-世間虚仮- 貴きは言祝ぎ、賤しきは臍を噬む
41年ぶりの皇位継承者誕生だそうである。
帝王切開での出産なのだから、今日産まれることは自明のことだったし、男児か女児かどちらかといえば、この日までのマスコミが奇妙なほどに粛々と待ちの姿勢に終始していたことを思えば、男児誕生もほぼ確実視されていたのだろう。
それにしても、TV各局、政治家達も含めて、上や下への騒擾ぶり。此の分ではすでに始まったという皇居での記帳とやらは記録的なものとなるだろう。まことにおめでたいお国柄であり、民たちである。
そういえば、「民」という字は、もとは象形文字で、針で眼を突き刺している形を表し、視力を失わされた奴隷のこと、とどこかで読んだ。孔子も論語で「由らしむべし、知らしむべからず」と曰い、古来、中国でも我が国でも、治世者はすべからく、民の耳目を覆い、真実を隠すことに腐心してきたのだ。
針で眼を突かれずとも、眩しい光りに視力を奪われることもある。この国の多くの人々が、いろいろ不満はあろうとも、小市民的幸福のうちにあると些かなりとも自覚しているとすれば、それが後者だ。
おめでたいニュースより先、私は今朝早く、毎日新聞の一面見出し、「自殺で支払い3600件」にドキリとさせられ、此の世の地獄相を見たような気分に包まれた。
消費者金融各社が、債権回収のため借り手全員に生命保険を掛けていた問題だが、金融庁による大手5社(アコム、アイフル、武富士、プロミス、三洋信販)と契約の保険会社双方への聞き取り調査で、昨年度1年間の保険金支払総数39,880件のうち、自殺によるものと判明しているだけで3,649件というのである。この数字にさえ驚かされ暗澹とした思いに囚われるが、全件には死因の特定できないものも多いのだから、多重債務者の自殺によって購われた実数はもっと大きく、総数の2割にも上るのではないかと予想されている。
ところで警察庁発表の統計資料によれば、自殺者数の推移は、1997(H9)年までの20年間は20,000~25,000人の範囲内であったのが、98(H10)年に32,863人と突出した増加を見せて以来、2003(H15)年の34,427人を最大にして、ずっと31,000ラインを上回っているが、これらの数値と消費者金融の追い込みによるとみられる自殺者数予測とはほぼ見事に符合している。
俗に追い込みといわれる債務取り立ての脅迫的行為は、直接には殺傷せずとも、およそ殺人的暴力にひとしい。彼らはその暴力で、債務者を象形の「民」へと墜とし込む。針で眼を突き刺すのだ。見えぬ眼とはいっさいの判断不能にひとしいのだから、なすがままされるがままだ。
さらには、過去10年間で自己破産が6倍にまで急増しているという現実もあるのに、このほど金融庁が示した消費者金融規制強化のための法改正の骨格案とやらは、経過措置の長期化や特例などで貸金業者らに手厚く配慮した骨抜きのものと成り果てている。
どうやら金融庁のお役人たちは、債務者の生命を代償にしてまで僅かの債権を取り立てようとする悪徳者たちを、水清ければ魚棲まずとばかり、世間というものの必要悪とでもいいたいらしい。
この件では、与党議員たちでさえ批判続出、後藤田正純内閣府政務官などは抗議の辞意表明をしたらしいから、今後の成り行きが注目されるところだが、おめでたいニュースや総裁選騒ぎにかき消されぬことを望みたいが‥‥。
もう一つ、これは三面の囲み記事だが、インターネット利用の届け出や申請事務を、あまりの利用低迷で、「申請1件に管理費194万円」と、とんでもない高コストに音を上げた高知県では、すでに今年3月で運転を休止しているというのだ。
9種の申請事務で一昨年から本格運用した県の利用実績は04(H16)年度が6件、05(H17)年度が27件。電子システムの保守・管理費は2年で計6400万円だったから、1件あたりの平均経費が194万円という驚くべき数字となったわけだ。
10(H22)年度までに国と地方への申請の50%を電子化する方針を掲げているという総務省だが、全国都道府県、市町村の全自治体に、普及とコスト面の実態調査をしてみるべきだろう。
いったいどんな数字が飛び出してくるか考えるだけでも空恐ろしいものがあるが、省役人らはおよそ見当もついていようから、とても白日の下には曝け出せまい。
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<秋-54>
いかにせむ葛のうら吹く秋風に下葉の露のかくれなき身を 相模
新古今集、恋三。
邦雄曰く、詞書に「人知れず忍びけることを、文など散らすと聞きける人に遣はしける」とある。家集には初句と結句を同じくする歌が9首並んでおり、これはその1首。男の軽率な振舞の所為で、「秘めた恋も他人に知られてしまった、あたかも秋吹く風に葛の葉裏の露があからさまに見えるように」と歎く。艶書(けそうぶみ)合せの催された時代のこと、深刻な意味はない、と。
妹がりと風の寒さに行くわれを吹きな返しそさ衣の裾 曾禰好忠
好忠集、毎月集、秋、九月中。
邦雄曰く、晩秋の身に沁む風が、女の許へ急ぐ作者を吹く。例によって常套を破った修辞が快い。「風の寒さに行くわれを」など、当時の伝統的な歌人の添削欲を唆ったことだろう。結句も普通なら「袖」とするところを「裾」としたので、足許が冷え上がってくる感じが、露骨なくらいよく判る。好忠集の毎月集9月中旬は、この歌を終りに置いた、と。
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