文化・芸術
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―表象の森― 両吟歌仙「雁がねの巻」

「雁がねの巻」は、貞享5(1688)年9月半ば、深川芭蕉庵において興行された、芭蕉と越人の二人による両吟歌仙。

越人は越智氏、通称十蔵、槿花翁・負山子とも号す。明暦2(1656)年北越の生れ、流浪して名古屋に到り、野水・杜国・重五らの庇護を受けて染物屋を業とした。俳諧は杜国に学び、入集は「春の日」-荷兮編、貞享3年刊、七部集の第二集-の10句が初見。

貞享元年「冬の日」興行のとき名古屋連衆に付して直門にむ移ったと思われるが、芭蕉に親炙したのは貞享4年11月、杜国の謫居を慰めるべく、鳴海から三河伊良胡崎に案内して以来のことである。

芭蕉の「更科紀行」-貞享5年-に「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹きはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と云。木曽路は山深く道さがしく、旅寝の力も心もとなしと、‥」と越人の名が見える。

杜国を伴って吉野・高野山・須磨・明石と巡遊した芭蕉が、京都から帰東の途に就いたのは同5月10日ごろ、大津・岐阜に逗留ののち7月尾張に入ったが、信州更科の月見を思立って、美濃へと越えたのは8月11日。この折、杜国と別れ代わりにと越人が尾張から同行したかとみえる。越人はそのまま江戸まで随行、8月下旬に芭蕉庵に帰りつき、食客となってしばらく江戸に滞在した。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」-01

  雁がねもしづかに聞ばからびずや  越人

詞書に「深川の夜」とあり。

次男曰く、「雁がね」は雁が音と読んでもよいが、「雁-かりがね-」でよい。
「からぶ」は枯ぶ・乾ぶ、これを枯淡・枯寂の趣にとりなして表現美の一様式としたのは「新古今」時代あたりからで、建仁2(1202)年3月22日、和歌所において後鳥羽院以下7人が試みた「三体和歌」に、「春・夏、此二はふとくおおきによむべし」と六題の約束を定めたのが、文献初出だろう。

晩秋から日本内地に飛来し、翌年仲春頃から北帰する雁の代表的なものは、真雁-マガン-と鴻-ヒシクイ-である。真雁の声はやや細く高く、鴻のほうは太い濁声だが。共に鳴き交しながら群飛する習性があり、けっこう騒がしくきこえる。「からぶ」という印象は必ずしもあたらない。

越人は「秋・冬、此二はからびほそくよむべし」という約束をよく承知していて、少々外れた物に目を付たのではないか。とすれば、句作りの工夫は中七文字にある、と容易にわかる。

その中七を、「深川の夜」とわざわざことわったうえで「しづかに聞ば」と駄目押をした、芸の無さが気に掛かる。下手と云えばそれまでだが、越人ほどのプロなら、「雁がねも水面にからびずや」という類の改案ぐらい思付かなかったとは考えられない。発句の挨拶は、亭主ぶりひいてはその住まいぶりなどを賞めるのが通例だが、「しづかに聞ば」とは、とはどうやらそれとは別のところに含を持った云回しらしい、と気がつく。

深川の夜は格別だ、と云っているわけではない。師弟二人水入らずの秋夜の興は何者にも替えられぬ、と云ってるだけでもなさそうだ。この「しづかに」の含は、当然、亭主芭蕉が釈いてくれる筈である、と。


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